熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

芸術祭十月大歌舞伎・・・仁左衛門と玉三郎の「牡丹燈籠」

2007年10月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   カランコロンと駒下駄の音を響かせて夜中に萩原新三郎(片岡愛之助)を訪れてくる綺麗な幽霊・お露(七之助)の話が、今月の歌舞伎の「牡丹燈籠」。
   しかし、後半の、この幽霊から100両をせしめて羽振りの良い荒物屋の旦那になった伴蔵(仁左衛門)と女房お峰(玉三郎)、それに、お露の父の愛妾お国(吉弥)とその愛人宮野辺源次郎(錦之助)などの愛と欲に塗れた話の方が興味深いのだが、伴蔵が、新三郎とお露の骸骨のラブシーンを見たために幽霊達の世界に引き込まれ行く辺りから俄然面白くなる。
   落語家・三遊亭円朝の原作を脚色したのがこの歌舞伎だが、怪談調の講談に近い噺ながら、実に滑稽なユーモアを誘う舞台が展開されるのは、やはり落語の所為であろうか。

   ところで、この円朝の「牡丹燈籠」は、オリジンは中国で、明時代の民話を集めた「剪燈新話」の中の「牡丹燈記」にある次のような話である。
   妻に先立たれた書生喬生が、下女に牡丹燈籠を持たせた若い娘・麗卿に会って恋に陥り、毎夜の如く彼女が喬生宅に訪れて来て逢瀬を楽しむが、隣家の翁から、綺麗な服を着た髑髏と語っていると告げられ、幽霊であることを知る。
   護符を貰って、あっちこっち貼り付けると麗卿は来なくなった。
   一ヵ月後、油断して酒に酔って、麗卿のお墓の傍を通りかかると突然下女が現われて麗卿の棺に入れられてしまう。

   円朝の噺は、恋焦がれて亡くなったお露の幽霊が、恋しい新三郎を訪ねて逢瀬を続ける話となり、伴蔵が、お露と下女に、新三郎に近づけないので、魔よけのお札を外してくれるように頼まれる。100両貰えるならと引き受けてお札を外すと、再会できたお露が新三郎を殺害してしまう。
   伴蔵が、蚊帳の中に入って晩酌をしていると、牡丹燈籠が現われて、伴蔵がパントマイムで語り始める。それを見咎めた女房お峰が、女の気配を感じて焼餅を焼くが、防戦する伴蔵とお峰のお札剥しを巡る滑稽話が秀逸で、仁左衛門と玉三郎の威勢の良い畳みかける様な会話が実に面白い。
   近松ものなどで見慣れている仁左衛門と玉三郎の情緒豊かな舞台の印象で、二人のこの舞台を見ると、しっくりこないのだが、しかし、江戸の庶民の夫婦の日常的なやり取りを髣髴とさせて、コミカルだがしっとりとした中々良い味を出していて流石に名優だと思って観ていた。

   仁左衛門は、上方の和事を演じれば天下一品だが、全く雰囲気が違う江戸長屋の住人も実に上手く、やはり、関西オリジンの役者は両刀使いが出来るのか、襲名披露の時の粋な助六の舞台を思い出した。
   女房の玉三郎だが、殆ど化粧をしていないので地顔で、それに、女言葉だが声音も殆ど地声で普段の玉三郎を見ているような感じだが、テンポの早い心地よい庶民的な語り口や立ち居振る舞いが新境地を開いていて、見ていて実に楽しい。
   馬子久蔵(三津五郎)に酒を飲ませて煽り立てて亭主伴蔵のお国との浮気話を暴露させる会話の匠さ、それに、帰宅後の亭主を攻め立てて白状させて、口説かれて仲良く寝ようといそいそと行燈を消すまでの会話など、噺家円朝の筋立てや話力の凄さもあろうが、女の弱さ、悲しさ、愛おしさ、したたかさなどしみじみとした人間の味が滲み出ていて清々しい。

   今回の舞台で興味深かったのは、三津五郎の二役で、一つは、この舞台の語り手円朝で、高座スタイルで舞台中央やすっぽんで語るが、話術の巧みさと風格。もう一つは、先述の馬子久蔵で、一寸だけと言いながらお峰の酒と小遣の魅力に負けて、何も知らないのでお峰の口車に乗せられて、伴蔵とお国の一件を全て明かしてしまう、この惚けた純朴な馬子を実にユーモアたっぷりに演じていて、千両役者は何でも出来るのだなあと思わせて流石である。
   昼の部の、藤十郎の忠兵衛を追い詰めて封印を切らせる悪役八右衛門の関西弁での舞台も素晴らしいが、最後の「奴道成寺」の舞踊の秀逸さと言い、この十月歌舞伎は、三津五郎が支えていると言った大車輪の活躍ぶりである。

   ところで、七之助のお露と愛之助の新三郎だが、この前半だけでも素晴らしい舞台になっていて、何となく、暗くて陰湿な行き場のない生き様を上手く作り出している。特筆すべきは、お露の侍女お米の吉之丞で、幽霊はかくやと思わせるほど真に迫った演技で余人を持って代え難いと言う事であろうか。

   伴蔵が惚れ込む笹屋の酌婦お国の吉弥の陰のある色香、ニヒルでがしんたれの旗本の次男坊でお国の愛人源次郎の錦之助の世捨て人生も、伴蔵・お峰と平行した悪人の副主題を構成していて存在感を示している。

   この中国発の怪談・牡丹燈籠は、説話集や劇舞台で使われているようだが、怪奇話に着想を得て、人の心を抉り出した人間模様を噺に仕立てた円朝の卓抜さは抜群であったのであろう。しんみりと人生を考えさせる舞台であった。
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300年の企業価値を棒に振る赤福の背信

2007年10月13日 | 経営・ビジネス
   食料品偽装事件は、依然後を絶たず、とうとう、私自身もファンである300年の老舗赤福まで事件を起こしてしまった。
   当日作りたて新鮮を売り物にしていた赤福が、30余年間にもわたって、生産過剰・売れ残りの菓子を最大2週間も冷凍保存して、製造日付を書き換えて包装し直して出荷していた、そして、重量順に記載すべき原材料名を、「小豆、もち米、砂糖」と健康食品を装って、最も重い砂糖を最下位に表示していたと言うのである。
   農林水産大臣が、記者会見で、先日、寝る前に美味しく頂いたと言うのだから、正に茶番劇である。

   食品の偽装については、雪印以降、今年に入ってからも、不二家、ミートホープ、白い恋人など後を絶たないが、私が、ここで問題にしたいのは、300年の歴史が如何に貴重な企業の財産なのか、そして、その伝統を棒に振った経営についての問題の深刻さである。
   上村達男早大教授が、
   「日本は伝統社会で1000年以上たった会社が100以上あり、1400年の伝統を持つ宮大工の「金剛組」などは国宝として保護すべきで、世界遺産かも知れない。」と言って、会社が提供する企業価値とは何なのかを熱っぽく語っている。(株式会社はどこへ行くのか)
   上村教授が引用したのは、野村進氏の「千年、働いています――老舗企業大国ニッポン」だが、この本の中には、世界でも稀有なほど永い伝統と歴史を持って今でも素晴らしい業績を上げ続けている日本企業について書かれていて、ニッポンの老舗の奥深さには感動さえ覚える。

   もっとも、同じ建設会社でも、創業100年以上の社歴を持ちながら談合塗れのゼネコンもあるなど、歴史が古いと言うだけでは生き抜いてきたと言うだけで何の意味もないケースも多い。
   しかし、赤福の場合は、江戸中期からの300年の歴史があり、それに日本社会に根ざした意味合いの深さは格別であり、近代経営への移行と言う日本企業の経営の問題も色濃く引き摺っている。

