NHK BSPの放映映画「東京オリンピック」を観て、無性に懐かしくなって、あの頃の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡り、しばらく感慨にふけっていた。
丁度、大学を出て会社に入って、新生活のスタートを切った年でもあったが、当時は、大阪勤務であったので、オリンピックは、テレビでの鑑賞であった。
この映画は、記録映画と言うよりは非常に芸術性の高い作品であったので、当時のオリンピック担当大臣の河野一郎がイチャモンを付けたので、高峰秀子が抗議して、大臣と市川崑監督との中に入ったという話は、高峰の「わたしの渡世日記」や「高峰秀子かく語りき」にも詳しいのだが、カンヌ国際映画祭では国際批評家賞、英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞するなどしており、とにかく、当時の最先端の映画技術を駆使して、高度な芸術作品を創作したのであるから、半世紀経た今でも色あせることなく感動的である。
こみ上げてきた感動は、この凄い東京オリンピックの映像と言うこともあるが、このオリンピックが、私自身の海外への憧れの原点となっていたということで、冒頭の画面で、次から次へと登場してくる外国人団体の映像を見て、その後、期せずして世界中を飛び回って歩んできた奇蹟とも思えるような自分の人生を思い出しての感慨である。
芭蕉の心境にはほど遠いのだが、住めば都、海外を歩き続けてきたあっちこっちにある海外への望郷である。
さて、もう一つの次の世界への遭遇は、1970年の大阪万博であった。
当時、万博近くの高槻に住んでいたので、主に、観客の少なくなる夜の部をめがけて何回か訪れて、かなり、熱心に観て、月の石のあったアメリカ館やソ連館など外国館を殆ど回った。
ソ連館にあった木製の精巧な教会の模型を観て感激して是非観たいと思ったのを覚えているが、何十年も後で、ソ連ではないが北欧の田舎で観たときには感激であった。
スイス館の前の広場で、1歳になった長女が、一歩二歩初めて歩いたのも、懐かしい思い出である。
ところが、大阪万博が終わると、会社の本社が、大阪から東京に移って、同時に東京に転勤し、しばらくしてから、人事部長に呼び出されて、海外留学の命令を受けた。
正直なところ、レイジーな性格なので、留学制度はあったのだが、無理をして海外で勉強しようなどという気持ちはなかったので、全く意識外だったのだが、「山に登れ」と言われれば、挑戦するのは当然、
どうしたら、海外の大学院に入学できるのか、全く、分からずに困って、まず、赤坂のフルブライト委員会に出かけて、資料を繰って、大体の事情を把握した。
とにかく、TOEFLとATGSBの試験を受けて、大学院を決めて応募することだと言うことが分かったのだが、受験勉強と京大の教養部の英語くらいの実力程度で、多少、英語の読み書きくらいはできるとしても、映画館に行って観たアメリカの映画も殆ど分からないし、会話などには全く自信がない、その上に、準備には後半年もない。
今でも、信じられないのだが、幸運というか、運命の粋な計らいと言うか、とにかく、世界屈指のビジネス・スクールであるウォートン・スクールに入学を許されて、翌年1972年の夏に、はじめて、海を渡ってフィラデルフィアへ向かった。
寝ぼけ眼で、眼下のカリフォルニアの大地を見下ろしたときには、結界を超えて新しい世界に足を踏み出したことを感じて身震いした。
東京オリンピックで、異国を強烈に感じて憧れた外国が、8年後に、自分の世界になった瞬間であった。
敗戦後の食うや食わずの幼少年時代の困窮生活を送り、やっと、神武景気で貧しさから脱して上向きかけた日本で社会人として生活を始めた自分には、考えられないような新世界への旅立ちであった。
この留学の間に、2週間ヨーロッパ旅行をしたことは先日書いたが、翌年の休暇にメキシコや、イエローストーンやグランドキャニオンを歩いたのだが、当時は、車さえあれば貧乏な学生旅行なら、いくらでもできた。
それに、ニューヨークまでは、割引の鈍行アムトラックで、朝、フィラデルフィアを出て、夜のメトロポリタン歌劇場でオペラを観て、深夜便でフィラデルフィアに向かい、午前2時頃、真っ暗な夜道を、危険を覚悟で歩いて学生寮に帰ることもあった。
1974年初夏に帰国して、荷物を解かないうちに、ブラジルへの赴任命令が出て、秋に、アマゾンの上空を飛んでサンパウロに向かった。
中南米で、ビジネス・スクールで勉強した国際ビジネスの手法を反復しながら苦労して仕事をし、ヨーロッパ経由で日本に帰ったのは1979年、
