熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

北康利著 「同行二人 松下幸之助と歩む旅」

2008年06月14日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   私は、一度だけ、真近に、松下幸之助を見たことがある。
   もう、40年ほども前で、京都グランドホテル(タキイ本社の隣)のオープニングの時で、住友の堀田庄三頭取と一緒だったが、耳の非常に大きな精悍な感じの人だという印象が残っている。
   これまで、何らかの形で幸之助の書物に接してきており、松下経営哲学については多少の知識はある心算だが、欧米流のMBA的な経営学を勉強してきていたので、正面切って勉強をしたことはなかった。
   しかし、危機に瀕していた松下を大改革して立ち直らせた中村改革について、克明に書いたフランシス・マキナニーの「松下ウェイ」や関連書籍を読んで、中村会長が、改革の原点であるとした松下幸之助の経営哲学とは一体何であったのか、そして、その哲学が、現代企業の経営にどのように生きているのか、知りたくて機会を覗っていたが、最近、ジョン・P・コッターの「幸之助論」が再販されたので、改めて読んで勉強しようと思った。

   丁度その時、同時に、北康利氏の「同行二人 松下幸之助と歩む旅」が出版されたので、幸之助のバックグラウンドをもう一度復習しようと、渡りに船とばかりに、前座として読んでみた。
   幸之助の経営哲学については、経営学として見ている訳ではなく、経営の神様としての物語的な視点で書かれているので、解釈の仕方に問題はあるが、人間・松下幸之助が、浮き彫りにされていて面白い。

   私が一番知りたかったのは、まねした電器戦術が、幸之助の経営方針とどのような関わりがあるのかと言う点であった。
   シュンペーター理論の根幹であるイノベーションが経済発展を引き起こすという論点は、会社経営においても厳粛なる真理だと思っているので、何故、革新的な企業家であった筈の幸之助が、まねした電器戦術に走ったのかが知りたかったのである。
   盛田昭夫氏に言ったと言う「うちには、東京にソニーと言う研究所がありましてな。ソニーさんが、何か新しいものを作って、これエエなあと思ったら、それから作ったらエエのや。」と言う戦術である。
   この点で、松下電器を窮地に追い込んだと考えていた中村会長は、「デジタル時代に突入したので、ウイナー・テイクス・オールで、イノベーターとして先頭を走らないと電機業界では生きて行けなくなったしまったのだ」と、小谷キャスターに答えていた、あれである。

   北康利の本で、いくらか幸之助のイノベーションに関する考え方についてのヒントを得た。一つは、
   井植兄弟が松下から独立して三洋電機を立ち上げて、イギリス式の噴流式洗濯機で、松下を凌駕した時に、幸之助は頭にきて井植薫を呼んで「電気洗濯機を普及させたのは誰やと思てんねん」と怒った。
   これに対して、井植薫は、松下は先発メーカーと攪拌式電気洗濯機を普及させたのは事実だが、噴流式を普及させたのは三洋で、それを皆がまねしたまでだと切り替えしたと言うのである。
   この時点で、幸之助は、イノベーションとは何なのか、企業の成長戦略の為にイノベーションが如何に大切かを忘れてしまっていたと言うことである。

   もう一つ興味深いのは、後発の松下が、先進技術を導入する為に、一方的な片務契約で膨大な金を払って結ばなければならなかったフィリップスとの提携契約での幸之助の苦衷での決断である。
   背中を押したのは、「あのフィリップスの研究所をつくるのには何十億円もかかるやないか。2億円でフィリップスと言う大会社を「番頭」に雇ったと思ったらええんや。」
   真空管、ブラウン管、蛍光灯とフィリップの技術を駆使して松下の快進撃が始まったのだが、この時の成功体験が、ソニー研究所説の淵源となり、膨大な開発費と市場開拓費をショートカットして経費を浮かして、新製品の市場が成熟した段階で一挙に市場に出てマーケットシェアを奪うまねした電器戦術の導入となった、と思っている。
   新製品と平行しながら技術を追っかけており、元々、技術的には最高の実力を誇る松下の技術陣であるから、技術後追いのキャッチアップ戦術など松下にとっては造作もないことであり、市場の普及成功を見てからの市場参入であり、松下の誇る全国に張り巡らした鉄壁の販売店網を叱咤激励して号令をかければ瞬く間に市場を制覇出来る。

   しかし、日本がバブル崩壊とその後のデフレ不況に呻吟している間に、世界中は、デジタル化が進展して、インターネットがIT革命の引き金を引き、更にベルリンの壁崩壊後に一挙にグローバル化が進展し、経済社会環境を完全に変えてしまった。
   それに、クリエイティビティの時代となり、ハイセンス、すなわち、感性豊かな創造的なデザインで、消費者の限りなく広がって行く要求を満足させ、ワクワクさせるような興奮と驚きを与える独創的な商品を生み出すイノベーターでなければ生きて行けなくなってしまった。
   幸之助の経営哲学の精神は今でも燦然と輝いているが、その手法であった事業部制度も、販売店システムも、、まねした戦術もアウト・オブ・デイトとなり、換骨奪胎を目指した中村改革の時代となるのは、必然であった。
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法律は最低限度の道徳である・・・中島茂弁護士