   赤福は、伊勢神宮門前の旅人相手の地菓子であるあんころ餅が、当時ブームを呼んだ「お陰参り」や「抜参り」、「お伊勢参り」などの客に受けて伊勢名物になったと言うことだが、
   消費期限についても、製造年月日を含めて夏は2日冬は3日と極めて厳しく、そのために、市場も神戸から名古屋までに限っていた。
   ところが、73年ごろ、20年毎の伊勢神宮社殿立替行事「式年遷宮」での観光客増加を見越して冷凍保存戦略を打ったのが、そもそも今回の躓きの始まりだと言う。まさに、2日しか消費期限のない需要変動の激しい命の短い商品の在庫流通管理の難しさが、今回の経営を直撃したのである。
   この生鮮食料品の在庫流通問題については、おそらく、このような需給ギャップを埋める為に、日本全国を調べれば軽度な偽装は限りなく存在しているのではないかと思う。

   赤福と言う商品名は、同社の社訓である「赤心慶福」、すなわち、「まごころ(赤心)をつくそう。そうすることで素直に他人の幸せを喜ぶ(慶福)ことができる」と言う考え方から来ており、この精神は、創業1707年以来、今も脈々と行き続けている伝統だと、赤福の書類のあっちこっちに書いてあり、2年前、10代目当主の濱田益嗣代取が三重県中小企業同友会のスピーチ「赤心慶福が赤福経営の原点」で得々と語っている。

   濱田氏は、更に、「経営者は、会社をひとつの生き物として考える習慣があり、日本を全体で見ることが出来、・・・日本の国を語る時代になった。
   客が求めるものを提供し、そのシステムを作ることが企業の基本。時代の変化は顧客の変化と捉えている。
   時代は変わって行く。今は、江戸から明治の変革に匹敵。経営者は、過去の智恵に従っていてはダメで、経営方針、ノウハウを革新して行かない限り、良いボジションを得られない激しい変化の時代にある。
   20世紀に売れていたものは21世紀では売れない。・・・新しい時代を展望する才覚を持って臨む経営者には、今ぐらいチャンスの多い時はない。」と、赤福300年は革新の連続と豪語して中小企業のトップにハッパをかけている。

   この講演で言っていることを、悉くひっくり返して引き起こしたのが、今回の赤福偽装事件である。
   赤福300年の歴史を支えてきたのは、一体何だったのか。
   このブログで、世界の企業王国・ダイナスティのところでも触れたが、同族企業・ファミリィビジネスで最も重要な筈の、信用と厳しいビジネス倫理が赤福300年を支えていた筈で、
   今回の事件で、このビジネス倫理の根本たる社是・赤心慶福の精神を喪失してしまい、顧客の信頼を裏切り会社の信用を失墜してしまったのである。
   同族会社・不二家事件の時にも、コメントしたが、経営者の独善と偏見、驕りと傲慢、社員の積極性や創意工夫の圧殺、時代の波に乗れない経営者の無能等々同じ様な問題があったのかも知れない。

   今日の経済社会は、コンプライアンス・遵法が騒がれる法化社会であり、法を犯し企業倫理に悖る経営者や会社の所行は、内部の社員から即刻内部告発されて世間に流布してしまう時代であって、経営者が法を守りエリを正して経営しない限り、経営者にとって極めてリスクの高い厳しい時代になっていることを夢夢忘れてはならない。
   
   企業の社会的責任が大きく問われ、経営者にプロとしての才覚と品位が求めれている。
   庶民に信頼し愛され続けて来た300年の赤福の伝統と歴史の重みは、今日の殺伐とした株価アップの企業価値一辺倒の時代にあっては、極めて貴重な企業の財産であった筈だが、その類稀な貴重な企業価値も経営者の無能によって一瞬にして吹き飛んでしまう、そんな、時代が到来しているのである。
   
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蜷川幸雄の「オセロー」・・・彩の国さいたま芸術劇場

2007年10月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   吉田鋼太郎のオセロー、蒼井優のデズデモーナ、高橋洋のイアゴーで、蜷川幸雄のオセローが上演されていて、連日盛況である。
   一回の休憩を入れて4時間あまりの緊迫した素晴らしい舞台が展開されていて、特に、若い観客で熱気を帯びている。
   舞台は、正面に、二階への階段が三本、そして、左右に、横に向かって上る三階への階段が一本ずつ、そのニ本の長い階段を逆三角形の形でで繋ぐ様に高みに舞台を横切る渡り廊下がセットされていて、これが総てシンプルな鋼鉄製。唯一のセットは、ドージェが座る椅子と、最後の幕でのオセロー夫妻の大きなベッドだけであり、蜷川の舞台としては、非常にメカニカルな印象である。

   随分以前に、日生劇場で、松本幸四郎のオセロー、黒木瞳のデズデモーナで、蜷川幸雄のオセローの舞台を見たことがあるが、あの時はもっと華やかなグランド劇場の舞台のような雰囲気で印象が随分違ってきている。
   今回の舞台の方が、飾り気がなく研ぎ澄まされたような感じで、よりイギリスのシェイクスピア劇に近い感じがした。

   オセローの吉田鋼太郎は、日本で最も卓越したシェイクスピア役者で、まさしく打って付けのオセローであろうが、私が、少し気にしたのは、オーバーパーフォーマンスと言うか、実に迫真の完璧な演技なのだが、あれほど徹底的に、オセロの苦悩を表現する必要があるのかどうかと言う点である。
   これは、このシェイクスピア劇の主題が、妻の裏切り疑惑と言う非常に個人的な心の葛藤が、ベニスの最高の猛将オテローを死に追い詰めると言う悲劇だとするならば、これをどの程度に解釈するかによって違ってくる。(後述する。)

   デズデモーナの蒼井優だが、実に初々しくて可愛い。
   私は、「オセロー」はオペラで見る方が多いので、キリ・テ・カナワやルネ・フレミングなどの熟女のデズデモーナの印象が強いのだが、本来のデズデモーナはまだ寝んねの乙女から女になろうとする初々しい女性である筈で、その意味でも、蒼井優の地で行ったような演技は実に新鮮で、シェイクスピアもこんなイメージを持っていた筈だと思うくらい上手い。
   しかし、本当のデズデモーナは、オセローとの関係を父に隠して既成事実を作るという当時の道徳を無視した罪を犯しており、ハンカチをなくしたこともオテロに隠しており、これが死の遠因となる。
   可愛いだけではなく複雑な女性であることも意識して、欲を言えば、もう少し、女の思慮と、滲み出るような女の魅力と言うか、女を感じさせる色香が欲しいと思った。

   この戯曲のタイトルは、オセローではなく、本来はイアゴーであったと言われているが、それほど重要な役のイアゴーの高橋洋だが、ニナガワ・スタジオの優等生で、蜷川シェイクスピアで活躍を続けており、先の「間違いの喜劇」のドーミオ兄弟(二役)は実に素晴らしい舞台で、彼の魅力が全開であった。
   今度のイアゴーも、ニヒルでパンチの利いた現代的な若々しい演技で、ベテランの吉田オセローと対等に渡り合っていて、流石の舞台である。
   一寸気になったのは、所々、早口になったり小声になると言葉が聞き取り辛くなるので、イギリスのシェイクスピア役者のように発声法を少し心掛けて勉強した方が良いと思ったのと、本当の悪人としての憎々しさと言うか、もう少し灰汁の強いあくどさを出した方が良いと思ったことである。

   このブログでも書いたが、サー・アントニー・シャー(「恋に落ちたシェイクスピア」に出ていた変な腕輪を売りつけた占い師)が、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの「マクベス」で来日した時に、レセプションで会って色々話を聞いていた時、次の大役は「オセロー」ですねと言ったら、あの役は黒人など有色人の役者がやることになっていて白人の自分はやれないのだと言っていた。
   その後、「オセロー」で来日した時には、正に絶品のイアゴーを演じていたが、イギリスにも不思議な掟があるのだなあと思って聞いていたが、日本では誰でもオテローが演じられるのが面白い。
   ついでながら、真田広之以外はイギリス人ばかりで演じたRSCのニナガワ「リア王」は、一寸納得できないと言っていたが、何故だったのか理由は忘れてしまった。