帰ってきてすぐに、ホテル建設案件で北京へ出張して、文革後の貧しい中国を実地検分するという願ってもない経験をした。
どうしようもないほど貧しくて、混乱状態の全く覇気のない病大国中国を見知っていることが、その後の中国理解に非常に役立っている。
とにかく、ホテルの予約可能客室数だけしか、入国ビザが下りず、政府との交渉も相手任せで、何時、会えるか分からず、何日も滞在した。
あの北京の紫禁城など、たしか天安門から入ったと思うのだが、中には役人など一人も居らず、自由に何処へでも、そして、西太后のあの玉座へも近づけたし、観光客は、中国人が僅かにいるだけで、広大な紫禁城なので、殆ど無人状態であり閑散としていた。
一部、国宝級の展示物が個室に展示されていたが、壮大な多くの建物には、一切の装飾がなくて、がらんとしていたが、清朝の頃のそのままであった。
中国の5000年の壮大な歴史を感じて身震いしたのだが、その当時は、現在の中国の姿など、思いもよらなかったのである。
その後、東京で海外事業の管理部門の仕事を6年間して、海外に出張することが多くて、年に100日くらいは、東南アジアや中東、アメリカに出ていて、1985年から1993年までヨーロッパに滞在していたので、国名も変っているので確かなことは言えないのだが、1泊以上した国は、40カ国を大分越えていると思っている。
チャールズ皇太子やダイアナ妃とも握手してお話しするなど、信じられないような世界を幾度も経験したが、それも、思い切って世界へ飛出した御陰であろう。
ウォートン・スクールのMBAがパスポートになって、臆することなく、切った張ったの国際ビジネスを、欧米で展開することができた。
楽しいことよりも、苦しいことと言うか、思い出したくないことの方が多いような気がするし、随分危険なことにも遭遇したのだが、今回の「東京オリンピック」の映画を観て、海外での思い出がこみ上げてきて、しばらく、たまらなくなって呆然としていた。
手元には、海外の資料が殆どないのだが、倉庫には、撮り溜めた海外での写真やネガが、大きな化粧箱2箱あって、オペラやコンサートのパンフレットや資料など4箱あるなど、結構色々なものが残っており、どうせ、私が死ねば、そのまま、廃却されるので、一応寝た子を起こすつもりで整理しようと思っている。
このブログは、わが海外人生を記録に残そうと思って始めたのだが、まだ、殆ど目的を果たしていないので、書き残したい思い出も蘇るかも知れないと思っている。
丁度、大学を出て会社に入って、新生活のスタートを切った年でもあったが、当時は、大阪勤務であったので、オリンピックは、テレビでの鑑賞であった。
この映画は、記録映画と言うよりは非常に芸術性の高い作品であったので、当時のオリンピック担当大臣の河野一郎がイチャモンを付けたので、高峰秀子が抗議して、大臣と市川崑監督との中に入ったという話は、高峰の「わたしの渡世日記」や「高峰秀子かく語りき」にも詳しいのだが、カンヌ国際映画祭では国際批評家賞、英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞するなどしており、とにかく、当時の最先端の映画技術を駆使して、高度な芸術作品を創作したのであるから、半世紀経た今でも色あせることなく感動的である。
こみ上げてきた感動は、この凄い東京オリンピックの映像と言うこともあるが、このオリンピックが、私自身の海外への憧れの原点となっていたということで、冒頭の画面で、次から次へと登場してくる外国人団体の映像を見て、その後、期せずして世界中を飛び回って歩んできた奇蹟とも思えるような自分の人生を思い出しての感慨である。
芭蕉の心境にはほど遠いのだが、住めば都、海外を歩き続けてきたあっちこっちにある海外への望郷である。
さて、もう一つの次の世界への遭遇は、1970年の大阪万博であった。
当時、万博近くの高槻に住んでいたので、主に、観客の少なくなる夜の部をめがけて何回か訪れて、かなり、熱心に観て、月の石のあったアメリカ館やソ連館など外国館を殆ど回った。
ソ連館にあった木製の精巧な教会の模型を観て感激して是非観たいと思ったのを覚えているが、何十年も後で、ソ連ではないが北欧の田舎で観たときには感激であった。
スイス館の前の広場で、1歳になった長女が、一歩二歩初めて歩いたのも、懐かしい思い出である。
ところが、大阪万博が終わると、会社の本社が、大阪から東京に移って、同時に東京に転勤し、しばらくしてから、人事部長に呼び出されて、海外留学の命令を受けた。
正直なところ、レイジーな性格なので、留学制度はあったのだが、無理をして海外で勉強しようなどという気持ちはなかったので、全く意識外だったのだが、「山に登れ」と言われれば、挑戦するのは当然、