2008年06月13日 | 政治・経済・社会
   日経ブッククラブの人材開発フォーラムで、企業法務と言うか経営法務の第一人者である中島茂弁護士が、秋山進氏に触発されて「コンプライアンスとビジネス倫理」について興味深い話を語った。
   世の中は、コンプライアンス、コンプライアンスと騒いでいるが、それほど立派なことではない。法令とは最低限度の道徳であると言うことを考えれば、(もっともっと大切なものに注意を払わずに、)この法令順守、すなわち人間が守るべきである最低にしか過ぎない道徳を守る為に、国中が狂奔すると言うのは寂しいことである、と言うのである。

   冒頭、企業の危機管理における、最近の変化について、
   雪印乳業などの食品偽装事件の頃は実際に多くの犠牲者が出たが、最近の赤福や吉兆のケースのように一人の犠牲者も出ていないのに騒がれるようになって来ている。
   賞味期限などは、本来、企業が自分で設定した基準であり、自主規制の問題でありながら、これに違反すると社会から糾弾され、政府は、検査が杜撰だとかとして法令や規則を設定したり罰則を科したりして、益々、規制やコントロールをきつくしている。
   大阪のジェットコースターの事故でも、吉兆の食べ残しの使い回しも、役所は法令違反ではないと言うが当然で、これは、企業倫理、会社としては当然行うべきこと、遵守すべきことを怠ったことで起こった社会に対する背信行為である。
   しかし、このような事故が発生する毎に、企業は内部統制の強化を強制され、政府は、益々、手を変え品を変えて法的規制を強化してペナルティを科しているのは、果たして喜ぶべきことか、と疑問を呈する。

   これに対して、秋山氏は、世の中には、全く利害や目的や価値観などを異にした多くの当事者が居るのだから、はっきりと法規制するなどルールを作る方が良い。企業は、法令など社会的な規制は、自分達をバインドするしつけのようなものであるから、これを所与の要件として徹底的に理解して、その上で自由に活動する方法を取れば良い、と言う。
   これは、先日、ブラジルの項で書いたように、異人種の坩堝であるアメリカが完全な法令重視の法化社会であるが、逆にブラジルは、法令よりも人間的な結び付きであるアミーゴ関係を重視する社会であることが参考になる。
   厳密では勿論ないが、何でも不明確な所は、法律や契約で雁字搦めにするか、もっと人間的な要素である倫理や道徳、人間としてあるべき規範に基づいて社会を律するか、丁度、十字路に立つ日本の社会のあり方を問うているのであると思っている。

   これと関連して、中島弁護士は、会社は株主のものであると原則論に立ちながら、この株主のためにと言う会社の行動は、大きく、人の為世の中の為にと言う重要な基準を踏み外してはならないと、アダム・スミスの「見えざる神の手の導き」説を展開しながら論じた。

   秋山氏は、日本の企業が長い年月を通じて営々と築き上げて来た貴重な遺産ともいうべき企業文化がある筈だが、これが廃れつつあり、これに対する認識が欠如していると指摘した。
   日本の優良企業には、創業者の家訓や社訓があり、これが長い歴史の中で磨き貫かれて企業文化と企業価値を支えて来ているというケースが多い。
   今、ジョン・P・コッターの「幸之助論」を読み直そうと思って、北康利氏の「同行二人 松下幸之助と歩む旅」を読んでいるが、幸之助の偉大さは、時代を超えて群を抜いている。
   中村会長の中村改革は、正に、幸之助の経営哲学の原点への回帰で成功したケースだが、財閥系の大企業も、多くの老舗大企業も、この企業文化の値打ちを忘れてしまって、迷走している日本企業が結構多い。
   ○○○○なら、こんな商品を絶対に売る訳にはいかない、××××社では、会社が潰れても、こんなことは絶対出来ない・・・そんな企業文化と経営哲学があったからこそ、日本の経済社会の発展があったような気がする。

   昔、中坊弁護士が、住管機構の取立てで、法令違反をしていないと逃げようとした住友銀行に法令は最低の倫理だと言って詰め寄ったケースを思い出すが、中島弁護士が指摘するように、最低限度の道徳を守るだけ(?)のコンプライアンスをやっていますと言って経営者が胸を張って大口を叩ける時代であるのかどうか、考えてみることも意義があろうと思う。

