この本は、大野和基の著名な経済学者等とのインタビュー記事を集大成した本で、カレントトピックスに集中しているので面白い。
丁度、先日レビューしたトーマス・セドラチェク, オリヴァー・タンツァー 著「続・善と悪の経済学 資本主義の精神分析」出版後のセドラチェクとのインタビュー記事が含まれていたので、参考になるかと思って読んでみた。
セドラチェクの前著は、先の「善と悪の経済学」と主義主張は殆ど変っていないと思うのだが、フロイトやユングの理論を展開しながらの資本主義を精神分析手法での分析なので、心理学等の基礎知識のない私には苦痛であった。
しかし、いずれにしろ、セドラチェクの見解は、本人の言をそのまま引用すると、経済学が纏っている合理性と数学でできたマントを剥ぎ取り、一見素晴らしい理論と合理的に選択された行動と、ブラック=ショールズ方式の算出可能性のみで形成されている経済学が魅惑する上着を排除することで、古い時代の賢明な経済学者が未来の経済学においては精神分析が重要な位置を占めるだろうと預言したように、精神分析によって、数学のみに依拠していた経済学が、最高の学問になりうる。と言うことである。
数学偏重の現代経済学に反発しているのだが、経済学が現実に合っていないと言う反論は、ガルブレイスの「悪意なき欺瞞」などでも論じてきたが、
セドラチェクは、完全に無視され続けていた持論が、現代経済学が暗礁に乗り上げた2008年の金融危機を境に一気に認められたと述べているのが面白い。
もう一つの論点は、成長を当然として前提としている経済学への批判。
我々を取り巻くシステムは、今、徐々に安定を欠いてきている。天然資源は、既に、現代の経済戦争の戦場と化し、社会は、まるで、自身を食い潰すことでしか成長できないように見える。「成長しなければならない」という脅迫は躁的な経済危機へとつながり、人々の価値観を変え、既に手に入れた進歩を粉々に破壊しかねない。
破壊への道をこのまま進むか新しい道を行くか、岐路に立っている。
もし、新しい道を行くのなら、己の属性の一部を再発見し、経済的行為や思考によって生活から閉め出されていた共感や創造性や忍耐、自分を信頼する能力、独自の直感などを蘇らせなければならない。と言う。
さて、この本で、セドラチェクは、成長に対する経済学の病として、3点を指摘している。
第一の病は、経済の成長を子供の成長のように扱っていることで、その成長の保障はない。
第二の病は、経済を非常に速いスピードで走らせていることで、成長が経済の自然な状態であると勘違いしている。
第三の病は、意思のある者が多く取り、意思のないものは少なく取る傾向、すなわち、経済格差を拡大させる純粋資本主義の弊害、
成長至上主義こそが社会の病に繋がっており、「フェア・ゲーム」ができる公正な社会でなければならないという考え方である。
経済成長についての私の考え方は、前回もその前にも随分書いてきたので端折るが、最近の経済の成長進化は、GDPなどの数値では表せない、質の向上に体現される傾向が強くなって、形を変えて、経済が社会の進化発展を支えている、すなわち、GDPベースでの経済成長率は低下しているのだが社会がどんどん変化して良くなっている(?)という新常態を注視すべきだと思っていることを補足しておきたい。
また、資本主義は、共産主義と違って、批判されるためにあり、完全なシステムではないので、うまく矯正すれば完全になり得る。資本主義は、批判して、変えて行くべきだという。
セドラチェクの社会に対するイメージは、ケインズと非常に似ており、いつか、社会が豊かになり、テクノロジーも発展して、人間が人間としてやるべき運命にあることができる社会で、生計を立てる手段についても悩まなくてもいい社会である。誰もが自分のやりたい仕事、存在意義を見出せるような仕事をできるのが理想だという。
現代資本主義を憂い糾弾しながらも、楽観的と言うべきか、社会はその理想にかなり近づいていると言うのが私の考えである。と述べるあたり、真意が何処にあるのか分からない。