   
   ところで、先にも触れたが、妻の不倫疑惑に自滅するオセローと言うテーマだが、たかが幼な妻の不倫程度でオテローたる猛将が自己を消失して崩れるのかと言う疑問である。 
   肌の色と民族・宗教、年齢、富、社会的身分等々相容れない条件を飛び越え、嫉妬を生み出した、オテローとデズデモーナを結びつけていた奇妙な愛情の真の意味は。
   シャフッベリー伯は、オセローとデズデモーナとの結婚は、不釣合いな縁組、山師のペテンと躾の良くない娘の不健康な想像力から生まれた奇怪な結びつきだと言っている。
   この劇の悲劇は、イアゴーの卑劣な企みの結果起きたのではなく、主人公の性格や彼らの間の関係に蒔かれた時から起こるべくして起こっていたと言うのである。
   
   オセローは、王族の出であり外的に危機に曝されているベニスにとって貴重な人物だと自分では思っているが、ベニス市民ではなく傭兵隊長にしか過ぎず、有事でなくなると即刻お払い箱になる運命にあり、ベニスと繋がっているのは、ベニスの名家の美しい花と恋に落ち結婚していると言う事実だけである。と、政治学者アラン・ブルームは言う。
   オセローがデズデモーナに愛されていると信じているが、彼がデズデモーナを必要とし、本当は彼女の愛を愛していて、これがなくなれば生きて行けなくなると言うオセローの脆さを、イアゴーだけは知っていて、徹底的に攻撃して痛めつける。
   オセローは、自分が生きて行くことを正当化するために、愛されている証拠を必要とする。この証拠が、あの象徴的なハンカチだが、そう思えば、オセローにとっては、このデズデモーナとハンカチの物語は、たかが幼な妻との愛の話だけではなく、自分のこれまでの全人生を賭けた運命的な悲劇だったのである。
   そう考えて、吉田鋼太郎の熱演をじっくりと噛み締めながら、日本の最高のシェイクスピア役者の芸を楽しませて貰った。

   凛とした格調の高いエミリアの馬渕英俚可、中々ダンディでスマートなキャシオーの山口馬木也、重厚な威厳を備えたブラバンショーの壌晴彦など準主役も素晴らしい演技で舞台をバックアップしていた。
   

    

 
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労組:ハゲタカ・ファンドと徹底抗戦すべきである

2007年10月11日 | 政治・経済・社会
   朝日新聞が朝刊で、「対ファンド 労組動揺 企業買収攻勢 対応手探り」と言う記事を大見出しで掲載していた。
   「投資ファンドが高配当や株価の上昇のみを追求するのは問題。単組、構成組織を最大限支援していきたい」と連合の高木会長が、ハゲタカ・ファンドの理不尽な要求で会社がガタガタにされて振り回されている従業員の苦悩を代弁して、投資ファンドと労組をテーマに開かれたシンポジウムで語ったと言う。

   多少下火になったとは言え、何故、こんなことが頻発するのか。それは、何の経済社会体制の準備も整っていない日本に、何の手当てもせずに無防備に、アメリカ型の弱肉強食の自由競争の法体系を、跳ね上がった経済産業省の役人主導で導入して会社法や証取法など一連の法制度を変えてしまったからである。
   ブルドックソースにM&Aを仕掛けたスティール・パートナーズなど目に余る行為が目立つが、本来、アメリカでは認められないような違法行為を、法整備の不十分さの虚を突いて日本で行って、金儲け一途に傍若無人に振舞って狂奔している。
   新聞記事のパネラーの写真に写っていたので、こんなことを早稲田大学の上村達男教授が発言されたのだろうかと思ったのだが、私は、教授のこのような主張に全面的に賛成で、人類が営々として築き上げてきた公序良俗、市民社会のベスト・プラクティスを絶対に守るべきであって、法の抜け穴を利用して利を追求するなど許せないと思っている。

   会社は株主のもので、そのために、会社の時価総額をアップして企業価値を上げて株主に奉仕するのが経営者の最大の義務だと言った議論が展開されていた。
   村上ファンドやライブドア問題などは、その頂点の産物で、株さえ握れば株主は何でも出来るのだと言う風潮が蔓延して、企業は戦々恐々となり、こぞって企業防衛策準備に奔走し始めた。

   東大の岩井克人教授が、会社は株主のものだと言う見解を否定している。
   会社はモノとヒトの両方の要素を持つ二階建て構造になっていて、株主はモノとしての株を保有し、会社はヒトとして会社財産を保有する。
   ポスト産業社会では、イノベイティブな差別化を生み出し富を創造する源泉はヒトであり、会社の一面である株主主権論を振り回しすぎると有能な人材は逃げてしまう。
   日本の経営は、株主の力を弱めて、従業員にロイヤリティと創意工夫をそくする体制をとって成長して来た。
   ヒトが大切であり、企業買収は、ヒトの組織を買うのも同然であるから、敵対的買収は馴染まない。

   上村教授は、もっと激しく株主主権論を糾弾する。
   株主は、お金を借りられたから株を買えただけで、たった30人くらいの株主の村上ファンドが、何千万人のステークホールダーを持つ阪神を支配し勝手なことができると言う構図こそ、企業と市場と市民社会と言う観点から日本人が懸命になって戦うべきである。
   バカな法改正で、日本の企業法制、資本市場法制というのはここまで野放図に許してしまって、不備な法の抜け穴をついて暴利を貪ればやり得で、その後から追っかけて違法となるのが現状の日本。

   成熟社会のヨーロッパでは、市民社会の公共、コモンズが重視されており、所有と言う概念も公共性の前には犠牲をはらわなければならないと言う考え方が徹底しており、この公共と交わる所有への制約が大きく、真の意味の個人の所有の絶対性が強調されている。
   企業買収は勿論、このような考え方の基に法体系が整備されており、例えば、イギリスでは、企業買収ルールであるシティコードに詳細に規定されており、シティパネル(委員会)に聞けば直ちに答えが返ってくる。ところが、日本では個々に弁護士事務所に無駄な高い金を払って防衛策を整備しなければならず、法体系の不備はここに極まれりである。

   一方アメリカでは、確かに、法体系は自由だが、連邦ベースの統一商法典がないけれど、各州が反テークオーバー法を持っており、支配株主の忠実義務の法理があるなど各種の網がかかっていて、不条理な企業買収はロックされるようになっているので、何の法体制の準備のない日本がアメリカのライツプランの部分だけを導入するのは短絡的だと言う。

   資本市場法制が不十分だから怪しい買収者が出てきて、企業結合法制がないから支配しても責任を持たない株主が存在しうる。ましてファンドは、本当の株主の匿名性を維持し続けたまま自分が株主だ、所有者だと大きな顔をして言いたい放題のことを言って経営者を攻め立てている。
   国は統一ルールを作ろうとしないが、実に無責任で、年金不祥事に匹敵する大問題だと言う。
   日本は世界一買収しやすい国になってしまったので、新日鉄でさえミタル・スチールに買収される心配があり、企業買収防衛カルテルのような協定を結ぶなど防衛に努めざるを得ないが、これが経済産業省の方針なら、何処か、日本はおかしくなり過ぎたのではないか。

   アメリカ型の法を導入したが、法制度の整備が不十分な日本で、形式解釈が横行しているので、やった時は何でも適法、その後に法を改正して違法と言うことが続いている。
   卑劣な抜け駆け行為や脱法行為が肯定され成功者として扱われているのが今の日本。法制度が完備するまで、実質解釈で切り抜けざるを得ないが、悲しいかな、最高裁判事には、商法・会社法の専門家は一人もいないと言うお粗末さだと言う悲しい現実。

   とにかく、連合など会社従業員は、違法なファンドの横行で泣いているのなら、法制度の理不尽さをつき実質解釈を求めてハゲタカ・ファンドと徹底抗戦をやるべきである。
   会社は株主だけのものではなく、従業員のものでもあると思えば戦える筈である。
   
   
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芸術祭十月大歌舞伎・・・赤い陣羽織

2007年10月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   正に芸術の秋で、歌舞伎座の演目も、藤十郎と時蔵の「恋飛脚大和往来」や仁左衛門と玉三郎の「牡丹燈籠」、それに、玉三郎の「羽衣」や三津五郎の「奴道成寺」の舞踊などと非常に充実していて楽しい。
   まず、興味深かったのは、昼の部の冒頭の「赤い陣羽織」で、これは、スペインの民話を主題としたアラルコンの「三角帽子」に着想を得て、木下順二が民話劇に仕立て上げた面白い舞台である。
   無類の女好きの代官が、村人の美人の女房にモーションをかけて寝取ろうとする話で、失敗した上に、結局最後には奥方にこっ酷くとっちめられてお仕舞いとなる。

   こんな話は、良くある話で、水戸黄門の話になるともっと悪辣だが、スペインあたりでも、初夜権を行使した領主がいたし、モーツアルトのフィガロの結婚も良く似ており、とにかく、笑い飛ばして話が終わり、人畜無害、めでたしめでたしで終わるのが良い。
   この原作の方は、ファリャのバレエ「三角帽子」の方で親しまれている。
   スペインの方は、粉屋夫婦が主人公であるが、何となく、ブリューゲルの田舎風景のワンシーンのように浮かび上がってきて面白い。

   村人おやじ(錦之助)と女房(孝太郎)と馬の孫太郎が平和に暮らしている所へ、お代官(翫雀)が、女房に懸想して見回りと称してしばしば訪れてくる。
   口説きに来たので、女房にからかってやれと言っておやじは隠れて聞いている。お代官の間抜け振りを肴に晩酌をしていると、子分(亀鶴)と庄屋(松之助)がやって来て、濡れ衣を着せておやじを逮捕する。
   お代官が、真夜中に夜這いに来るが、途中で川に落ちてずぶぬれになり、女房に鍬でぶたれて卒倒して、おやじの家で寝込む。
   逃げて帰って来たおやじが、子分が乾した赤い陣羽織を見てショックを受けるが、腹いせに、脱いであったお代官の衣服に着替えて、逆に代官所に行って奥方(吉弥)を手篭めにしようと出かける。
   陣羽織がなくなったので仕方なくおやじの着物を着たお代官が代官所に帰ってくるが、固く閉ざした門は開かない。
   いくら陣羽織を着ていてもおやじは田舎者でお代官の風格はなく、瓜二つの人相でも奥方に見破られて総て白状。奥方は、先刻委細承知で、門は開けられ、悲嘆にくれる女房の前におやじがあらわれて抱き合い、迎えに来た馬と一緒に帰って行く。残ったお代官はこっ酷くとっちめられる。

   他愛のない話だが、錦之助と孝太郎のほのぼのとした夫婦愛が実に良く、それに、田舎者の純朴そのもののキャラクター描写が秀逸である。馬が演技をしていて、舞台に溶け込んでいるのがほほえましい。
   二枚目の錦之助が、何とも冴えない田舎者のぶ男を熱演していて、どこかニヒルで不甲斐ないひもの牡丹燈籠の源次郎と対照的で面白い。
   絶世の美人と言う設定の女房だが、容姿と言うより性格美人の孝太郎だが、機転の利いた利発で可愛い女を上手く演じていて、滲み出る夫一途の思いが彼の芸の本領。

   翫雀のお代官の滑稽さ、おかしみは、既に、7月のニナガワ十二夜の舞台で馬鹿貴族・安藤英竹で証明済みで、このようなコミカルな演技は、実に堂に入っていて、流石に藤十郎の息子である。
   今度は、多少威厳を伴ったお代官さまだが、スマートでないずんぐりむっくりの体形が、狡猾で好色な権威者のワルをアイロニーと笑いに巻き込む効果十分で、どこか関西風の雰囲気が出ていて中々良い。

   お代官をコテンパンに懲らしめる奥方の吉弥だが、威厳と風格を備えた堂々とした演技は、コミック劇場を締め括るに相応しい名演である。
   子分の亀鶴、庄屋の松之助のコミカルで軽妙な演技も、リズミカルで面白い。
   木下順二の作品も素晴らしいが、福田善之の演出が冴えていて、実に見ごたえのある舞台を作り出していて、十月歌舞伎は、冒頭から面白い。
   
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時事雑感・・・(2)日本の政治の昨今について

2007年10月09日 | 政治・経済・社会
   アゲハチョウが、ひらひら飛んできて、何故か、ツゲの葉に止まって小休止した。
   翅も大分傷ついて欠けていて、盛りを過ぎているので一寸かわいそうだが、カメラに収めた。
   日本のチベットと言われる千葉のトカイナカなので、幸い住宅街の外れでもあり、わが庭にも、色々な鳥や蝶等小さな生き物が訪れてくれるのだが、その姿を眺めながら、まだ、自然環境、エコシステムが健在であることを感じて喜んでいる。
   可愛がっていたシーズーのリオが居なくなってからは、近くの小川や田畑の土手などを歩くことも少なくなって、公園なども花の写真を撮るためにたまに出かける程度になって、自然との関わりが少なくなっている。

   (日本の政治の昨今について)
   坊ちゃん内閣の安倍政権が1年で消え、呉越同舟で安全パイを求めて集合した自民党員で選ばれた、理想も思想も殆ど不透明で何も分からず、日本の将来ビジョンさえハッキリしない福田首相の内閣が始動して一ヶ月弱。
   東大の国際政治学者で、文化人タレントから政治家になって益々意気軒昂な桝添大臣だけが突出して目立っている福田内閣だが、ご祝儀相場か世論調査では、50%以上の支持を得たと言う。
   殆ど何の本質的な変化もないのに世論調査が異常にアップダウンするのは、タレントの人気投票と同じで国民の無定見の極み。政治のノック青島現象である。

   激動している国際情勢にも殆ど関わらずに、相変わらず、太平天国を決め込んでいる日本。相撲協会がけしからんだとか、松井が打った打たなかったと言うニュース(?)は仔細漏らさず、ワールドシリーズや日本シリーズがどうだこうだとメディアが嬉々として克明に報道している国だから、
   政治の方も、最近は、社会保険庁の悪行や事務所経費の処理に1円以上の領収書添付の必要性云々など末梢的な問題ばかり議論していて、日本のあり方、日本の将来についてなどといった基本的な重要問題は政争の具にさえならない。

   安倍政権の不幸の一因は、小泉内閣の極端な政策と舵取りの強引さによって日本の経済社会が大きくスキューしたことによる後遺症をもろに受けて、その対応に苦慮しながら躓いたことにあると思うが、題目だけに終わったものの、戦後レジームからの脱却や憲法改正、教育制度の改革など重要な問題に国民の意識を向けさせた点は評価すべきかも知れない。

   安倍内閣の改革で、不満なのは「国家公務員法」のごり押し改正で、政官癒着の不幸な過去から脱却出来なかったことである。
   国家公務員法改正によって「官民人材交流センター」が設置されることになっているが、根本的な問題は、日本の経済社会において天下りが良いのか悪いのかの1点に尽きる。
   結論は、天下りがない方があるより良いことは陽を見るより明らかで、天下りがあったことによって利権の温床を生み出し、日本の経済社会を大きくスキューさせ健全な機能を麻痺させてきた。

   官僚の知識や経験が欲しければ(利権がらみでなければ殆ど使い道も必要もない)、官民交流の極めて頻繁な欧米のように、「官製天下り用人材バンク」を通さずに、民間人並みにハローワークか民間の人材バンクを通じて、或いは、個人的なルートで就職活動をすればよい。
   私の経験でも、欧米では国家が絡むことなど聞いたこともないし、明治時代ならいざ知らず、国家が官僚の再就職を斡旋する特別な機関を設置するなど言語道断である。