どうしたら、海外の大学院に入学できるのか、全く、分からずに困って、まず、赤坂のフルブライト委員会に出かけて、資料を繰って、大体の事情を把握した。
とにかく、TOEFLとATGSBの試験を受けて、大学院を決めて応募することだと言うことが分かったのだが、受験勉強と京大の教養部の英語くらいの実力程度で、多少、英語の読み書きくらいはできるとしても、映画館に行って観たアメリカの映画も殆ど分からないし、会話などには全く自信がない、その上に、準備には後半年もない。
今でも、信じられないのだが、幸運というか、運命の粋な計らいと言うか、とにかく、世界屈指のビジネス・スクールであるウォートン・スクールに入学を許されて、翌年1972年の夏に、はじめて、海を渡ってフィラデルフィアへ向かった。
寝ぼけ眼で、眼下のカリフォルニアの大地を見下ろしたときには、結界を超えて新しい世界に足を踏み出したことを感じて身震いした。
東京オリンピックで、異国を強烈に感じて憧れた外国が、8年後に、自分の世界になった瞬間であった。
敗戦後の食うや食わずの幼少年時代の困窮生活を送り、やっと、神武景気で貧しさから脱して上向きかけた日本で社会人として生活を始めた自分には、考えられないような新世界への旅立ちであった。
この留学の間に、2週間ヨーロッパ旅行をしたことは先日書いたが、翌年の休暇にメキシコや、イエローストーンやグランドキャニオンを歩いたのだが、当時は、車さえあれば貧乏な学生旅行なら、いくらでもできた。
それに、ニューヨークまでは、割引の鈍行アムトラックで、朝、フィラデルフィアを出て、夜のメトロポリタン歌劇場でオペラを観て、深夜便でフィラデルフィアに向かい、午前2時頃、真っ暗な夜道を、危険を覚悟で歩いて学生寮に帰ることもあった。
1974年初夏に帰国して、荷物を解かないうちに、ブラジルへの赴任命令が出て、秋に、アマゾンの上空を飛んでサンパウロに向かった。
中南米で、ビジネス・スクールで勉強した国際ビジネスの手法を反復しながら苦労して仕事をし、ヨーロッパ経由で日本に帰ったのは1979年、
帰ってきてすぐに、ホテル建設案件で北京へ出張して、文革後の貧しい中国を実地検分するという願ってもない経験をした。
どうしようもないほど貧しくて、混乱状態の全く覇気のない病大国中国を見知っていることが、その後の中国理解に非常に役立っている。
とにかく、ホテルの予約可能客室数だけしか、入国ビザが下りず、政府との交渉も相手任せで、何時、会えるか分からず、何日も滞在した。
あの北京の紫禁城など、たしか天安門から入ったと思うのだが、中には役人など一人も居らず、自由に何処へでも、そして、西太后のあの玉座へも近づけたし、観光客は、中国人が僅かにいるだけで、広大な紫禁城なので、殆ど無人状態であり閑散としていた。
一部、国宝級の展示物が個室に展示されていたが、壮大な多くの建物には、一切の装飾がなくて、がらんとしていたが、清朝の頃のそのままであった。
中国の5000年の壮大な歴史を感じて身震いしたのだが、その当時は、現在の中国の姿など、思いもよらなかったのである。
その後、東京で海外事業の管理部門の仕事を6年間して、海外に出張することが多くて、年に100日くらいは、東南アジアや中東、アメリカに出ていて、1985年から1993年までヨーロッパに滞在していたので、国名も変っているので確かなことは言えないのだが、1泊以上した国は、40カ国を大分越えていると思っている。
チャールズ皇太子やダイアナ妃とも握手してお話しするなど、信じられないような世界を幾度も経験したが、それも、思い切って世界へ飛出した御陰であろう。
ウォートン・スクールのMBAがパスポートになって、臆することなく、切った張ったの国際ビジネスを、欧米で展開することができた。
楽しいことよりも、苦しいことと言うか、思い出したくないことの方が多いような気がするし、随分危険なことにも遭遇したのだが、今回の「東京オリンピック」の映画を観て、海外での思い出がこみ上げてきて、しばらく、たまらなくなって呆然としていた。
手元には、海外の資料が殆どないのだが、倉庫には、撮り溜めた海外での写真やネガが、大きな化粧箱2箱あって、オペラやコンサートのパンフレットや資料など4箱あるなど、結構色々なものが残っており、どうせ、私が死ねば、そのまま、廃却されるので、一応寝た子を起こすつもりで整理しようと思っている。
このブログは、わが海外人生を記録に残そうと思って始めたのだが、まだ、殆ど目的を果たしていないので、書き残したい思い出も蘇るかも知れないと思っている。