丁度、先日レビューしたトーマス・セドラチェク, オリヴァー・タンツァー 著「続・善と悪の経済学 資本主義の精神分析」出版後のセドラチェクとのインタビュー記事が含まれていたので、参考になるかと思って読んでみた。
セドラチェクの前著は、先の「善と悪の経済学」と主義主張は殆ど変っていないと思うのだが、フロイトやユングの理論を展開しながらの資本主義を精神分析手法での分析なので、心理学等の基礎知識のない私には苦痛であった。
しかし、いずれにしろ、セドラチェクの見解は、本人の言をそのまま引用すると、経済学が纏っている合理性と数学でできたマントを剥ぎ取り、一見素晴らしい理論と合理的に選択された行動と、ブラック=ショールズ方式の算出可能性のみで形成されている経済学が魅惑する上着を排除することで、古い時代の賢明な経済学者が未来の経済学においては精神分析が重要な位置を占めるだろうと預言したように、精神分析によって、数学のみに依拠していた経済学が、最高の学問になりうる。と言うことである。
数学偏重の現代経済学に反発しているのだが、経済学が現実に合っていないと言う反論は、ガルブレイスの「悪意なき欺瞞」などでも論じてきたが、
セドラチェクは、完全に無視され続けていた持論が、現代経済学が暗礁に乗り上げた2008年の金融危機を境に一気に認められたと述べているのが面白い。
もう一つの論点は、成長を当然として前提としている経済学への批判。
我々を取り巻くシステムは、今、徐々に安定を欠いてきている。天然資源は、既に、現代の経済戦争の戦場と化し、社会は、まるで、自身を食い潰すことでしか成長できないように見える。「成長しなければならない」という脅迫は躁的な経済危機へとつながり、人々の価値観を変え、既に手に入れた進歩を粉々に破壊しかねない。
破壊への道をこのまま進むか新しい道を行くか、岐路に立っている。
もし、新しい道を行くのなら、己の属性の一部を再発見し、経済的行為や思考によって生活から閉め出されていた共感や創造性や忍耐、自分を信頼する能力、独自の直感などを蘇らせなければならない。と言う。
さて、この本で、セドラチェクは、成長に対する経済学の病として、3点を指摘している。
第一の病は、経済の成長を子供の成長のように扱っていることで、その成長の保障はない。
第二の病は、経済を非常に速いスピードで走らせていることで、成長が経済の自然な状態であると勘違いしている。
第三の病は、意思のある者が多く取り、意思のないものは少なく取る傾向、すなわち、経済格差を拡大させる純粋資本主義の弊害、
成長至上主義こそが社会の病に繋がっており、「フェア・ゲーム」ができる公正な社会でなければならないという考え方である。
経済成長についての私の考え方は、前回もその前にも随分書いてきたので端折るが、最近の経済の成長進化は、GDPなどの数値では表せない、質の向上に体現される傾向が強くなって、形を変えて、経済が社会の進化発展を支えている、すなわち、GDPベースでの経済成長率は低下しているのだが社会がどんどん変化して良くなっている(?)という新常態を注視すべきだと思っていることを補足しておきたい。
また、資本主義は、共産主義と違って、批判されるためにあり、完全なシステムではないので、うまく矯正すれば完全になり得る。資本主義は、批判して、変えて行くべきだという。
セドラチェクの社会に対するイメージは、ケインズと非常に似ており、いつか、社会が豊かになり、テクノロジーも発展して、人間が人間としてやるべき運命にあることができる社会で、生計を立てる手段についても悩まなくてもいい社会である。誰もが自分のやりたい仕事、存在意義を見出せるような仕事をできるのが理想だという。
現代資本主義を憂い糾弾しながらも、楽観的と言うべきか、社会はその理想にかなり近づいていると言うのが私の考えである。と述べるあたり、真意が何処にあるのか分からない。