   最近は、格差問題に視点が移って全く視界から消えてしまったが、国の基本法である憲法の見直しについては、如何なる政権であっても、或いは、如何なる時期においても、絶えず最重要課題として正面から取り組むべきだと思っている。
   平和憲法と言う誇るべき憲法であっても、占領下で産声をあげた憲法であり、この間、我々を取り巻く政治経済社会環境が革命的な変革を遂げ、我々日本人のあり方も価値観も大きく変わってきており、このような国家が岐路に立っている時にこそ、改めて国のかたち、日本国のあるべき姿を検討して、よって立つべき基本法をしっかりと確立すべきである。

   例えば、最も重要な生存権の問題だが、
   憲法第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する と規定しているが、「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」と言うワーキングプアーが益々増える一方で、格差が拡大し、日本の良き公序良俗、素晴らしい伝統文化や品格が危機に瀕している。
   この過酷な現実を如何に克服して正常軌道に戻すか、これこそ日本存亡の危機であり、これを考えずに日本の未来はない筈である。

   日本の政治も外交も、そして、国の方向も、揺れ動きながら定かでないのは、悉く憲法が曖昧な為。
   早い話が、平和憲法の根幹である前文と第9条の解釈にしても、世につれ人につれてゴムの様に伸びちじみし、テロ対策特別措置法に基づくインド洋での石油補給支援にさえその解釈に混乱を来たしている。

   平和平和と叫んでみても、すぐ傍に核兵器を保有し世界に恐喝外交を強いているならず者国家が存在し、世界各地には、テロが横行し、何時爆発しても不思議ではない紛争地域や火薬庫が至る所に存在するこの世界で、有事の際は、丸腰でどう対処しようとするのであろうか。

   日本が核兵器の準備をしていないとするならば、それは大変な驚きだとヘンリー・キッシンジャーが言っていたが、アメリカ自身、自分たちの安全確保が精一杯で、いくら日本が有事で危機に遭遇してアメリカに擦り寄っても、自分の国は自分で守れと突っぱねられるのが関の山であろう。
   第一、自分の国を自分で守れない、或いは、百歩譲って、自分で守るのが国際信義に反するので守れないと言うような国がこの地球上に存在しても良いのであろうか。
   そして、図体ばかり大きくて、厖大な武器を持ちながら封印して使えないと言いながら、安保理に入って一等国の仲間入りをして名誉ある地位を占めたいと言っても誰が信用して認めてくれるであろうか。

   何も、第9条を変えて正式に軍隊を持てとか、核兵器を開発しろと言う心算は毛頭なく、この厳しい現実の国際情勢を十分に検討・把握して、もう一度、根本から日本の国のかたち、あるべき姿を国際平和、恒久平和と言うフィルターを通して考えよう、そして、よって立つべき日本の理想とビジョンを叩き込んだ基本法たる憲法を作ろうと言うのである。
   これほど、21世紀の未来を志向した壮大な人類にとっての偉業はないと思っている。
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新日本フィル定期公演・・・ミヒャエル.ボーダーの独墺音楽

2007年10月07日 | クラシック音楽・オペラ
   今回の新日本フィルの定期公演は、モーツアルトの「魔笛」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、ブラームスの交響曲第4番と言う非常にポピュラーな素晴らしいプログラムだったが、指揮者ミヒャエル・ボーダーに馴染みが薄い所為か空席が可なりあった。
   しかし、ボーダーは、奇を衒わず、実にオーソドックスでメリハリの利いたダイナミックな演奏を聴かせてくれて、独墺音楽の素晴らしさを満喫させてくれた。

   魔笛の序曲は、何時聴いてもワクワクするのだが、やはり、これは序曲であって、ほんの導入部のさわりだけ、オペラを見ないと意味がない。
   この魔笛は、舞台デザインや振付によって大きく印象が変わるのだが、昨年METライブビューイングでは、ライオンキングのジュリー・テイモアの演出と意匠デザインで、幻想的で面白かった。

   この日素晴らしかったのは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番で、冒頭のソロから、フィンランドのピアニスト・アンティ・シーラフの実に繊細で美しい音色に感激して聴いていた。
   特に、弱音のピュアーな小鳥の囀りの様なサウンドは、涙が出るほど美しい。
   ベートーヴェンの音楽は、モーツアルトの音楽のように天国的な美しさからは程遠いけれど、このピアノ協奏曲は、ベートーヴェンの中でも飛び抜けて美しく幻想的な曲の一つだと思っているが、森と湖に囲まれた美しい国のシーラフが、その自然の美しさを髣髴とされるように、実に叙情的に、そして、詩情豊かに演奏してくれた。
   このピアノ協奏曲は、耳が悪くなったベートーヴェンが独奏で弾いた最後の協奏曲で、1808年12月22日に、「運命」や「田園」と一緒に初演されたと言う絶頂期の作品である。

   フィラデルフィアやアムステルダム、ロンドンなどで聴いたベートーヴェンのピアノ協奏曲は、第五番の「皇帝」の方が多いのだが、比較的聞く機会が少なかったこの第4番の方が好きである。
   ウィーンに移った時のベートーヴェンは、ピアニストとして大変な名声を博していたようだが、ピアノ協奏曲を5曲、ピアノ・ソナタを32曲など多くのピアノ曲を生み出している。私は、三重協奏曲の素晴らしさに何時も感激して聴いている。

   後半は、ブラームスの交響曲第4番。
   ワーグナーが去った後でも、何かと比較されて旗色の悪かったブラームスの最後の交響曲だが、大事を取って、ウィーンではなく、ハンス・フォン・ビューロー指揮でマイニンゲン宮廷管弦楽団で初演されたと言う。
   クララ・シューマンを思い続けながら、真面目一方で、堅実に形式を重んじて作曲し続けていたブラームスの妥協と迎合を排した孤高の作品と言うことであろうか、私は、この曲を聴くと何時も、不器用だがそんな内に秘めたブラームスの激しい情熱と生き様を感じて感動する。
   ファンがワーグナーとブラームスに分断されていたと言うが、私は、この曲を聴いていてワーグナーの音楽が聞えてくるような気がするのだが、
   流石にドイツの指揮者、ミヒャエル・ボーダーは、実に激しく、そして、時には天国からのような煌きをみせながら、実にダイナミックに新日本フィルを歌わせた。

   新日本フィルの定期では、アルミンクになってからドイツ系統の選曲が多くなったような気がしているのだが、アルミンクのサウンド作りとネイティブな音楽の息吹を、そしてその薫陶を受けて、同楽団のブラームスやベートーヴェンなど独墺音楽が実に素晴らしくなったと思っている。
   ハイテンクからリカルド・シャイーに変わった後のコンセルトヘボウのサウンドが、非常に明るく感じるようになった時にも、主席指揮者の影響が実に大きいと思ったのと同じ気持ちである。
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エコバッグの流行

2007年10月06日 | 生活随想・趣味
   CEATECの会場で、資料入れのためのエコバッグを貰った。
   これまでは、大型の社名やロゴ入り、絵が描かれたプラスチックバッグかペーパー製の手提げ袋が主体だったが、気の利いた会社は洒落たエコバッグに変えて、人気が出たのか、「本日のエコバッグの配布は終了いたしました」と立て看板を立てている。
   セミナー等の会場でも、同じ様な資料用の袋がエコバッグに変わったところもあり、写真は、これまでに貰ったエコバッグであるが、イノベーションの文字が書いてあるのが時代の流れで面白い。
   レジ袋削減に呼応した新商売として、エコバッグに力を入れ始めた会社が出ているようだが、紙の袋と違って耐用性があるので、使ってもらえれば宣伝や販売促進効果が出る。
   コットン布、ポリエステル、不織布、ビニール製など色々あるようだが、可なりしっかりして気の利いたファッション性のあるものも出てきており、使い方によっては重宝する。

   六月のソニーの株主総会でも、お土産の袋代わりに折りたたむと極小のウォークマン位の大きさになる便利な布製のバッグを貰ったが、これなど、カバンなどを持たずに外出して意図せずに買い物などした時には、便利である。

