今回の能「名取ノ老女」は、世阿弥の甥の音阿弥が寛正5年(1464年)に上演した記録のある古い能であるが、明治時代に廃曲されて上演されなくなり、忘れ去られていたと言う。
それを、東北地方に息衝く熊野信仰を背景に、熊野権現の神詠譚と名取の地に熊野三山を勧請したとされる名取老女の説話を基にして、ひたすら神に祈る老女の姿、その祈りが通じる奇跡、慈愛を湛えた老巫女の舞と神の出現などを念頭にして、震災からの「文化による復興」を祈念して、新しい趣向を凝らして作り上げられた復曲能である。
私のような能初心者にとっては、有名な古曲であっても、復曲であっても、新作であっても、同じようにしか鑑賞できないのだが、前回の「世阿弥」の時と同じように、2回とも連続して出かけた。
今回は、初日は、名取ノ老女を梅若玄祥、護法善神を宝生和英で、二日目は、大槻文藏と金剛龍謹が舞い、異流公演でもあり、違いもあろうと思って、興味深く鑑賞させてもらった。
初日は、玄祥師の体調が思わしくないと言うことで、冒頭部分の一部詞章の省略などもあって、すぐに、孫娘(松山絢美)の肩に手を添えて舞台に登場されたが、文藏師の方は、この省略部分も含めて、橋掛かりで、孫娘と対面しながらの演技で、舞台へは大分経過してからであった。
演出:大槻文藏と言うことであろうから、この二日目の舞台が、本来の意図した演出であろうか。
護法善神については、龍謹師が、プログラムで述べているように、面、装束、型も全く違って、それぞれの流儀の特徴を楽しめば幸いだということで、例えば、面は、宝生は鷹、金剛は大飛出で、衣装も違っているので、大分雰囲気にも差があり、舞姿もかなり差があって興味深かった。
例えば、揚幕からの登場からも違いが明瞭であり、ラストの「護法は上がらせ給ひけれ」で揚幕に消えて行くシーンでも、和英師は、御幣(?)を投げ捨て退場したが、龍謹師は、御幣を投げた後で、橋掛かりで軽く飛んで一回りして少し休止して退場した。
さて、この復曲能だが、
能楽タイムズに極めて簡潔明瞭に、「名取ノ老女」のあらすじが書かれているので借用すると、
”熊野三山の山伏が陸奥行脚の暇乞のために本宮に通夜したところ、名取の里に住む老巫女に信託を届けよとの霊夢を見る。この老女はかつて熊野に年詣をしていたが、今は年老いて詣でることができず、名取の地に熊野三山を勧請して祈りを捧げている者で、山伏は名取の里で老女に対面し、霊夢で授けられた虫食いのある梛の葉を渡す。そこには熊野の神詠「道遠し年もやうやう老いにけり思ひおこせよ我も忘れじ」とあり、あまりの有り難さに老女は涙する。老女は勧進した熊野三山に山伏を案内し、「熊野の本地」を物語る。そして法楽の舞をはじめると、熊野権現の使役神・護法善神が颯爽と現れて、老女を祝福し、国土安穏を約束して去っていく。”
名取の熊野三社については、この能のように、熊野信仰の厚い名取老女が勧請したと一般に信じられているようで、名取老女の墓も現存する。
熊野神社が700社も東北地方に存在し、その東北の熊野信仰の中心的存在にあったのが名取熊野三社であり、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模し、本宮・新宮・那智の三社が存在し、紀伊熊野の三社それぞれを地理的・方角的に同様にセット状態で勧請しているのは非常に珍しいと言う。
私は、管理を担当していたゴルフ場が名取にあって、何度も名取を訪れて仕事をしていたのだが、仕事一途で、ついに、この立派な熊野三社の存在も知らなかったので、訪れることもなく、今に思えば、残念であったと思っている。
さて、能鑑賞よりも、雑事が気になるのが、凡人の悲しさで、その熊野三社を勧請した名取ノ老女がどのような人であったのか、その背景が知りたくなる。
説明によると、47回熊野に詣でて、48回目に老衰で足が立たず輿に乗って参詣し、それ以降、熊野の霊夢を受けて名取の熊野三社を勧請したと言うのであるから、相当の権力者か財の蓄積に秀でた人物でなければならない筈であるが、史実には、その片鱗さえも残されていない。
