熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

野村万作著「狂言を生きる 」

2020年07月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   人間国宝和泉流狂言師野村万作の素晴らしい本である。
   能楽堂に、能や狂言を観たく聴きたくて通っては居るのだが、この本を読んでいて、改めて古典芸能としての狂言の凄さを教えられた感じで、あまりにも、いい加減に狂言を鑑賞していたようで、もう少し襟を正して舞台に接しなければならないと反省しきりとなって、万作師の狂言にかける命、芸道への切磋琢磨の精進を実感した、と言うのが正直な読後感である。

   さて、まず、万作師の舞台だが、
   私が観てこのブログに書いているのが次の作品だが、間狂言や他の舞台もあり、それぞれ、複数回の舞台もあり、かなりの舞台を観て、楽しませて貰っていることになる。
   三番叟、隠狸、法師が母、末広がり、樋の酒、舟渡聟、蝸牛、文荷、二人袴、苞山伏、二人大名、柑子、骨皮、見物左衛門、三本柱、世阿弥の語り手、樽聟、鬼瓦
   それに、新作では、法螺侍と楢山節考。

   法螺侍は、シェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」の狂言バージョンで、ロンドンのジャパンフェスティバルで観て、いたく感激して狂言ファンとなって、主に、国立能楽堂に通い詰める切っ掛けとなったのである。
   この本にも書かれているのだが、法螺侍の万作師が、洗濯籠に入れられてテムズ川に捨てられに行く場面で、天秤棒を担いで太郎冠者たちが謡いながら足を上げ、リズムを取りながら進んでいくのに、籠がないのに、あたかも籠の中でリズムを取って転げ回るのだが、その至芸と言うべき巧みさ、招待したイギリス人夫妻が感嘆・舌を巻いていたのを鮮明に覚えている。
   私など、シェイクスピアのファンで、RSCの「ウィンザーの陽気な女房たち」の舞台や、そのオペラ版のヴェルディの「ファルスタッフ」を観てよく知ってる戯曲なので、凄い経験であった。
   「楢山節考」は、最近の観劇だが、坂本スミ子の凄い映画とは違った、非常に詩情豊かな美しい舞台に感動した。
   こうなれば、狂言という世界とは違った、パフォーマンス・アーツの極致である。

   この本で、まず、「猿に始まり狐で終わる」で、靭猿、那須与市語、三番叟から、秘曲の釣狐、花子について藝話を語り、特に、釣狐については非常に詳しく袴狂言への昇華まで語っており、
   万作狂言名作選では、末広がりから13曲、新しい試みでは、楢山節考から5曲、舞台の詳細や経験談など含蓄のある解説を加えていて舞台鑑賞への魅力が増す。
   私は、野村萬の「花子」を観て非常に感動したのだが、まだ、「釣狐」を観ていない。
   しかし、この大曲「釣狐」の狸版とも言われる「射狸」は、山本東次郎で観ている。

   さて、興味があったのは、万作師の伝統についての考え方である。
   冒頭、「狂言の家」で、師であり実父であった野村万蔵の藝を、「江戸前狂言の開祖」と称されて、父から自分たちが継いできた「江戸前」の芸風を祐基にも受け継いでいって欲しい」と言っている。
   世阿弥の名言にもある「家、家にあらず、継ぐを以て家となす」の意を私は、家を継ぐとは名前を継ぐのではなく、芸風を継ぐことだと考えています。と言う。
   また、従来の狂言から離れて多方面に活躍の場を広げている萬斎師の活躍に賛意を表して、能楽堂以外での演能には演出という概念が必要であろうし、大きな流れから言って、祖父、父、自分、倅とで、それぞれ、狂言が違っていて良いのであって、これは時代の流れである。江戸期の家元にしろ、世阿弥にしろ、「今の時代に合った狂言」「場を心得た狂言」と言っていて、そういう精神が流れているからこそ、狂言が今日まで生きてきたのではないか。と言うのである。
   
   万作師の他の狂言師との違いは、若い頃の、武智鉄二や京都の茂山家との共演、観世3兄弟との交流など異分野や異流との接触が多く、更に海外での公演などを通じて狂言の隆盛を助長したことで、能楽協会を押し切って、「夕鶴」公演に出たり、「彦市ばなし」や「月に取り憑かれたピエロ」などをやり、何か新しいものを創って見たいと思って、楢山節考などを創作したことであろうと思う。
   私には、古典芸能の世界は分からないが、能や狂言の世界から歌舞伎が隔離されてきたことや、文楽と歌舞伎との義太夫の交流がなかったこと、それに、この本でも茂山家の記録などでも、狂言の世界では、新しいことを試みようとしたり、他の芸能との交流をしたりすると横やりが入ったり忌避されたと言うことで、純粋培養のようなシステムはどうかと思うのだが、古典芸能の長い間の伝統であったらしい。
   演出者がいないという事かも知れないし、伝統重視の芸能の良さも当然あるのだが、オペラやシェイクスピアなどの欧米の芝居の、世につれ人につれての変化バリエーションは想像を超えており、毀誉褒貶など意に介せず、伝統とは何かと考えさせられる世界とは雲泥の差であることを思うと興味深い。

   私自身は、あのルネサンスが、文化文明の十字路であったメディチ家のフィレンツェに、当時の最先端の文化文明、知識やテクノロジーや芸術が結集してぶつかり合って爆発したが故に、限りなき新しい価値を生み出して生まれたものだと思っているので、異文化異分子との交流忌避や禁止など、成長発展への最大の冒涜だと思っているだけである。
   経済成長も国家の発展も、シュンペーターの説く創造的破壊であって、茂木健一郎も言っているように、創造性を生むのは「経験×意欲」であって、無から生まれでるのではなく、個人の経験知識の豊かさのみならず、異質な芸術や学問、あるいは多岐多様な異文化の遭遇が多様性を育み、創造性を爆発させるメディチ・イフェクトだと言うことである。
   これは、私自身の暴言だとしても、万作師は、他流派の先達の藝に啓発され、異分野の芸能との交流によって藝の肥やしを得たなど、その効用を随所で述べている。

   もう一つ興味深い指摘は、能と狂言との関係で、「太郎冠者を生きる」など前作では、狂言が低く見られていることを慨嘆していたのだが、
   狂言の演者は、「美しさ」「面白さ」「おかしさ」の順で藝を考えて、そのような思いで観客が見てくれるのが理想で、その美しさの先には、能に繋がって行く要素があり、狂言を追求して行くと能に連なっていくところがある。能と狂言が現代において融合する、能的質と狂言的質とが現代という場において結びついた舞台というのが私の夢なのです。と言っていることである。
コメント
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