   私は、あまりカバンやバッグを持ち歩かない方だが、何年か前にセミナーだったか何かの機会に、omronから、布袋を貰ったのだが、これを大変重宝して使っている。
   A5版より少し大きめの紺色の木綿製のバッグで、簡単な手提げがついているだけだが、折りたたむと丁度ハンカチくらいの大きさになるので、常時ポケットに携帯していて、本や資料などが増えるとこれに入れて歩いているが、紙袋やプラスチックバッグよりはるかに便利でよい。
   表に、omron Sensing tomorrow と書かれているが、最初に貰った時には、意表をつかれたので、やはり京都の会社だから田舎臭いものをくれるなァと怪訝に思ったのだが、今では反省している。
   もっとも、それほど様になるものでもないので、家内は止めてくれと言っているのだが、私は、結構満足しているのである。
   LOEWEやBallyのバッグやケースを持っていても、海外で動き回っていた時には気にはならなかったが、日本では、何となく違和感を感じて使えなくなってしまったのである。

   日本には、風呂敷と言う素晴らしいラッピング文化があり、何にでもあって、日本人は重宝してきたが、最近、あまり使われなくなった。
   この風呂敷を応用して、軽くてコンパクトで機能性のある何か気の利いた手提げが生まれないかと思っている。
   繊細優美な日本の伝統芸術を生かして模様やデザインの洒落たものが出来れば重宝すると思う。

   ところで、エコバッグだが、沢山あれば良いという物ではなく、私の場合は、もう十分で、これ以上貰っても処分に困る。
   一寸したイノベーションではあったが、短命であり、これから採用しようと思っている会社は、どうするか考えた方が良いと思う。
   
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ブルーレイとHD DVDとの熾烈な戦い

2007年10月05日 | イノベーションと経営
   今回のCEATECは、HDを主体としたコンバージェンスがテーマだが、愈々、製品が投入され始めたBD(ブルーレイ)とHD DVDの主導権争いが熾烈を極め始め、結局、VHSとベータの時のように市場で決着をつけなければならなくなってしまった。
   今日、CEATECのセミナー会場では、午前中一番にHD DVD陣営が、午後一番遅くにBD陣営が夫々プロパガンダを繰り広げた。
   HD DVD陣営は日本メーカーでは東芝だけだが、マイクロソフトが加わっており、それに、先駆けて廉価な機器を発売して先行した所為もあってか欧米ではリードしているが、BD陣営は、福田さんのケースのように日本のメーカーが殆どサポートしているので、勝ったも同然と言った雰囲気。
   とにかく、消費者は良い面の皮だが、私は、最近、韓国業者が発表したように、両方に対応出来るハイブリッドのレコーダー等の機器が出来て決着すると思っている。

   東芝が言っているように、全世界200社が加盟するオープンな標準規格化団体DVDフォーラムが制定して統一したのであるから、特にずば抜けて質が高い革新的なイノベーションではない限り、不必要な負担を経済社会にかけずに、これまでの方式を踏襲してイノベーションを進めるのが本来だと思う。
   HD DVDシステムなら、これまでの製造システムがそのまま活用でき複製もし易く、それに、同じHD DVD機器で、これまでの古いスタンダードのDVDの再生機と互換性が利くなど、消費者にとっては有り難い。
   ビデオカメラで撮ったフィルムやテープの8ミリを、そして、VHSやベータのビデオ録画をデジタルにダビングした苦労を多くの人が持っていると思うが、DBを持てば、これまでのDVD機器をそのまま維持しなければならないことになってしまって同じ苦労が残る。

   ところで、BDとHD DVDの差だが、ハイビジョン放送の録画を目的として開発されたBDに対し、高画質パッケジソフトの再生を主目的に開発されたHD DVDとの差が縮まって来て、今では、容量の違いと物理的な記録層の違い、それに、セキュリティ対応の多少の差だと言う。
   大容量で高画質、高音質は勿論、デジタル技術を活用すればいくらでも活用範囲は拡大して、大げさに言えば無限の可能性があるのだから、どちらが良いかと言うフォーマット競争など低次元の話になってしまっている。
   どうせ、HDオーディオ・ビジュアル機器はスマイルカーブの真ん中で、すぐにコモデティ化してしまって、熾烈な過当競争だけに終わって利益に貢献しなくなるのは火を見るより明らかになる。
   BRIC’sあたりのメーカーがローエンド・イノベーションで、HD市場に参入して来るか、あるいは、HD技術をおお化けするようなノウハウで活用したソフト指向の会社に利をさらわれてしまうか、そんな可能性も高い。

   HD対応TV受像機も、プラズマ、液晶、有機EL、キヤノンのSED等技術は多様だが、ある意味ではイノベーションの帆船効果で、鎬を削って戦いながら、結局は、アッターバックの説く如く、ドミナント・デザインに集束して行くのであろう。
   BDとHD DVD戦争も、互換性の利く便利で安いハイブリッド機器が普及すれば、両システムの並存はあるであろうが、何れは、ドミナント・デザインに落ち着くであろうが、新しい破壊的イノベーションが生まれてくれば面白いと思っている。

(追記)写真は、ビクターのハイビジョンの4倍の精度のある4Kシステムカメラ。
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バラ色の携帯電話の未来、グローバル・スタンダードからの乖離

2007年10月04日 | 経営・ビジネス
   有楽町のビッグカメラの入り口で、ロッキーの最終巻のDVD販売キャンペーンをしていたが、こっちの方は店員が声を枯らしても客は一人も興味を示さず、
   同時に巨人軍優勝記念セールを盛り立てるため、優勝当日の東京ドーム球場でのヤクルトとの戦いのDVD録画を大型の薄型TVで放映しており、こちらの方は沢山の人だかり。
   やはり、巨人が優勝しないと日本は元気にならないのかも知れないと思いながら、しばらく見ていた。
   ところで、巨人優勝で、あっちこっちで、特別記念セールをやっているようだが、サブプライム問題もあるので、消費アップで経済効果をあげてもらいたい。
   何れにしろ、録画は、ブルーレイかHD DVDかは知らないが、シャープの素晴らしい画像を見ていると、昔、街頭で人が群れて見ていたカラー初期の画像を思い出して今昔の感に打たれた。

   ところで、シルベスター・スタローンが一声を風靡したロッキーだが、もう何十年も前の映画だし、世代も代わっており、うず高く詰まれたDVDが売れるのかどうか気になった。
   最初の映画には、舞台がフィラデルフィア美術館の前のアプローチで、まっすぐに虹状に彩色された綺麗な道路の上を、ボクサーのスタローンが走っている姿が映っていたのを見て、懐かしかったのを覚えているが、何度見ても殆ど記憶は残っていない。

   ビッグカメラの一階は、駅から東京フォーラムに抜ける時に、見物を兼ねて突き抜けるのだが、入り口には、携帯電話コーナーがあって何時も賑わっている。
   この建物は、以前は、そごう百貨店の店舗だったが、潰れる直前は閑古鳥が鳴いていて実に哀れだった。オープン当時は、フランク永井が「有楽町で逢いましょう」と歌ったくらいで、大変な人気スポットだったが、ビッグカメラで人気だけは取り戻した。

   この携帯電話であるが、今日、CEATECで、ドコモとKDDIの副社長が立って、素晴らしい携帯電話の未来をぶち上げる基調講演を行っていた。
   私は、携帯を使わない天然記念物のような人間なので、語る資格はないが、要するに、今の携帯は、電話機能以外に、パソコン、ゲーム、音楽プレイヤー、カメラ、felica様のクレジットカード等々便利な機能を満載した複合機で、ユビキタス、ウイキノミクス、フラット社会の典型的な文明の利器と言うことであろう。
   一番近い印象は、動くパソコンと言った感じである。
   二人の講演を聞いていて、パソコン会社やその関連会社、コンシューマー・エレクトロニクス会社などの社長が言っているのと全く同じことを語り、同じ方向に研究開発も含めて事業展開しているような気がした。

