私は、一度だけ、真近に、松下幸之助を見たことがある。
もう、40年ほども前で、京都グランドホテル(タキイ本社の隣)のオープニングの時で、住友の堀田庄三頭取と一緒だったが、耳の非常に大きな精悍な感じの人だという印象が残っている。
これまで、何らかの形で幸之助の書物に接してきており、松下経営哲学については多少の知識はある心算だが、欧米流のMBA的な経営学を勉強してきていたので、正面切って勉強をしたことはなかった。
しかし、危機に瀕していた松下を大改革して立ち直らせた中村改革について、克明に書いたフランシス・マキナニーの「松下ウェイ」や関連書籍を読んで、中村会長が、改革の原点であるとした松下幸之助の経営哲学とは一体何であったのか、そして、その哲学が、現代企業の経営にどのように生きているのか、知りたくて機会を覗っていたが、最近、ジョン・P・コッターの「幸之助論」が再販されたので、改めて読んで勉強しようと思った。
丁度その時、同時に、北康利氏の「同行二人 松下幸之助と歩む旅」が出版されたので、幸之助のバックグラウンドをもう一度復習しようと、渡りに船とばかりに、前座として読んでみた。
幸之助の経営哲学については、経営学として見ている訳ではなく、経営の神様としての物語的な視点で書かれているので、解釈の仕方に問題はあるが、人間・松下幸之助が、浮き彫りにされていて面白い。
私が一番知りたかったのは、まねした電器戦術が、幸之助の経営方針とどのような関わりがあるのかと言う点であった。
シュンペーター理論の根幹であるイノベーションが経済発展を引き起こすという論点は、会社経営においても厳粛なる真理だと思っているので、何故、革新的な企業家であった筈の幸之助が、まねした電器戦術に走ったのかが知りたかったのである。
盛田昭夫氏に言ったと言う「うちには、東京にソニーと言う研究所がありましてな。ソニーさんが、何か新しいものを作って、これエエなあと思ったら、それから作ったらエエのや。」と言う戦術である。
この点で、松下電器を窮地に追い込んだと考えていた中村会長は、「デジタル時代に突入したので、ウイナー・テイクス・オールで、イノベーターとして先頭を走らないと電機業界では生きて行けなくなったしまったのだ」と、小谷キャスターに答えていた、あれである。
北康利の本で、いくらか幸之助のイノベーションに関する考え方についてのヒントを得た。一つは、
井植兄弟が松下から独立して三洋電機を立ち上げて、イギリス式の噴流式洗濯機で、松下を凌駕した時に、幸之助は頭にきて井植薫を呼んで「電気洗濯機を普及させたのは誰やと思てんねん」と怒った。
これに対して、井植薫は、松下は先発メーカーと攪拌式電気洗濯機を普及させたのは事実だが、噴流式を普及させたのは三洋で、それを皆がまねしたまでだと切り替えしたと言うのである。
この時点で、幸之助は、イノベーションとは何なのか、企業の成長戦略の為にイノベーションが如何に大切かを忘れてしまっていたと言うことである。
もう一つ興味深いのは、後発の松下が、先進技術を導入する為に、一方的な片務契約で膨大な金を払って結ばなければならなかったフィリップスとの提携契約での幸之助の苦衷での決断である。
背中を押したのは、「あのフィリップスの研究所をつくるのには何十億円もかかるやないか。2億円でフィリップスと言う大会社を「番頭」に雇ったと思ったらええんや。」
真空管、ブラウン管、蛍光灯とフィリップの技術を駆使して松下の快進撃が始まったのだが、この時の成功体験が、ソニー研究所説の淵源となり、膨大な開発費と市場開拓費をショートカットして経費を浮かして、新製品の市場が成熟した段階で一挙に市場に出てマーケットシェアを奪うまねした電器戦術の導入となった、と思っている。
新製品と平行しながら技術を追っかけており、元々、技術的には最高の実力を誇る松下の技術陣であるから、技術後追いのキャッチアップ戦術など松下にとっては造作もないことであり、市場の普及成功を見てからの市場参入であり、松下の誇る全国に張り巡らした鉄壁の販売店網を叱咤激励して号令をかければ瞬く間に市場を制覇出来る。
しかし、日本がバブル崩壊とその後のデフレ不況に呻吟している間に、世界中は、デジタル化が進展して、インターネットがIT革命の引き金を引き、更にベルリンの壁崩壊後に一挙にグローバル化が進展し、経済社会環境を完全に変えてしまった。
それに、クリエイティビティの時代となり、ハイセンス、すなわち、感性豊かな創造的なデザインで、消費者の限りなく広がって行く要求を満足させ、ワクワクさせるような興奮と驚きを与える独創的な商品を生み出すイノベーターでなければ生きて行けなくなってしまった。
幸之助の経営哲学の精神は今でも燦然と輝いているが、その手法であった事業部制度も、販売店システムも、、まねした戦術もアウト・オブ・デイトとなり、換骨奪胎を目指した中村改革の時代となるのは、必然であった。
