熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

原田マハの「風神雷神 上下」

2020年07月28日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この小説は、俵屋宗達の襖絵「風神雷神」を主題にした面白い物語だが、とにかく、奇想天外な発想が魅力で、最後まで、推理小説のような展開で楽しませてくれる。
   しかし、ベースになったのは、俵屋宗達でも織田信長の話でもなく、「天正遣欧少年使節」のローマ教皇訪問であって、その使節団に俵屋宗達が同行して、信長の命令によって狩野永徳の助手として描いた「洛中洛外図」を教皇に献呈すべく同行するという非常にユニークな発想のストーリー展開である。

   まず、天正遣欧少年使節だが、ウィキペディアを引用すると、
   1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。

   小説では、信長が、ヴァリニャーノの提案した天正遣欧少年使節団に、天性の画才を認めた少年の宗達を、印刷術を学ばさせるために、同行を命ずるということになるのだが、殆ど、天正遣欧少年使節団の旅のルートを辿りながらの旅行記ではあるのだが、主人公の一人が宗達であるから、ラテンヨーロッパの絵画行脚の様相を呈する。
   宗達が感動するのは、ピサの宮殿でのブロンズィーノの肖像画、フィレンツェのヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の未完の祭壇画のレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子像、ヴァチカン宮殿システィナ礼拝堂のミケランジェロの最後の審判と天地創造、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂のレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐、
   リスボンからマドリッド、イタリア各地を歩いて西洋画に飽きた宗達だが、感動のあまり、ダ・ヴィンチとミケランジェロに会わせてくれと同行のパドレに懇願するのだが、随分前に亡くなったと言われる憔悴する。

   さて、この小説で興味深いのは、宗達と、同じく少年だったミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオとの出会いだが、宗達たちが、ミラノを離れる直前、使節団の公式行事から離れて、拝み倒して訪れたダ・ヴィンチの「最後の晩餐」画の前であった。弟子たちの争いで親方に蟄居を申し渡されていたカラヴァッジオが、ダ・ヴィンチを模写に通っていたところに偶然あったのである。
   ここで、カラヴァッジオにお前の絵を見せてくれと言われて、肌身離さずお守りのように持っていた父が餞に描いた風神雷神図の扇を与えると、感動したカラヴァッジオが、翌日、風神雷神のヨーロッパ版ユピテルとアイオロスの精巧な繪を描いて届けてくれた。一念発憤、長い年月絶筆していた宗達は、個室に籠もって初めて油絵に挑戦して絵を描いた。その足で、カラヴァッジオの親方ペテルツァーノの工房に出かけて、カラヴァッジオの描いた絵を示して、その卓越した画才を説いて認めさせて、自分が一心不乱に描いた「風神雷神」をカラヴァッジオに与えるべく頼んで去る。
   カラヴァッジオとの遭遇は、このたった1日の少年たちの出会いだが、原田マハは、最後の数ページで、この小説のテーマである「風神雷神、ユピテルとアイオロス」、東西芸術の融合を活写している。
   尤も、作者は、波瀾万丈の物語であるので、随所で、自然現象の風神雷神を描いており、、マドリッドでフェリペ2世に、汗まみれの汚れたこの風神雷神の扇を献上すると言ってお手討ち寸前まで行くという話などを挿入していて、この小説の小道具として上手く使っている。

   さて、私にとって興味深かったのは、この「風神雷神」を読みながら、自分自身で、宗達と一緒の思いで、ヨーロッパを旅しているような気がしていたことである。
   「天正遣欧少年使節」団の行程で、マカオ、マラッカ、ゴア、セント・ヘレナまでのルートは、行っていないので知らないが、リスボン、マドリード、ピサ、フィレンツェなどは、何度か訪れていてかなりの知識はあるし、それに、ヴァチカン宮殿は見学できるところは殆ど歩いたし、システィナ礼拝堂へは修復中も出かけてミケランジェロの壁画は何時間も見続けていた。
   それに、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を最初に見たのは、1973年のクリスマス休暇で、この時には、薄暗い廃墟のような部屋に、自然光だけでうっすらと浮かび上がる絵を見て感動した。
   その後、修復中に一度訪れて、幸いなことに、完全に修復なって公開された直後にも訪れる機会を得た。あの当時は、個人では、電話予約であったので、ロンドンから何回も何十回も電話をかけても繋がらず、ダメ元で、ミラノのホテルに依頼したら予約を取ってくれていた。時間制で、1度に20人くらい、気密室のような廊下を通って、やっと、薄暗い部屋に入ると微かに電光を浴びて浮き上がった「最後の晩餐」が見えた。
   

   さて、この教会は、第二次世界大戦中に連合軍の空爆を受けて崩壊し、幸い中の幸いと言うべきか、かろうじてこの「最後の晩餐」の壁面だけが崩壊を免れた。その当時の悲惨な光景は、次の写真(ナショナルジオグラフィックの「ダ・ヴィンチ全記録」から借用)右側の防水布の向こうで、1978年から1999年にかけて、壁画作成の5倍の時間を費やして修復された。
   この小説では、絵画のキリスト像の足下にあった扉から暗い食堂に入って、奥に突き進んで後ろを振り返って、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見て仰天するという描写になっているのだが、私が最初に見たときには、この扉が取り壊されて、今のように扉が塗り込められて消えていたのである。
   
   
   
   
   私にとっては、ずっと興味を持ち続けて学んできた世界史と世界地理、そして、絵画や文化を主題にして、それも、イタリアを主体にした小説なので、何倍にも楽しませて貰った。
コメント
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