これについては、パンフレットで、中沢新一が、明快に論じており、私もそうではないかと思う。
名取ノ老女は、熊野詣でにしょっちゅう行っており、遊女ではないかと思う、東北から熊野まで相当の距離があり、室町時代の軽さで結構自由に船で移動していたと言うのである。 「名取ノ遊女」は、毎年熊野に行って、途中の港にいる顧客相手に商売し、財産家でお金を持っており、ポケットマネーを持って熊野に行く。
そう言う熊野詣でをしていた遊女は沢山いて、音阿弥も、そういう背景でこの曲を書いていると思うと言うのである。
知識教養もあり、魅力的な女性であったのであろう、名取ノ老女を、遊女だったのではなどと言うと、宗教に対する冒涜のような感じがするが、聖人であるマグダラのマリアの例もある。
何の不自由もなく恵まれて平々凡々と暮らして居れば、宗教など何の関係もないように感じるのだが、人生には、どうしようもなくなって、生きるか死ねか窮地に立てば、祈る以外に道がなく、必死になって祈り続ける。
正に、東日本を急襲して瞬時に阿鼻叫喚の地獄を現出した3.11は、その瞬間であり、これほど、祈りの尊さと凄さを教えてくれたことはないと思っている。
死の世界ばかりを描いている能の世界が、最近、少し分かってきたような気がするのは、歳の所為ばかりではないと感じている。
音阿弥の意図はともかく、熊野三社を勧請するためには、相当、財力が必要であった筈で、この老女の努力があったにしろ、東西交易で全国を船で駆け回っていた海民たちが、海の航海の安寧を願って、神社を建てたのであろうと私は思っている。
平家物語で、喜界が島に流された3人のうち、熊野三社を勧請して祈りを捧げた藤原成経と平康頼だけが返されて、俊寛だけが残されたと言う話を引いて、熊野三社の霊験あらたかさが語られているが、信仰と言うのは人知を超えていて、私などの考えの及ぶところではないと感じている。
そんなことを、色々考えさせてくれる、私にとっては貴重な舞台であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/cd/041dc08c52e22f830f9c0b436b023a2f.jpg)
それを、東北地方に息衝く熊野信仰を背景に、熊野権現の神詠譚と名取の地に熊野三山を勧請したとされる名取老女の説話を基にして、ひたすら神に祈る老女の姿、その祈りが通じる奇跡、慈愛を湛えた老巫女の舞と神の出現などを念頭にして、震災からの「文化による復興」を祈念して、新しい趣向を凝らして作り上げられた復曲能である。
私のような能初心者にとっては、有名な古曲であっても、復曲であっても、新作であっても、同じようにしか鑑賞できないのだが、前回の「世阿弥」の時と同じように、2回とも連続して出かけた。
今回は、初日は、名取ノ老女を梅若玄祥、護法善神を宝生和英で、二日目は、大槻文藏と金剛龍謹が舞い、異流公演でもあり、違いもあろうと思って、興味深く鑑賞させてもらった。
初日は、玄祥師の体調が思わしくないと言うことで、冒頭部分の一部詞章の省略などもあって、すぐに、孫娘(松山絢美)の肩に手を添えて舞台に登場されたが、文藏師の方は、この省略部分も含めて、橋掛かりで、孫娘と対面しながらの演技で、舞台へは大分経過してからであった。
演出:大槻文藏と言うことであろうから、この二日目の舞台が、本来の意図した演出であろうか。
護法善神については、龍謹師が、プログラムで述べているように、面、装束、型も全く違って、それぞれの流儀の特徴を楽しめば幸いだということで、例えば、面は、宝生は鷹、金剛は大飛出で、衣装も違っているので、大分雰囲気にも差があり、舞姿もかなり差があって興味深かった。
例えば、揚幕からの登場からも違いが明瞭であり、ラストの「護法は上がらせ給ひけれ」で揚幕に消えて行くシーンでも、和英師は、御幣(?)を投げ捨て退場したが、龍謹師は、御幣を投げた後で、橋掛かりで軽く飛んで一回りして少し休止して退場した。
さて、この復曲能だが、
能楽タイムズに極めて簡潔明瞭に、「名取ノ老女」のあらすじが書かれているので借用すると、