   ところが、この携帯電話が、今まで、電話会社が奨励金をメーカーに払っていて、ユーザーに安く提供していたのを、奨励金を止めるので高くなるらしい。
   1円とかロハと言うのは論外としても、2万円のものが6万円になるのはどうであろうか。
   本来、コモディティであって安くないと意味のない機械なのだが、あれだけ複雑な機能を持ち、コンピューターチップの塊のようなPC以上の性能を持つ製品なのだから安い筈がない。
   と言って、何時までも、普及のために機器の価格を安くして、逆に、電話料金を高くしてコストを回収すると言う日本的な方法は、グローバルには通用しない筈である。
   しかし、日本メーカーが製造コストに見合った価格で売り出せば、サムソンを筆頭とした外国メーカーに完全にやられてしまう心配がある。何しろ、日本メーカーの世界的シェアは異常に低くて競争にならない。

   日本メーカーの弱点は、ドコモのスタンダードがどうと言う前に、日本国内市場が大きくて恵まれすぎていて、ノキアやサムソンのように自国市場が小さくて最初から海外市場を相手に戦略を打たざるを得ないメーカーとでは、グローバル市場での戦いの決着はとっくについている。その国内市場で、多くのメーカーが寡占状態で乱戦模様であるから、技術は進化するが利益基調にはならない。
   まして、先進国は飽和状態で、今後の需要がBRIC'sを筆頭に発展途上国だと言うから、安くて簡素なローエンド型のイノベーション製品を要求されるのであるから、技術水準で進みすぎた日本メーカーのターゲット市場になり難い。
   1億台にも普及して行き渡ってしまった日本での競争は、市場の食い合い以外になく、価格が上がればどうして日本企業は生き延びて行くのか。熾烈な業界再編成など暗い未来が待っているが、何時までたっても、グローバル戦略を打って経営できない日本企業の悲劇は続く。
      
   日本が一番グローバル化に遅れているとドラッカーがいみじくも言ったが、どのメーカーも日本市場第一で製品を開発製造していて、真っ先に、グローバル市場を相手に戦略を打つべきを怠っていることが問題なのである。
   巨大な日本市場が、多くの日本製造業のグローバル市場では足枷になっている現実から早く脱却する必要があると言うことである。
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CEATEC 2007・・・薄型TVのイノベーション乱舞

2007年10月03日 | 経営・ビジネス
   幕張メッセで開幕中のCEATECだが、外人客や高校生達も沢山見に来ていて大変な賑わいである。
   私は、基調講演などセミナー受講が主体で、展示場の見学は従なのだが、素晴らしい最先端のITやエレクトロニクス製品が競うように展示されていて、それを梯子しながら歩くのも楽しい。
   今回は、出展者も増えたのか、TV,DVD,デジカメなどのコンシューマー・エレクトロニクスの展示されているデジタルネットワークステージのホーム&パーソナルゾーンが、離れた増設会場に移っている。
   面白いのは、各企業とも競って綺麗な案内嬢を勢揃いさせて接客させているので、CEATECそっちのけで、一人づつ片っ端から彼女達の写真を撮っている若いアマチュア・カメラマンが多い。

   デジタルAVでは、やはり目立つのが薄型TVの派手な宣伝合戦で、今年は、特に薄さが話題になっていた。
   一番薄いのは、ソニーの27v有機ELテレビで3ミリだが、基底部にスタンド状の機械部がついているので一寸違うが、このテレビの特色は、なんと言っても画像の美しさで、本格的に参入すれば、小型テレビでは、液晶やプラズマの市場を相当蚕食するであろう。
   液晶で薄いのは、日立の1.9センチだが、列を成しているので何かと思ったら、囲った小部屋で台上に3台並べて見せている。

   シャープの2センチの液晶TVは、同じ様に3台(うち1台は回転)展示されているが、これはオープン展示なので良く分かり、確かに、壁掛けなどインテリアとして使えると思った。
   シャープのもう一つの呼び物は、この口絵写真の108インチの世界最大の液晶TVで、町田会長もセミナーで語り、展示場でも、デモンストレーションをしていたが、これだけ大ききなると臨場感抜群で、それに、画面を分けて同時に複数の機能を表示できる良さがある。(松下のプラズマも大きくて立派だが103インチ)
   丁度、TV画面に時刻表示があって助かっているように、大画面なので12分に余裕があり、朝出かける時に、ニュースや天気予報、交通情報、ニューヨーク株式等々、必要なものを同時並行的に一覧表示されると非常に都合が良い。

   同じく来年一番乗りでヨーロッパで発売する薄型2センチをビクターが展示しているが、ここでビックリしたのは、フルハイビジョンの4倍の精度を持つ4Kカメラとプロジェクターのシステムで、ここまで来ると画素などと言う次元ではなく銀塩フィルム並みの高画質である。
   このビクター、VHSの生みの親でソニーのベーターを駆逐した名門でありながら、経営悪化で松下に見限られて、今では独立してケンウッドと提携関係にあるのだが、これだけの技術を持ちながら、何故、売却問題を起こすのだと社員に聞いたら黙っていた。
   大きなブースを構えて意欲的な展示をしていたが、製品は他のエレクトロニクス会社に引けを取っていない。

   私は、ソニーの一眼レフα700を見にブースに行き、試し撮りなどをして感触を試した。
   備え付けの専用レンズなので何とも言えないが、望遠があまいような気がしたが、やはり進化が著しく素晴らしいカメラである。
   ミノルタは、元々ライカと協力関係があり、ライカのメカニカルな部品はミノルタ製であった筈だが、ソニーとの関係で、今度はカール・ツアイスと協力してレンズを開発し、カール・ツアイス名のレンズはミノルタ縁の日本メーカーで造っているらしい。
   エレクトロニクスのソニーとカメラのミノルタが一体となったのだから、立派なデジカメが生まれても何の不思議もないのだが、キヤノンとニコンの牙城を崩すのは中々大変なようである。

   ソニーのブースで、ついでに、ウォークマンを視聴してみた。
   誰もかれもがiPod,iPodと言うので、この手の小型音楽プレーヤーを敬遠していたのだが、流石に素晴らしく、これ程までに技術が進んで素晴らしい製品になっているのかと驚いた。
   私は、何百曲もダウンロードして楽しむと言う趣味はないので、良いサウンドでクラシック音楽やオペラを楽しめて、その機械がコンパクトであればあるほど良いという程度なのだが、都心へは、交響曲を一曲聴けるくらいの電車距離なので、あれば、重宝すると思った。

   ところで、今回も素晴らしいコンシューマー・エレクトロニクスを見せてもらったが、何れにしろ、同じ製品が、益々良くなったという意味では、ただのクリステンセンが言う持続的イノベーションで、早い話が、新しいものは欲しいけれど、今もっているもので十分に満足しており不自由はないと言うところである。

   やや破壊的で新市場型のイノベーションであるHDオーディオ・ビジュアルであるブルーレイとHD DVDとのフォーマット戦争は納まっておらず、平行して展示されているが、何故か、両ブースとも人が寄り付いていない。
   VHSとベータの苦渋を消費者にまた味わわせるのか。私も含めて、どっちにしようか決めかねている消費者が多いと思うのだが、フォーマットを統一すれば、一挙に市場に弾みがついてハイビジョンDVD時代が到来して市場が活気付くのに、消費者軽視の愚を重ねるバカな会社ばかりである。
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デジタルコンバージェンスが切り開く新しい生活・・・シャープ町田勝彦会長

2007年10月02日 | 政治・経済・社会
   「見える、感じる、デジタルコンバージェンス最前線」と銘打ったテーマで、CEATEC 2007 が幕張メッセで開幕した。
   MITメディアラボのN・ネグロポンテ所長が言ったと言う『デジタル技術や通信技術の発展によって、放送・通信・出版など異なるメディアが一つに統合される、「メディアの集束」』が、急速に進展し、我々を取り巻く生活環境が完全に変わってしまった。
   これを受けて、シャープの町田会長が、デジタルコンバージェンスが切り開く新しい生活、それに伴う地球環境問題、今後の課題などについて基調講演を行った。