もう、40年ほども前で、京都グランドホテル(タキイ本社の隣)のオープニングの時で、住友の堀田庄三頭取と一緒だったが、耳の非常に大きな精悍な感じの人だという印象が残っている。
これまで、何らかの形で幸之助の書物に接してきており、松下経営哲学については多少の知識はある心算だが、欧米流のMBA的な経営学を勉強してきていたので、正面切って勉強をしたことはなかった。
しかし、危機に瀕していた松下を大改革して立ち直らせた中村改革について、克明に書いたフランシス・マキナニーの「松下ウェイ」や関連書籍を読んで、中村会長が、改革の原点であるとした松下幸之助の経営哲学とは一体何であったのか、そして、その哲学が、現代企業の経営にどのように生きているのか、知りたくて機会を覗っていたが、最近、ジョン・P・コッターの「幸之助論」が再販されたので、改めて読んで勉強しようと思った。
丁度その時、同時に、北康利氏の「同行二人 松下幸之助と歩む旅」が出版されたので、幸之助のバックグラウンドをもう一度復習しようと、渡りに船とばかりに、前座として読んでみた。
幸之助の経営哲学については、経営学として見ている訳ではなく、経営の神様としての物語的な視点で書かれているので、解釈の仕方に問題はあるが、人間・松下幸之助が、浮き彫りにされていて面白い。
私が一番知りたかったのは、まねした電器戦術が、幸之助の経営方針とどのような関わりがあるのかと言う点であった。
シュンペーター理論の根幹であるイノベーションが経済発展を引き起こすという論点は、会社経営においても厳粛なる真理だと思っているので、何故、革新的な企業家であった筈の幸之助が、まねした電器戦術に走ったのかが知りたかったのである。
盛田昭夫氏に言ったと言う「うちには、東京にソニーと言う研究所がありましてな。ソニーさんが、何か新しいものを作って、これエエなあと思ったら、それから作ったらエエのや。」と言う戦術である。
この点で、松下電器を窮地に追い込んだと考えていた中村会長は、「デジタル時代に突入したので、ウイナー・テイクス・オールで、イノベーターとして先頭を走らないと電機業界では生きて行けなくなったしまったのだ」と、小谷キャスターに答えていた、あれである。
北康利の本で、いくらか幸之助のイノベーションに関する考え方についてのヒントを得た。一つは、
井植兄弟が松下から独立して三洋電機を立ち上げて、イギリス式の噴流式洗濯機で、松下を凌駕した時に、幸之助は頭にきて井植薫を呼んで「電気洗濯機を普及させたのは誰やと思てんねん」と怒った。
これに対して、井植薫は、松下は先発メーカーと攪拌式電気洗濯機を普及させたのは事実だが、噴流式を普及させたのは三洋で、それを皆がまねしたまでだと切り替えしたと言うのである。
この時点で、幸之助は、イノベーションとは何なのか、企業の成長戦略の為にイノベーションが如何に大切かを忘れてしまっていたと言うことである。
もう一つ興味深いのは、後発の松下が、先進技術を導入する為に、一方的な片務契約で膨大な金を払って結ばなければならなかったフィリップスとの提携契約での幸之助の苦衷での決断である。
背中を押したのは、「あのフィリップスの研究所をつくるのには何十億円もかかるやないか。2億円でフィリップスと言う大会社を「番頭」に雇ったと思ったらええんや。」
真空管、ブラウン管、蛍光灯とフィリップの技術を駆使して松下の快進撃が始まったのだが、この時の成功体験が、ソニー研究所説の淵源となり、膨大な開発費と市場開拓費をショートカットして経費を浮かして、新製品の市場が成熟した段階で一挙に市場に出てマーケットシェアを奪うまねした電器戦術の導入となった、と思っている。
新製品と平行しながら技術を追っかけており、元々、技術的には最高の実力を誇る松下の技術陣であるから、技術後追いのキャッチアップ戦術など松下にとっては造作もないことであり、市場の普及成功を見てからの市場参入であり、松下の誇る全国に張り巡らした鉄壁の販売店網を叱咤激励して号令をかければ瞬く間に市場を制覇出来る。
しかし、日本がバブル崩壊とその後のデフレ不況に呻吟している間に、世界中は、デジタル化が進展して、インターネットがIT革命の引き金を引き、更にベルリンの壁崩壊後に一挙にグローバル化が進展し、経済社会環境を完全に変えてしまった。
それに、クリエイティビティの時代となり、ハイセンス、すなわち、感性豊かな創造的なデザインで、消費者の限りなく広がって行く要求を満足させ、ワクワクさせるような興奮と驚きを与える独創的な商品を生み出すイノベーターでなければ生きて行けなくなってしまった。
幸之助の経営哲学の精神は今でも燦然と輝いているが、その手法であった事業部制度も、販売店システムも、、まねした戦術もアウト・オブ・デイトとなり、換骨奪胎を目指した中村改革の時代となるのは、必然であった。