   もう一つ、何でもかんでも法規制に走ろうとする政府の対応だが、例えば、個人情報保護法によって、必要な情報までブロックされてしまって、世の中の人間関係がぎすぎすし、不自由極まりなくなってしまった。
   それに、企業の内部統制の強化だが、これは本来、経営者の質と能力の問題である筈が、そのレベルアップを一切無視して、法制度を雁字搦めにして、経営者の責任を回避するために、弁護士・会計士事務所やIT企業だけ儲けさせているようにしか思えないのは、僻みであろうか。
   世間と言う社会のチェッカーが廃れ、道徳や倫理がどんどん後退して行く法化社会の進展が幸せなことかどうか、私は、子供頃の日本がそうであったような、抜け穴だらけであったけれど、大らかであった社会の方が幸せであったような気がする。
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六月大歌舞伎・・・仁左衛門と段四郎の「身替座禅」

2008年06月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の夜の部は、吉右衛門が素晴らしいいがみの権太を演じている「義経千本桜 すし屋」、幸四郎と染五郎に福助が絡んだ怪談ものの「生きている小平次」など面白い演目が続くが、私が一番興味を持ったのは「身替座禅」である。
   今回は、山蔭右京が仁左衛門、奥方玉の井が段四郎、太郎冠者が錦之助と言うキャスティングだが、一昨年は、菊五郎、仁左衛門、翫雀、昨年は、團十郎、左團次、染五郎と言う素晴らしい役者たちの極め付きの舞台を観ているので、いかにも諧謔的でコミカルな舞台が、役者によってどのように展開されるのか、非常に興味を持って観た。

   後水尾天皇と家康の孫娘和子がモデルだと言われているようだが、とにかく、高貴な殿方が、美濃の野上の宿で契った遊女の花子が京に来ており、逢いたい一心で、夫一途の奥方を騙して、一日だけの座禅を許されて出かけるのだが、留守中替え玉に座禅させたのがばれてしまって、逃げ惑うと言う単純な話だが、これが、面白い。
   今回は、如何にも貴公子然とした品と風格が板についた仁左衛門が浮気右京を演じ、灰汁の強い性格俳優である段四郎が、恐妻妻を演じると言うのであるから、これだけでも、舞台の楽しさは想像がつく。

   仁左衛門は、昼の部は、新橋演舞場で、波野九里子と「婦系図」を演じる器用さ。
   今回の右京は、菊五郎や團十郎と比べて、どちらかと言うと計算尽くめの理知的な演技で、花子とのぎらぎらした色恋を前面に出すのではなく、最初から最後まで、話の展開を覚めた目で、ジッと噛み締めながら、丁寧に演じていたような気がした。
   特に、花子との逢瀬を楽しんで帰途に着く花道の出のシーンでも、二人のように、幸せ一杯で相好を崩して登場してくるのではなく、酔っているといった風情の方が強く、また、座禅衾を被っていらついている奥方玉の井へ聞かせる仕方噺のところなども、花子に奥方はどんな人だと聞かれてこんな人だと演じて見せたという件などは実に秀逸で、花子との逢瀬の至福さを見せる芸の細かさは勿論だが、観客の期待のもう少し先を行く演技であった。
   下世話な色恋ではなく品のある、そして、安易に笑いを買うのではない演技を心掛けたと言っているが、この辺の事情であろうか、とにかく、単純な話を物語りに設えているような感じがした。
   前に演じた奥方玉の井の舞台も素晴らしかったが、非常に考え抜いて舞台を勤めている、そんな印象の濃厚な舞台であった。

   それに、素晴らしかったのは、段四郎の奥方玉の井で、何時も厳つい役どころばかりが目に付くのだが、小柄でまるこい感じの体型が幸いしていることもあろうが、実に、可愛い雰囲気を出していて、これが、浮気などもっての外と言う夫思いの恐妻を演じていていて、ビックリするほど板についていて上手い。
   亀治郎の女形には、何時も新鮮な驚きを感じながら観ているのだが、流石に、親父さんだと感じて段四郎の至芸を楽しませて貰った。
   
   ところで、この身替座禅の奥方玉の井は、歴代、立役が演じているようで、観る前から、如何にも作った芝居と言う感じがしてしまうのだが、先入観と言うかしきたりと言うか分からないので独善で言うが、これを改めて、美女(?)役者と言うべき絶頂期の女形に演じさせる訳にはいかないものであろうか。
   例えば、福助や芝雀あたりが演じるとどうなるのか、考えるだけでも面白い。
   それも、顔の化粧などもこしらえずに高貴な奥方風で通して演じてみれば、私は、必ず、新しい展開次第で、新しい発見があり、歌舞伎の楽しみが増すような気がする。

   夫はいくら妻が絶世の美女でも、相手が変われば浮気をすると言うケースが、この世にはいくらでもある。
   一寸、恐れ多い例を引くのだが、私は、ロンドンで、ダイアナ妃にはご挨拶をして握手もしたし、何度か身近で拝見しているが、こんなに美しい人がこの世に居るのかと思って感激して見ていた記憶がある。
   相手は、大英帝国の皇太子だからと言ってしまえば、それまでだが、男の浮気心は、万国共通で、これが、雄としての真実であろうから、歌舞伎の世界も、厳つい男のような奥方を出して、無理にこしらえることはなかろうと思うのである。
   暴論かも知れないが、相手がこんな奥方だから浮気をしても当然だと観客に思わせるのではなく、こんなに素晴らしい奥方なのに何故と意表をつけば、先ほど触れた奥方の姿を演じる場面も、無理に花子の為に芝居をせねばならない展開となって右京の低劣さを表すことになるなど、右京役者の芸にも更に工夫が要り、もっと芝居の面白さが深まるのではないかと思っている。

   最後になったが、中々垢抜けのした好男子ぶりの錦之助の太郎冠者が良かった。昼の部の「新薄雪物語」では、素晴らしく新鮮な二枚目若殿を演じていて、魅力全開であったが、この芝居では、息子の隼人が玉の井の腰元小枝で出演して、良い味を出していた。
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鈴木孝憲著「ブラジル 巨大経済の真実」

2008年06月11日 | 政治・経済・社会
   アマゾンに住む全く未開の原住民の写真(口絵)が新聞に載ったのは、ごく最近のことだが、これまで、文明生活に接触していたアマゾンなど南米のインディオについては、十分な情報があり、私も、パラグアイで観光用のインデォ集落に行ったことがある。
   アスンションの店で売り子をしていた女の子が、インディオ村で胸を露にした姿で現れるとビックリするが、昔、アメリカの人類学者と結婚したインディオの女性がニューヨークで文明生活する様子やその生活に馴染めなくてアマゾンに帰って裸でハンモックに横たわっている姿などをTVで放映していたのを見たが、文明とは一体何なのか考えざるを得なかった。

   ところで、このような人類未踏のジャングルが残っている広大な国土と天然資源に恵まれた巨大な新しい経済大国のブラジルが、また、BRIC'sの一環として脚光を浴びている。
   私がサンパウロで4年間生活した1970年代の第二次ブラジルブームから随分経つが、あの頃も、21世紀の大国と言われて、世界の国々から多くの企業がブラジル・ラッシュで沸いていた。
   しかし、その後の石油危機で、このブームも忽ち終息して、また、インフレ経済に変わって普通の発展途上国に戻ってしまった。
   ところが、今回は、グローバル時代に突入し、まして、環境や資源問題が人類の緊急課題となってしまった今日においては、このブラジルブームは本物であろうと思われる。
   そんな新しい経済大国へと驀進するブラジル経済を書いたのが、90年代前半のブラジル東銀のトップで、今もブラジルでコンサルタントを務める鈴木孝憲氏の「ブラジル 巨大経済の真実」である。

   私は、このブログでも書いたが、ブラジルには100年の歴史を持つブラジル移民と言う関係があり、多くの日系ブラジル人と言う貴重な人的遺産があるので、BRIC'sの中では、最も日本にとって経済協力が出来る国だと思っている。
   この鈴木氏の本を手にとって最初に感じたのは、あの1970年頃に沢山出たブラジルへのガイドと言うかハウツーものを思い出したのだが、現在のブラジルを概説するのには好都合だが、それ以上でも以下でもないあくまでイントロダクションの書である。

   私がブラジルを離れたのは1979年の年末だが、その後の1980年代は、正にハイパーインフレとモラトリアムによる失われた10年であった。
   しかし、94年の「レアル・プラン」の成功でインフレ克服に成功し、第三次ブラジルブームが現出して欧米企業がラッシュしたが、その当時、日本は、バブル崩壊後のデフレ不況に苦しんでいたので、ブラジルに係わる余裕のある企業は少なかった。
   また、21世紀に入ってからは、左傾のルーラ政権誕生の余震で起こったブラジル危機が発生して、中国に入れ込んでいた日本企業にはブラジル経済への関心など殆どなく、結局、最近になってやっと、BRIC'sの雄ブラジルに注目し始めたと言うことであろうか。
   その間、むしろ、同じ東洋の韓国や中国の方が、はるかに強力にブラジル経済に楔を打ち込んでおり、おっとり刀の日本企業を凌駕していると言う。

   鈴木氏は、BRIC'sの他の三国と比較して、ブラジル優位を説いている。
   ブラジルは世界一の他民族国家だが、アラブとユダヤの諍いもなく人種差別もない。
   政治体制は、1985年軍事政権から民政移管以降、民主主義が定着し、中南米で最も安定しており、政治リスクは少ない。
   経済はずっと資本主義で、自由主義経済が維持されており、インフラ整備も進んでおり、法制度も一応整っている。
   更に、最近では国際収支の黒字基調で、むしろ、ブラジル通貨レアルがドルに対して高騰しており安定している。
   こんな調子で、多くの問題を抱えている他の三国と比べて、ブラジルは最も評価が高いはずだと言うのである。
   私は、石油開発とバイオエタノールの生産で、エネルギーは完全に自給自足で、輸出段階に入るといわれていることや、鉄鉱石などの無尽蔵の天然資源を考えれば、もう、大きな世界的な変動が考えられないグローバル時代に突入した以上、これからは、ブラジルが最も注目すべき国だと思っている。

   個々の問題についてのコメントは避けるが、私が疑問に思うのは、ラテンアメリカの特質であるいくつかの重要な問題について、鈴木氏は一切触れていないと言うことである。
   例えば、俗に言うアスタマニアーナとアミーゴの問題である。
   何でも、その場で直ぐに対応せず後まわしにするアスタマニアーナ体質や、法令契約を軽視して特別な人間関係の結び付きを重視するラテン気質など、国際ビジネスに取っては死活問題である筈で、ブラジルが、この独特な国民気質から脱皮してアングロサクソン並みとは行かなくても、欧米標準並みになったとは到底思えない。
   鈴木氏の説明にも、税制など法律や行政が絶えず変わると記述しているのが法令の朝令暮改の何よりの証拠であり、また、実際のビジネスにおいても、資本の論理よりも、アミーゴ関係を結べなければ、あらゆる意味で上手く運べないことは衆知の事実であることを認識しなければならない。

   これは私見だが、ブラジルを見る場合に、米英と言うかアングロサクソン流の海外経験があるかないかによって、大きく違うことを経験してきた。
   昔の経験なので、今は変わっていると言われればそれまでだが、私もその部類で、米英経験をしてブラジルに移って来た日本企業のビジネスマンは、一様に、ブラジルよりも米英の方が好きだと言っていた。逆に、ブラジルに直接入って来た人は、一様にブラジルファンとなって、これほど素晴らしい国はないと言って住み着いた人も少なくない。
   鈴木氏は、東京外大ポルトガル語の卒業だから、恐らく、プロ・ブラジルであって当然だと思うが、私のように、米国製のMBAで、イギリスに長く居た人間とっては、やはり、4年間も住んで好きな国だがブラジルには何となく一寸したものだが異質感がある。

   同じ人種の坩堝である大国でも、法令・契約重視のアメリカと、人間的なアミーゴ関係を重視するブラジルの両極端とも言うべき国民性の違いを分かった上で、ブラジル・ビジネスを考えるべきだと思っている。

   
   
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ソニー:何故アップルに負けたのか・・・べナム・タブリージの見解

2008年06月10日 | 経営・ビジネス
   経営組織変革論のべナム・タブリージ教授が、近著「90日変革モデル Rapid Transformation : a 90-day plan for fast and effective change 」で、激動のポストモダン社会(ポストインターネット社会)において、今日の企業が生き抜くために如何に変革して行くべきか、自ら編み出した現在の社会で利用できる効果的な変革の法則や実践方法を説いている。
   その中で、成功ケースとして、スティーブ・ジョブズのアップルのトランスフォーメーションを詳述しているのだが、僅かだが、ソニーと対比している箇所があり、興味深いので、その論点について考えてみたい。

   変革への取り組みのうち成功したもの、失敗したものを、幅広くかつ徹底的に分析した結果、取り組みの成否を分ける重要な成功要因は、次の四つ、すなわち、包括性、統合性、迅速性、コミットメント(特に組織の上層部において)だったとして、この四つの視点から、ソニーとアップルの改革への対応を比較して、ソニーがアップルに出し抜かれた要因を説いている。

   1999年以降のソニーの変革への取り組みは、日々のオペレーションの効率改善やコスト削減、新しい組織体制の導入に限られていて、純粋に内向きで、顧客の目には見えなかった。
   ソニーの変革は、これと言った特徴もなく、ソニーの状況を良くするための断片的な企業改革に止まった。
   説得力に欠けるリーダーシップに加え、切迫感が欠如していたことから、表面的なコスト削減に止まり結果として望んでいた効果は得られなかった。

   アップルは、社内のオペレーションを合理化するだけではなく、1997年に新しい製品ライン戦略を実行し、ワクワクさせるような革新的な新製品の開発に注力した。
   更に、印象的な一連の広告キャンペーンを展開し、顧客中心の取り組みによって、顧客の興味を再びかきたて、アップルのブランドイメージを復活させようと試みた。
   再び返り咲いたジョブズのリーダーシップが、顧客や社員を鼓舞するのに十分で、この新鮮な展開がコミットメントを引き出し、変革を具体化するための必須要件を満たした。
   社内に元々存在していた切迫感に加え、ジョブズの優れたリーダーシップや全体的な取り組みにより、ぶれのない戦略を立案でき、新しい顧客重視と言う戦略に重点が当てた。

   タブリージは、ソニーのストリンガーについて記し、
   2005年にCEOに成るまでは、出井に抑えられて直接的な権限がなく、リーダーシップのカリスマ性を欠いていたので、この状況は、変革を成功させるために必要なエネルギーを欠いた。
   更に、ソニーの核とも言うべき工学的あるいは技術的なバックグラウンドがなかったので、新しくリーダーになったすぐは、実力を疑問視されていた。
   として、ジョブズのカリスマ的リーダーシップと対比させて、ソニーの経営者とのその大きな落差は歴然としていると言う。
   また、ビジネスウイーク誌に2003年のベスト経営者がアップルのジョブズで、ワースト経営者がソニーの出井であったのが、リーダーの能力差を示す何よりの証拠だと手厳しい。

   スライウォツキーは、アップルの成功は、iPodを開発したビジネスモデルの勝利だとしており、ダブルベッド戦略を打てなかったソニーの戦略ミスが明暗を分けたとしているのだが、タブリージは、変革への取り組みのお粗末さからソニーの凋落を語っていて興味深い。
   しかし、元々、ソニーの凋落は、私自身は、イノベーションを忘れたカナリヤの悲しさにあると思っており、この方面から、このブログでも、何度もソニーの経営について論じて来たが、結局は、大賀社長以降、トップ集団を含めて経営者にヒトを得なかったと言うことに尽きると思っている。
   
   出井氏の舵取りは、更にソニーの迷走を加速しただけで、経営業績が極端に悪化してソニーショックを引き起こし、確か株価が30万円を割って最悪の事態に陥り、ストリンガー中鉢体制に移行した。
   新体制になってから既に4年経つが、ソニーが変化したと言うハッキリした兆しは殆どない。
   先週の日経ビジネスでソニー特集を組んでソニーの今日についてレポートしていたが、垂直生産方式を水平生産方式に切りかえるだとか、コスト削減の為にTVの生産方式を単純化するだとか、ソニー・ユナイテッドなどと言う至極当たり前の戦術をストリンガーCEOが声高に唱えなければならないとか、いまだに、迷走振りを露呈している状態である。
   中鉢社長の唱える”革新的な技術を活かし、ヒット商品を創出し、お客様に感激と愉しみを提供する”などは夢の夢である。

   念のためにと思って、ソニーの経営理念や戦略戦術など経営方針を知りたいと思って、ソニーのホームページを開いたが、目ぼしいものはなく、ストリンガーCEOの昨年のアニュアルレポートの挨拶文章が掲載されているだけで、更に、調べたら、経営方針説明会インターネット中継に行き当たった。
   しかし、何のことはない2005年度ソニー経営方針説明会(2005.9.22)のビデオ録画なのである。
   ところが、この説明会で、ストリンガーCEOが得々として真っ先に自慢して語ったのが、何のことはないPS3とウォークマンに如何に期待しているかと言うことである。
   この二つとも、間髪を入れずに、ウォークマンはアップルのiPodに、PS3は任天堂のWii等にコテンパンに凌駕され軍門に下ってしまった製品であり、ソニーのトップが如何に脳天気な経営を行っているのが良く分かって非常に興味深い。

   しかし、IRは勿論、PR,顧客重視の経営を進める為にも、ホームページの活用等ITデジタル技術を縦横無尽に駆使してブランドイメージ・アップに邁進しなければならない筈なのに、何故、5年前の時代遅れの経営方針説明会ビデオだけ残しておいて、最新のソニーの経営戦略と夢を語らないのであろうか。
   スライウォツキーやタブリージが説くソニー凋落経営論よりも、それ以前のソニーの動脈硬化の方が問題なのかも知れない。
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堺屋太一:官僚による日本のガラパゴス化を糾弾

2008年06月09日 | 政治・経済・社会
   日経ヴェリタスの「グローバル経済から考えるこれからの資産運用」セミナーで、激動の世界経済を熱っぽく語ったが、何時もながら、最後に、
   この難局に直面しながらも一切友好な手段を打てない日本の官僚機構の無能さと、自分達の利権を死守する為に、益々法令や規則ばかり作っている使命感と誇りを失った官僚機構が、日本をガラパゴス化して、世界の孤児にしていると糾弾した。
   官僚機構が、地方格差の解消など日本社会の革新を阻害していると言う見解を、先日も、中谷巌氏が論じていたが、竹中平蔵教授の激しい官僚批判を含めて、(御用学者は論外としても)、政府の中枢的な仕事に係わって来た識者達が異口同音に、官僚機構、特に、霞ヶ関が最大の抵抗勢力だとして糾弾する機会が多くなって来ているのに、危機感を感じざるを得ない。

   総ての官僚が反対したと言う国家公務員改革基本法について、意見書や法案など官僚が係わると自分に都合の良いように書くので、今回は、一切官僚の手を排除して自分たち委員で書いたと言い、福田総理の強力な英断(渡辺美行行革担当大臣と中川秀直氏の力にも触れた)で成立したのだと裏話を語っていた。
   竹中教授も骨太の方針の時も官僚抜きで自分たちで書いたと言っていたが、ビール・タクシーに乗るようなお役人には、任せられないと言うことであろうか。
   ところで、人気急落中の福田総理だが、この国家公務員改革基本法を一気に通した決断もそうだが、今日、日本記者クラブで、地球温暖化対策に対して、今秋から、排出権取引を試行し、環境税の導入を検討すると、経団連の向こうを張って、発表したが、中々捨てたものではないと思っている。

   ところで、堺屋先生の話だが、サブプライム問題、石油価格の高騰、食糧危機などのカレント・トピックスを例に引きながら、世界経済の現状を語った。
   面白かったのは、元のフビライ・カーンの時代に、ペーパー・マネーが初めて導入され80年間続いて頓挫してしまったのだが、1971年にニクソンが、金ドル兌換を廃止した段階でペーパー・マネーに突入したので、サブプライム問題は起こるべくして起こったと言う話であった。健全な融資も、拡大するにつれて、どんどん、不良な融資先に金が流れて行き、今回のサブプライムは、大数の法則で運用した所に問題があると言うのである。

   この10年間で起こった世界経済の大変革は、
   1、グローバル化
   2、証券化(Securitization)
   3、主観化 だと言う。
   主観化については、堺屋知価革命の根幹部分の展開だが、かっては、ものの価格は、そのものの価値や生産コストと連動していたが、今日の商品価値は、社会的な主観で決まる。同じ絹のネクタイで製造コストが同じでも、ブランド物のエルメスだと2万円を越すが、中国製だと2千円になると言う論理で、価格の不安定性が増し、投機資金が暗躍すると言うのである。
   
   興味深かったのは、世界貿易の変化論で、これまでは、同じ経済水準の国家間の間の貿易が主体の水平分業であったが、21世紀は、工程分業に変わってしまったと言うのである。
   ビジネスモデル、技術開発、デザイン、部品等の製造、組立、販売・流通、マーケティング、金融etc.、工程毎に、国際分業が行われるようになった。
   
   ここで問題は、日本がいまだに、今や開発途上国に移ってしまった最も付加価値の低い製造や組立と言ったものづくりに固守して産業政策が打たれていることで、それに、益々、外資導入や外国人労働者の移入規制を進めており、全く、世界の動きから逆行していると言うのである。

   堺屋氏は、現在の日本は、明治維新改革と同じ問題を抱えているとする。
   1、開国
   2、公務員改革(武士を廃止)
   3、廃藩置県――道州制の導入
   4、新貨幣、信用創造――通貨金融政策の改革
   5、軍事制度、教育改革
   特に教育改革については、どんな人間を創るのかと言う根本的な問題意識が最も大切だと言う。

   概ね堺屋理論に賛成だが、堺屋氏の講演を聞いていて面白いのは、やはり、知識の豊かさ故に、その度毎に、新鮮な話題で話の中身が展開していることである。
   多くの有名な学者や評論家の講演の殆どは、同じことの繰り返しか、少し中身を変えたくらいで、殆ど新鮮な展開は期待出来ないが、堺屋氏の話は、大体想像がつくとしても、講演の度毎に面白いし、同じ様に、博識で高度な理論を展開する大前研一氏の新しいトレンドに密着した講演と共に、楽しみに聞いている。
   余談だが、堺屋氏の後輩の元通産省高官の友人が堺屋氏を痛く嫌っているのだが、当然としても面白いと思っている。
   
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iPS細胞の山中伸弥教授・・・イノベーションを生むのは豊かなメディチ・イフェクト

2008年06月08日 | イノベーションと経営
   久しぶりに、世界を沸かせた素晴らしい日本発の科学的な偉業は、京大山中伸弥教授の万能細胞と同じ機能を持つ人工多能性細胞iPS細胞の開発である。
   日経ホールで開かれた「NAISTの戦略」日経産業新聞フォーラムで、非常にユーモアに富んだ山中教授の講演「NAISTでの教育研究を振り返って」を聞いて、科学技術の重要な発見やイノベーションが、どのように生まれ出でるのかを学んだ。
   このNAISTとは、国立大学法人奈良先端科学技術大学院大学のことで、実は、今度の山中教授の偉業をインキュベートさせたのは、この奈良での5年間の研究であったことを、エピソードを交えながら語ったのである。

