新型コロナウイルス騒ぎで、外出もままならず、晴耕雨読の日々なのだが、あいにく梅雨で、晴耕もできないとなると、勢い、雨読で、時間を過ごすことになる。
8月なら大丈夫だと思って、能狂言鑑賞のチケットを買っているのだが、後期高齢者の我が身、幼い孫たちと同居しており、うつすと大変なので、家族に外出禁止を申し渡されており、今回も、パーである。
残念ながら、最近では、観劇やコンサートのチケット予約も殆どいれておらず、今年は年末までダメだろうと諦めている。
当然、カメラを持っての鎌倉や湘南散策などは、やりたくてもできない、謂わば、籠の鳥の毎日である。
さて、読書だが、今手元にあって読み始めたのは、原田マハの「風神雷神」。
まだ、上巻の途中で、俵屋宗達が、帆船に翻弄されながら、教皇に会いにリスボン経由でローマに向かうところ。
とにかく、宗達が、信長の命令で、狩野永徳の助手になって「洛中洛外図」を描いて、その繪を教皇に献上するためにローマに向かうなどと言う話も奇想天外なら、信長が宗達に、徹底的に取材してローマの「洛中洛外図」を描いて帰ってこいと命令するという信じられないような発想も面白い。
天正遣欧使節の少年たちと一緒にローマに渡った宗達が、カラヴァッジョに会うというのだが、どのような絵画芸術の遭遇になるのか、
織豊時代の日本と、大航海時代を経たルネサンス期のヨーロッパという歴史上の大勃興期を舞台にして、東西の絵画芸術の遭遇というテーマがどのように炸裂するのか、後半を楽しみにしている。
義経が、奥州から逃亡してモンゴルに渡って、ジンギスカンになったというストーリー展開などにも匹敵する小説家の発想で、豊かな知識に裏打ちされた芸術と歴史に蘊蓄を傾けた語り口が、魅力的である。
最近読んだ小説は、ユン・チアンの「西太后秘録 近代中国の創始者 上下」
ダン・ブラウン著「インフェルノ 上下」
「西太后」の方は、西太后治世時代の中国近代史と言った感じの本で、
「インフェルノ」は、ダンテの「神曲 地獄篇」の隠された暗号を廻るフィレンツェを舞台に展開される小説、
いずれにしろ、前述の「風神雷神」よりは、多少肩の凝る本で、すらすらと楽しめる本ではない。
大分前になるが、歌舞伎役者が主人公の吉田修一著「国宝 (上) 青春篇 (下) 花道篇」は、読んで、これはブックレビューした。
今回、原田マハの「風神雷神」を読んでいて、感じたのは、こんなに面白くてすらすら読めて楽しめるのに、膨大な読書量を自負しながら、なぜ、小説を無視軽視して読まずに、多少とは言え苦しみながら、時には、組んずほぐれつ悪戦苦闘しながら、専門書など面白くもない本を読み続けてきたのかと言うか、高みを目指して本に挑戦してきたのかと言う思いである。
はっきりしているのは、私にとっての読書は、小説を読んで面白いなあと言った思いは殆どなく、少しでも、真実を知りたい、美しいものを見たい感じたい、未知の世界に遭遇したい、知性教養を磨きたい、大げさに言えば、真善美を実感体得して、少しでも、向上したい、
読書は、そのための大切な修行であり手段だという意識であって、その思いが、馬車馬のように自分を駆り立てていたような気がしている。
楽しむと言うよりは喜びの方が大きくて、趣味と言うよりは人生そのものであったような気がしている。
尤も、強迫観念のような意識が自分にあったと言った感じは全くなく、あれも読みたいこれも読みたいと、次から次へと欲求が湧き出てきて、本屋を駆け回って膨大な本を買ってきたということである。
手元でスタンドバイしている本は、
スティグリッツの経済学書、イノベーションやデジタル・ディスラプター、経済成長とモラル・・・
それに、John Bolton の「The Room Where It Happened: A White House Memoir」
トインビーやブローデル の歴史関係書etc.
経済学や経営学、歴史学、世界文明論、どうしてもそうなるのだが、
歌舞伎や文楽、能狂言、クラシック・オペラ、美術関係の本が、時々伴奏をする。
やっぱり、次の小説を探して、アマゾンをクリックする気にはなれない。
幸か不幸か、運命だと思っている。
8月なら大丈夫だと思って、能狂言鑑賞のチケットを買っているのだが、後期高齢者の我が身、幼い孫たちと同居しており、うつすと大変なので、家族に外出禁止を申し渡されており、今回も、パーである。
残念ながら、最近では、観劇やコンサートのチケット予約も殆どいれておらず、今年は年末までダメだろうと諦めている。
当然、カメラを持っての鎌倉や湘南散策などは、やりたくてもできない、謂わば、籠の鳥の毎日である。
さて、読書だが、今手元にあって読み始めたのは、原田マハの「風神雷神」。
まだ、上巻の途中で、俵屋宗達が、帆船に翻弄されながら、教皇に会いにリスボン経由でローマに向かうところ。
とにかく、宗達が、信長の命令で、狩野永徳の助手になって「洛中洛外図」を描いて、その繪を教皇に献上するためにローマに向かうなどと言う話も奇想天外なら、信長が宗達に、徹底的に取材してローマの「洛中洛外図」を描いて帰ってこいと命令するという信じられないような発想も面白い。
天正遣欧使節の少年たちと一緒にローマに渡った宗達が、カラヴァッジョに会うというのだが、どのような絵画芸術の遭遇になるのか、
織豊時代の日本と、大航海時代を経たルネサンス期のヨーロッパという歴史上の大勃興期を舞台にして、東西の絵画芸術の遭遇というテーマがどのように炸裂するのか、後半を楽しみにしている。
義経が、奥州から逃亡してモンゴルに渡って、ジンギスカンになったというストーリー展開などにも匹敵する小説家の発想で、豊かな知識に裏打ちされた芸術と歴史に蘊蓄を傾けた語り口が、魅力的である。
最近読んだ小説は、ユン・チアンの「西太后秘録 近代中国の創始者 上下」
ダン・ブラウン著「インフェルノ 上下」
「西太后」の方は、西太后治世時代の中国近代史と言った感じの本で、
「インフェルノ」は、ダンテの「神曲 地獄篇」の隠された暗号を廻るフィレンツェを舞台に展開される小説、
いずれにしろ、前述の「風神雷神」よりは、多少肩の凝る本で、すらすらと楽しめる本ではない。
大分前になるが、歌舞伎役者が主人公の吉田修一著「国宝 (上) 青春篇 (下) 花道篇」は、読んで、これはブックレビューした。
今回、原田マハの「風神雷神」を読んでいて、感じたのは、こんなに面白くてすらすら読めて楽しめるのに、膨大な読書量を自負しながら、なぜ、小説を無視軽視して読まずに、多少とは言え苦しみながら、時には、組んずほぐれつ悪戦苦闘しながら、専門書など面白くもない本を読み続けてきたのかと言うか、高みを目指して本に挑戦してきたのかと言う思いである。
はっきりしているのは、私にとっての読書は、小説を読んで面白いなあと言った思いは殆どなく、少しでも、真実を知りたい、美しいものを見たい感じたい、未知の世界に遭遇したい、知性教養を磨きたい、大げさに言えば、真善美を実感体得して、少しでも、向上したい、
読書は、そのための大切な修行であり手段だという意識であって、その思いが、馬車馬のように自分を駆り立てていたような気がしている。
楽しむと言うよりは喜びの方が大きくて、趣味と言うよりは人生そのものであったような気がしている。
尤も、強迫観念のような意識が自分にあったと言った感じは全くなく、あれも読みたいこれも読みたいと、次から次へと欲求が湧き出てきて、本屋を駆け回って膨大な本を買ってきたということである。
手元でスタンドバイしている本は、
スティグリッツの経済学書、イノベーションやデジタル・ディスラプター、経済成長とモラル・・・
それに、John Bolton の「The Room Where It Happened: A White House Memoir」
トインビーやブローデル の歴史関係書etc.
経済学や経営学、歴史学、世界文明論、どうしてもそうなるのだが、
歌舞伎や文楽、能狂言、クラシック・オペラ、美術関係の本が、時々伴奏をする。
やっぱり、次の小説を探して、アマゾンをクリックする気にはなれない。
幸か不幸か、運命だと思っている。