”熊野三山の山伏が陸奥行脚の暇乞のために本宮に通夜したところ、名取の里に住む老巫女に信託を届けよとの霊夢を見る。この老女はかつて熊野に年詣をしていたが、今は年老いて詣でることができず、名取の地に熊野三山を勧請して祈りを捧げている者で、山伏は名取の里で老女に対面し、霊夢で授けられた虫食いのある梛の葉を渡す。そこには熊野の神詠「道遠し年もやうやう老いにけり思ひおこせよ我も忘れじ」とあり、あまりの有り難さに老女は涙する。老女は勧進した熊野三山に山伏を案内し、「熊野の本地」を物語る。そして法楽の舞をはじめると、熊野権現の使役神・護法善神が颯爽と現れて、老女を祝福し、国土安穏を約束して去っていく。”
名取の熊野三社については、この能のように、熊野信仰の厚い名取老女が勧請したと一般に信じられているようで、名取老女の墓も現存する。
熊野神社が700社も東北地方に存在し、その東北の熊野信仰の中心的存在にあったのが名取熊野三社であり、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模し、本宮・新宮・那智の三社が存在し、紀伊熊野の三社それぞれを地理的・方角的に同様にセット状態で勧請しているのは非常に珍しいと言う。
私は、管理を担当していたゴルフ場が名取にあって、何度も名取を訪れて仕事をしていたのだが、仕事一途で、ついに、この立派な熊野三社の存在も知らなかったので、訪れることもなく、今に思えば、残念であったと思っている。
さて、能鑑賞よりも、雑事が気になるのが、凡人の悲しさで、その熊野三社を勧請した名取ノ老女がどのような人であったのか、その背景が知りたくなる。
説明によると、47回熊野に詣でて、48回目に老衰で足が立たず輿に乗って参詣し、それ以降、熊野の霊夢を受けて名取の熊野三社を勧請したと言うのであるから、相当の権力者か財の蓄積に秀でた人物でなければならない筈であるが、史実には、その片鱗さえも残されていない。
これについては、パンフレットで、中沢新一が、明快に論じており、私もそうではないかと思う。
名取ノ老女は、熊野詣でにしょっちゅう行っており、遊女ではないかと思う、東北から熊野まで相当の距離があり、室町時代の軽さで結構自由に船で移動していたと言うのである。 「名取ノ遊女」は、毎年熊野に行って、途中の港にいる顧客相手に商売し、財産家でお金を持っており、ポケットマネーを持って熊野に行く。
そう言う熊野詣でをしていた遊女は沢山いて、音阿弥も、そういう背景でこの曲を書いていると思うと言うのである。
知識教養もあり、魅力的な女性であったのであろう、名取ノ老女を、遊女だったのではなどと言うと、宗教に対する冒涜のような感じがするが、聖人であるマグダラのマリアの例もある。
何の不自由もなく恵まれて平々凡々と暮らして居れば、宗教など何の関係もないように感じるのだが、人生には、どうしようもなくなって、生きるか死ねか窮地に立てば、祈る以外に道がなく、必死になって祈り続ける。
正に、東日本を急襲して瞬時に阿鼻叫喚の地獄を現出した3.11は、その瞬間であり、これほど、祈りの尊さと凄さを教えてくれたことはないと思っている。
死の世界ばかりを描いている能の世界が、最近、少し分かってきたような気がするのは、歳の所為ばかりではないと感じている。
音阿弥の意図はともかく、熊野三社を勧請するためには、相当、財力が必要であった筈で、この老女の努力があったにしろ、東西交易で全国を船で駆け回っていた海民たちが、海の航海の安寧を願って、神社を建てたのであろうと私は思っている。
平家物語で、喜界が島に流された3人のうち、熊野三社を勧請して祈りを捧げた藤原成経と平康頼だけが返されて、俊寛だけが残されたと言う話を引いて、熊野三社の霊験あらたかさが語られているが、信仰と言うのは人知を超えていて、私などの考えの及ぶところではないと感じている。
そんなことを、色々考えさせてくれる、私にとっては貴重な舞台であった。
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