   デジタルコンバージェンスについては、一般的な話に終始して、特に新鮮味がある訳ではなかったが、興味深かったのは、町田会長の異分野の知や経験などの遭遇が如何に大切かと言うことをコンバージェンスに託して語っていた事である。

   シャープでは、古くから、緊急開発プロジェクト制度(緊プロ)が制度化されていて、全社横断的な緊急開発プロジェクトが生じた時には、社長直属で各部門から最優秀の人間を集めて対処する。
   いわば、製品開発における技術のコンバージェンスで、組織の垣根を取り外して技術の融合を図る。
   この緊プロで生まれ出たのがAQUOS携帯で、ワンセグ試聴に適した液晶の開発には、通信・AV・液晶技術者の連携が、そして、モバイル環境でTVを見るためのサイクロイドスタイルの開発には、デザイナー・機構技術者などの連携が必要となり、異分野の技術者達の知の結晶で生まれたものだと言う。
   製品そのものが、これまでのカテゴライゼーションでは対処できないコンバージェンス製品ともなれば、益々、緊プロ対応の異業種、異分野の知識・技術の融合と集積が必須となるのである。

   堺新工場は、第10世代の巨大なマザーガラス(57Vが8枚取れる5畳分の大きさ)を製造する最新工場だが、これに付随し関連するインフラ整備や部材・装置メーカーの工場も誘致して、亀山をはるかに上回る垂直統合型の21世紀のコンビナートを作り出すと言う。
   更に、TFT液晶と薄幕太陽電池とは同じ薄幕技術にしており、材料やユーティリティを共有化できるので一石二鳥、生産性の更なるアップを狙う。
   一社だけでは何も出来ない時代になった、異業種のコンバージェンス、コラボレーションが必須だと町田会長は言う。

   町田会長のもう一つの指摘は、「多能工」たれ。
   専門知識だけのI型技術者ではダメで、専門分野を極めた上で、他の広い知識とスキルを持ったT型人間であれと言うのである。
   この点については、私自身このブログでも触れているが、T型では不足で、π(パイ)型人間、すなわち、ダブルメイジャーであるべきで、それも出来たら法経乃至経営の文科系と理工系の両方の資格を取るべきだと思っている。
   即戦力となるのは、工学専攻でMBAだと思うが、逆に、MBAでMOTの勉強をすることも有用であろう。何れにしろ、個人としては、理工系と文科系のダブルメイジャーに育成することだと思う。

   もっとも、2分野の専門を持つと言うのは経営者等のビジネスマンの場合で、研究者や専門技術者の場合にはどうなのかは分からないが、先日中鉢社長の話を書いた時に、ご自身は鉱山学専攻でありながらフェライトを勉強してメタルテープを開発し、博士はテーマが変わった時に真価が問われると言っておられるので、やはり、理工系でもその中で異分野の知識があった方が良いのであろうと思う。

   しかし、何れにしろ、個人の力では限界があるので、会社の組織上、出来るだけ異分野の社員が遭遇する機会なり職場環境を造りだすことが大切だと思っている。
   そして、異業種企業との遭遇、コラボレーションの機会を作り出すことであろう。
   あらゆる機会を利用して、メディチ・インパクトを引き起こすことでる。

   
   
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ドイツのマイスターの仕事・・・品質管理の本質

2007年10月01日 | 経営・ビジネス
   私は、岡野雅行さんが、今様の本当のマイスター、それも、極めてイノベイティブなマイスターだと思っているが、今日は、岡野さんの話ではなく、ドイツ製の時計の話である。
   我が家のダイニングの壁に、ブダペストで買ったヘレンドの陶器製掛け時計が架かっているが、このヘレンドの飾皿に嵌め込まれた何の変哲もない時計が、素晴らしく品質が良いのである。
   ベルリンの壁の崩壊の後にハンガリーに行った時に買い、ロンドンでも使っていたのだから、もう20年近くも使い続けているが、電池の入れ替えの時以外には、文字盤に触れて時刻を合わさないのに、殆ど、狂わずに正確な時刻を刻み続けている。
   勿論、口絵写真の如く、皿に穴を開けて、時針を取り付けただけの簡素な時計なので、何の覆いもなく外部にむき出しのままなのだが、その正確さは、人間の心臓並みである。

   この時計の価格は、当然、ヘレンドの価値であろうから、時計部分はただの部品と言うことかもしれないが、背後に書いてある文字 KIENZLE QUARTZ GERMANY に興味を感じて、インターネットでホームページを開いてみた。
   "Only the Best is good enough", became the Misson Statement of Quality for the Company. と宣言しているKINZLEと言う西ドイツの立派な時計製造会社で、1822年、スイスとの国境近くの町SchwenningenでJ.Schlenkerによって創立され、その後、19世紀から20世紀にかけて、工学博士で企業家のJ. Kienzleが、正確性をモットーとした素晴らしい時計会社に脱皮させたのだと言う。
   この私の時計が製造されたのは、ベルリンの壁崩壊直後の混乱期のハンガリーのヘレンドなのだが、両国の貿易関係は正常に営まれており、世界に冠たるヘレンドとしての誇りと言うかクラフトマンシップが、この時計の質の高さを維持しているのであろう。
   ところが、家内が作ったアントン・ピークの絵を造形した掛け時計キットについている同じ様な時計だが、MADE IN JAPANと書かれたTAKANOの時計。日本製かどうかは怪しいが、どれもこれも数ヶ月で、時刻が完全に狂ってしまい使い物にならなくなり、折角の壁掛けなので、誤解を招くと困るので他人の目がとどかない所に時間を12時に止めて掛けたままにしてある。
   こんな製品は、製造すること自体が既に商業道徳違反であるが、売る方にも安ければ良いというモラルの欠如があり、日本の業者の仕業が悲しい。

   書棚の中に、2つの小さな置時計がある。
   一つは、スイスのみやげ物店で買ったDAINE HANDARBEIT とだけ書かれたくるくる回って時を刻む時計だが、これも、電池を換えるくらいで殆ど時刻の調整をしなくても10数年正確に動き続けている。
   もう一つは、イギリスの超有名店 MAPPIN & WEBB の12 gewls と書かれたずっしりと重いゼンマイ仕掛けの高価な時計だが、これは、古い様式のままの時計なので、時間が問題ではなく飾り物。ねじを回すのが億劫なので止めたままである。

   ライカのR3サファリは、何処がどうなったのか忘れてしまったが、一度修理に出したくらいだが、メカニカルな製造物におけるドイツ製品の質の高さは、やはり、マイスターの伝統が息づいているのか、世界最高水準のようである。
   いま、中国製品の質や安全について問題視されているが、日本の製品も最近は、IT製品の組み込みが増えて怪しくなって来ている。
   銘柄は秘すが、私自身、日本の電化製品やカメラ関連商品などトラブル続きで困っているのだが、これでも中国を非難できるのであろうか。
   電池や車など、売れれば売れるほど、欠陥商品のリコールが激しくなってきているが、しかし、欠陥率は、0.000…と気の遠くなるような確率。しかし、日本のトップ企業の製品でも、故障や機能不全など顧客を困らせる欠陥が、非常に多くなっており、メーカーは十分注意しないと消費者にソッポを向かれてしまう。

   ところが、一つだけ、満足している飛び抜けて素晴らしい日本製品がある。
   カシオのsolar cell SL-821と言う太陽電池組み込みの電卓である。
   ソーラー電池の電卓が出始めた頃だから、もう25年くらいになると思うのだが、ブラジルへの土産に買って手元に残った一つを愛用しているのだが、名刺サイズより一寸大き目の薄型で、タッチボタンの感触と言い数字の鮮やかさと言い、これまで、いくつも使い潰した電卓と比べて最も良かったと思っている。
   この電卓を持ち歩いていたので、40カ国以上の国を付き合ってくれたのだが、ケースが擦り切れそうになっているが、今でも、私の卓上で現役であり、正確に綺麗な数字をディスプレイしてくれている。
   
コメント (1)
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