熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

フランス ルーブル美術館が再開

2020年07月18日 | 海外生活と旅
   NHKが、「フランス ルーブル美術館が再開 新型コロナで約4か月休館」と報じた。
   ウイルス対策のため、見学はマスクの着用や事前の予約が必要で感染を警戒しながらの再開と言うことだが、アメリカや中国などからは入国できないことから、美術館ではフランス語の案内を無料で実施するなど、フランス人向けのサービスにも力をいれており、初日の予約は7400人ほどで、去年の同じ時期の2割程度。
   マルティネス館長は、「人が少ないルーブルを訪れる、いいチャンスです。夕方にはモナリザの部屋で、一人きりになることもあるかもしれません」と話したという。
   
   

   私が、初めてルーブル美術館を訪れて、この「モナリザ」を鑑賞したのは、1973年のクリスマス休暇の時。
   フィラデルフィアのウォートン・スクールで勉強していたのだが、ペンシルバニア大学に留学していたフランス人留学生が里帰り便として、パリ往復のパンナム機をチャーターして、余り席を、格安で売り出したので、千載一遇のチャンスだと思って、ナケナシの貯金をはたいて、家内とナーサリースクールの長女との3席分を確保して、2週間ヨーロッパ旅行したのである。
   ユーレイルパスを利用して、パリから、イタリア、オーストリア、ドイツ、オランダを回ってフィラデルフィアへ帰ってきたのだが、スーツケース一つの、ギリギリ旅で、贅沢はできなかったが、その後の8年間のヨーロッパでの仕事と生活への格好の助走にはなった。

   海外旅行は、出張でも個人旅行であっても、すべて、自分で旅程を組み、航空券やホテルや観劇チケットなど一切の手配を自分でやる習慣をつけたので、トーマスクックの時刻表や、ミシュランのグリーンとレッドのガイドブックと地図と言った資料や、各国の案内所などが頼りであり、旅先での臨機応変でのぶっつけ本番が殆どの手作り旅であったが、別に、不都合なことは起こらなかったと思っている。
   今のようにインターネットを叩けば何でも調べられるようになると、事前スタディに手を抜くことになるのだが、私自身、意識して世界史や世界地理など世界情勢については勉強し続けていたので、おそらく、日本の並の旅行社やガイドよりも有能ではなかったかと自己満足している。

   さて、ルーブルの「モナリザ」だが、1973年に行ったときには、ルーブルにも客が少なくて、このモナリザの前に立って、いくらでも自由に写真が撮れた。
   今のように、厳重なガラスケースに治まっていて近づけないような状態ではなく、他の絵画と同じように、額縁が壁面に掛かっていて、少しその前に、2メートルくらい離れて立っている2本のスタンドに布ロープが張られているだけで、故意に近づけば、モナリザの額縁に触れられるような展示状態であったと記憶している。
   夕方でなくても、モナリザの部屋で一人になるチャンスはいくらでもあったのである。

   何度も、ルーブルを訪れて、このモナリザを観ているが、少し厳重な囲いの中に入って、その後、今のような展示状態になったような気がしている。
   このモナリザは、1911年8月21日に、イタリア人愛国者ヴィンチェンツォ・ペルージャによって盗まれて2年間フィレンツェのアパートにあった。
   通常の開館時間にモナリザの部屋に入って、掃除用具入れに身を隠して閉館を待ち、4本の鉄釘で額を外して、トレンチコートの下に隠して中庭を横切り、まんまと美術館を抜け出たというのである。
   金に困って画商に売ろうとして発覚して、短期間だけイタリアを巡回して何千人もの観客を魅了してルーブルに帰った。

   1516年に、レオナルド・ダヴィンチは、フランス王フランソワ1世の招きに応じてフランスに渡り、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に移り住んだ。
   この時に、レオナルドは、この「モナ・リザ」をフランスへ持ち込んで加筆し続けたといわれており、レオナルドが、1519年に死去した時に、フランソワ1世が自分の城に飾るために買い上げたのである。

   ヨーロッパやアメリカの美術館を、僅かにしか残っていないレオナルド・ダヴィンチの作品を1作品でも多く観ようと見て回り、最近、やっと、エルミタージュで2作品を観て感激した。
   しかし、シェイクスピアの場合も同じだが、どうしても、間違いなしにダヴィンチが生活して居たその場所に行きたいと思い続けていて、やっと、ダヴィンチの終焉の地である前述のロワール河畔に建つアンボワーズ城のクルーの館を訪れることができたのは、モナリザを初めて見てから20年後の1993年の夏。
   このときは、夏期休暇の旅で、ロワール河畔の古城などを廻って、北に移動して、サンマロ、モンサンミシェル、シェルブール、ルアーブル、ルーアンを経て、ロンドンに帰った。
   フランスでは、危険なのだが、短期間に有効に旅をするには、どうしても車が頼りで、ボルボの一番大きな装甲車のようなレンタルカーを借りて、地図が読めない妻をナビゲーターにして、下手な運転で通したのだが、若気の至りも良いところで、信号のなかったパリの凱旋門のサークルを間違いなく脱出して、無事にシャルルドゴールに帰れたと思うと、今でも、冷や汗が出る。
   車では、イギリス、オランダ、ドイツ、デンマーク、オーストリアは、自分の車やレンタカーで走ったが、ラテンの国イタリア、スペインでは、絶対に車を運転しなかったのだが、フランスは、まずまず、と言うことで時々は車を使っていたので、大丈夫だと思った所為もある。

   久しぶりに、ナショナル・ジオグラフィックの「ダ・ヴィンチ全記録」のページを繰り始めている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする