カランコロンと駒下駄の音を響かせて夜中に萩原新三郎(片岡愛之助)を訪れてくる綺麗な幽霊・お露(七之助)の話が、今月の歌舞伎の「牡丹燈籠」。
しかし、後半の、この幽霊から100両をせしめて羽振りの良い荒物屋の旦那になった伴蔵(仁左衛門)と女房お峰(玉三郎)、それに、お露の父の愛妾お国(吉弥)とその愛人宮野辺源次郎(錦之助)などの愛と欲に塗れた話の方が興味深いのだが、伴蔵が、新三郎とお露の骸骨のラブシーンを見たために幽霊達の世界に引き込まれ行く辺りから俄然面白くなる。
落語家・三遊亭円朝の原作を脚色したのがこの歌舞伎だが、怪談調の講談に近い噺ながら、実に滑稽なユーモアを誘う舞台が展開されるのは、やはり落語の所為であろうか。
ところで、この円朝の「牡丹燈籠」は、オリジンは中国で、明時代の民話を集めた「剪燈新話」の中の「牡丹燈記」にある次のような話である。
妻に先立たれた書生喬生が、下女に牡丹燈籠を持たせた若い娘・麗卿に会って恋に陥り、毎夜の如く彼女が喬生宅に訪れて来て逢瀬を楽しむが、隣家の翁から、綺麗な服を着た髑髏と語っていると告げられ、幽霊であることを知る。
護符を貰って、あっちこっち貼り付けると麗卿は来なくなった。
一ヵ月後、油断して酒に酔って、麗卿のお墓の傍を通りかかると突然下女が現われて麗卿の棺に入れられてしまう。
円朝の噺は、恋焦がれて亡くなったお露の幽霊が、恋しい新三郎を訪ねて逢瀬を続ける話となり、伴蔵が、お露と下女に、新三郎に近づけないので、魔よけのお札を外してくれるように頼まれる。100両貰えるならと引き受けてお札を外すと、再会できたお露が新三郎を殺害してしまう。
伴蔵が、蚊帳の中に入って晩酌をしていると、牡丹燈籠が現われて、伴蔵がパントマイムで語り始める。それを見咎めた女房お峰が、女の気配を感じて焼餅を焼くが、防戦する伴蔵とお峰のお札剥しを巡る滑稽話が秀逸で、仁左衛門と玉三郎の威勢の良い畳みかける様な会話が実に面白い。
近松ものなどで見慣れている仁左衛門と玉三郎の情緒豊かな舞台の印象で、二人のこの舞台を見ると、しっくりこないのだが、しかし、江戸の庶民の夫婦の日常的なやり取りを髣髴とさせて、コミカルだがしっとりとした中々良い味を出していて流石に名優だと思って観ていた。
仁左衛門は、上方の和事を演じれば天下一品だが、全く雰囲気が違う江戸長屋の住人も実に上手く、やはり、関西オリジンの役者は両刀使いが出来るのか、襲名披露の時の粋な助六の舞台を思い出した。
女房の玉三郎だが、殆ど化粧をしていないので地顔で、それに、女言葉だが声音も殆ど地声で普段の玉三郎を見ているような感じだが、テンポの早い心地よい庶民的な語り口や立ち居振る舞いが新境地を開いていて、見ていて実に楽しい。
馬子久蔵(三津五郎)に酒を飲ませて煽り立てて亭主伴蔵のお国との浮気話を暴露させる会話の匠さ、それに、帰宅後の亭主を攻め立てて白状させて、口説かれて仲良く寝ようといそいそと行燈を消すまでの会話など、噺家円朝の筋立てや話力の凄さもあろうが、女の弱さ、悲しさ、愛おしさ、したたかさなどしみじみとした人間の味が滲み出ていて清々しい。
今回の舞台で興味深かったのは、三津五郎の二役で、一つは、この舞台の語り手円朝で、高座スタイルで舞台中央やすっぽんで語るが、話術の巧みさと風格。もう一つは、先述の馬子久蔵で、一寸だけと言いながらお峰の酒と小遣の魅力に負けて、何も知らないのでお峰の口車に乗せられて、伴蔵とお国の一件を全て明かしてしまう、この惚けた純朴な馬子を実にユーモアたっぷりに演じていて、千両役者は何でも出来るのだなあと思わせて流石である。
昼の部の、藤十郎の忠兵衛を追い詰めて封印を切らせる悪役八右衛門の関西弁での舞台も素晴らしいが、最後の「奴道成寺」の舞踊の秀逸さと言い、この十月歌舞伎は、三津五郎が支えていると言った大車輪の活躍ぶりである。
ところで、七之助のお露と愛之助の新三郎だが、この前半だけでも素晴らしい舞台になっていて、何となく、暗くて陰湿な行き場のない生き様を上手く作り出している。特筆すべきは、お露の侍女お米の吉之丞で、幽霊はかくやと思わせるほど真に迫った演技で余人を持って代え難いと言う事であろうか。
伴蔵が惚れ込む笹屋の酌婦お国の吉弥の陰のある色香、ニヒルでがしんたれの旗本の次男坊でお国の愛人源次郎の錦之助の世捨て人生も、伴蔵・お峰と平行した悪人の副主題を構成していて存在感を示している。
この中国発の怪談・牡丹燈籠は、説話集や劇舞台で使われているようだが、怪奇話に着想を得て、人の心を抉り出した人間模様を噺に仕立てた円朝の卓抜さは抜群であったのであろう。しんみりと人生を考えさせる舞台であった。
しかし、後半の、この幽霊から100両をせしめて羽振りの良い荒物屋の旦那になった伴蔵(仁左衛門)と女房お峰(玉三郎)、それに、お露の父の愛妾お国(吉弥)とその愛人宮野辺源次郎(錦之助)などの愛と欲に塗れた話の方が興味深いのだが、伴蔵が、新三郎とお露の骸骨のラブシーンを見たために幽霊達の世界に引き込まれ行く辺りから俄然面白くなる。
落語家・三遊亭円朝の原作を脚色したのがこの歌舞伎だが、怪談調の講談に近い噺ながら、実に滑稽なユーモアを誘う舞台が展開されるのは、やはり落語の所為であろうか。
ところで、この円朝の「牡丹燈籠」は、オリジンは中国で、明時代の民話を集めた「剪燈新話」の中の「牡丹燈記」にある次のような話である。
妻に先立たれた書生喬生が、下女に牡丹燈籠を持たせた若い娘・麗卿に会って恋に陥り、毎夜の如く彼女が喬生宅に訪れて来て逢瀬を楽しむが、隣家の翁から、綺麗な服を着た髑髏と語っていると告げられ、幽霊であることを知る。
護符を貰って、あっちこっち貼り付けると麗卿は来なくなった。
一ヵ月後、油断して酒に酔って、麗卿のお墓の傍を通りかかると突然下女が現われて麗卿の棺に入れられてしまう。
円朝の噺は、恋焦がれて亡くなったお露の幽霊が、恋しい新三郎を訪ねて逢瀬を続ける話となり、伴蔵が、お露と下女に、新三郎に近づけないので、魔よけのお札を外してくれるように頼まれる。100両貰えるならと引き受けてお札を外すと、再会できたお露が新三郎を殺害してしまう。
伴蔵が、蚊帳の中に入って晩酌をしていると、牡丹燈籠が現われて、伴蔵がパントマイムで語り始める。それを見咎めた女房お峰が、女の気配を感じて焼餅を焼くが、防戦する伴蔵とお峰のお札剥しを巡る滑稽話が秀逸で、仁左衛門と玉三郎の威勢の良い畳みかける様な会話が実に面白い。
近松ものなどで見慣れている仁左衛門と玉三郎の情緒豊かな舞台の印象で、二人のこの舞台を見ると、しっくりこないのだが、しかし、江戸の庶民の夫婦の日常的なやり取りを髣髴とさせて、コミカルだがしっとりとした中々良い味を出していて流石に名優だと思って観ていた。
仁左衛門は、上方の和事を演じれば天下一品だが、全く雰囲気が違う江戸長屋の住人も実に上手く、やはり、関西オリジンの役者は両刀使いが出来るのか、襲名披露の時の粋な助六の舞台を思い出した。
女房の玉三郎だが、殆ど化粧をしていないので地顔で、それに、女言葉だが声音も殆ど地声で普段の玉三郎を見ているような感じだが、テンポの早い心地よい庶民的な語り口や立ち居振る舞いが新境地を開いていて、見ていて実に楽しい。
馬子久蔵(三津五郎)に酒を飲ませて煽り立てて亭主伴蔵のお国との浮気話を暴露させる会話の匠さ、それに、帰宅後の亭主を攻め立てて白状させて、口説かれて仲良く寝ようといそいそと行燈を消すまでの会話など、噺家円朝の筋立てや話力の凄さもあろうが、女の弱さ、悲しさ、愛おしさ、したたかさなどしみじみとした人間の味が滲み出ていて清々しい。
今回の舞台で興味深かったのは、三津五郎の二役で、一つは、この舞台の語り手円朝で、高座スタイルで舞台中央やすっぽんで語るが、話術の巧みさと風格。もう一つは、先述の馬子久蔵で、一寸だけと言いながらお峰の酒と小遣の魅力に負けて、何も知らないのでお峰の口車に乗せられて、伴蔵とお国の一件を全て明かしてしまう、この惚けた純朴な馬子を実にユーモアたっぷりに演じていて、千両役者は何でも出来るのだなあと思わせて流石である。
昼の部の、藤十郎の忠兵衛を追い詰めて封印を切らせる悪役八右衛門の関西弁での舞台も素晴らしいが、最後の「奴道成寺」の舞踊の秀逸さと言い、この十月歌舞伎は、三津五郎が支えていると言った大車輪の活躍ぶりである。
ところで、七之助のお露と愛之助の新三郎だが、この前半だけでも素晴らしい舞台になっていて、何となく、暗くて陰湿な行き場のない生き様を上手く作り出している。特筆すべきは、お露の侍女お米の吉之丞で、幽霊はかくやと思わせるほど真に迫った演技で余人を持って代え難いと言う事であろうか。
伴蔵が惚れ込む笹屋の酌婦お国の吉弥の陰のある色香、ニヒルでがしんたれの旗本の次男坊でお国の愛人源次郎の錦之助の世捨て人生も、伴蔵・お峰と平行した悪人の副主題を構成していて存在感を示している。
この中国発の怪談・牡丹燈籠は、説話集や劇舞台で使われているようだが、怪奇話に着想を得て、人の心を抉り出した人間模様を噺に仕立てた円朝の卓抜さは抜群であったのであろう。しんみりと人生を考えさせる舞台であった。