   まず、iPS細胞だが、アサヒコムの山中教授の講演記録を見て一寸勉強して見た。
   ”様々な種類の細胞になる機能を持つのが万能細胞である。30年ほど前に、マウスから、そして、10年前に、人間の受精卵を壊して作る一種の胚性幹細胞(ES細胞)が作り出されたのだが、移植時の拒絶反応や生命倫理の問題などで、いまだに、実用化されていない。
   ところが、山中教授たちは、人間の皮膚、実際は36歳の白人女性のほほの皮膚から、ES細胞と同じ機能を持つ人工多能性細胞(iPS細胞)を作り出した。実際の患者の皮膚から作り出すのであるから、拒絶反応や生命倫理の問題は完全にクリアできるようになったのである。

   本当の意味でのオーダーメード細胞の創出、オーダーメード再生医療への夢のような第一歩であり、実用化への道は着着と準備中で、時が解決してくれるであろう。必死で研究を続けていると言う。
   山中教授がiPS細胞を創出したのは2005年だが韓国の黄教授の問題があったので海外に論文で発表したのは2006年、遅れて金に糸目を付けないアメリカ勢が急速にキャッチアップして、同じ頃ウイスコンシン大学がヒトES細胞を開発した。
   しかし、iPS細胞は、完全に日本発の革新的な技術である。”

   アメリカのグラードストーン研究所でのポストドクトラル・フェローとして研究を終えて夢と希望に燃えて意気揚々と日本に帰って来たが、明けても暮れてもアメリカから持ち帰ったネズミの世話ばかりの毎日で、PAD(POST AMERICA DEPRESSION)と言う重病にかかってしまった。
   英語なし サポート・スタッフなし お金なし デイスカッションなし ネズミの世話地獄 と言う病気でうつ状態になってしまったのである。
   もう研究を止めようと決心して、これがだめならきっぱりと決心出来ると思って、NAISTの独立ポストの助教授職に応募した。

   幸か不幸か、採用され、動物実験管理の専門家がおらず、植物専攻の一阪朋子さんと言うアシスタントを指導してネズミの世話を教えながら、ES細胞による再生医学やヒトES細胞の研究を始めた。
   とにかく、サポートスタッフが居ないと話にならないので、4月から入ってくる新入学生を騙して研究室に入れるために、夢のあるテーマでないとダメだと思って、人工多能性細胞の開発をぶち上げた。騙されて3人が入ってきて、この時の高橋和利氏や一阪さんなどその後のNAISTでのスタッフが、今の京大スタッフの半数を占めている。
   他の日本の大学では、助教授と言えば教授の助手だが、NAISTでは、独立して自由に研究が出来て非常に幸せだったと言う。

   山中教授が、幸せなNAISTでの教育研究環境あったればこそ、iPS細胞の開発成功があったのだとして語ったのは、人財、NAISTの研究環境、CRESTよりの研究費、幸運 と言う4つであった。
   中でも、教授が強調していたのは、NAISTの豊かな先端科学技術分野間の交流や、同じフロアーにバイオサイエンスや生物学関連の教授や研究者など学究が一堂に会していて、四六時中、多方面からの意見・激論やデイスカッションなど情報交換の場があり、知の鬩ぎ合いがあって、啓発され、教えれれ、学んだことが多かったと言うことであった。
   ゲノムの専門知識については、ここで啓発されたのであろうか、朝日の講演で、皮膚細胞に入れて万能細胞に変える読み手である「転写因子」を探すのに理化学研の林崎さんの研究を活用して非常にショートカットになったとか、一つではなく四つの転写因子を皮膚細胞に入れるのに、東大の北村俊雄氏のレトロウイルス手法が役立ったとか語っているが、発明発見の為には、異文化・異科学・異技術等々異分野のぶつかり合いと遭遇が如何に大切かを物語っている。
   あの目を見張るような文化の再生と人類の叡智を爆発させたルネサンスの原動力であった文化・文明の十字路メディチ・イフェクトの現出である。
   経営学でも、クロス・ファンクショナル・チームの活用が如何に大切かは、常識となっている。

   ところで、山中教授が米国留学後帰国してPADと言うカルチュア・ショックに悩まされたと言うことだが、日本の科学技術と言うか学問研究体制が如何に、世界の趨勢から遅れているかを如実に示している。
   まず、何を差し置いても軍資金であるが、山中教授の快挙で日本政府のサポートが始動したと話題になっているが、アメリカの万能細胞開発の為の資金援助や研究開発体制は、桁外れで足元にも及ばないと言う。
   山中教授は、科学技術振興機構のCRESTからの資金援助が役立ったと言っているが、選考担当であった岸本忠三氏の度量の広さだと言われている。金がないと言うのなら、そんな、素晴らしい目利きを育成することであろう。
   それに、基礎科学における科学者や研究スタッフの充実は緊急の必須事項で、山中教授の場合には、成功したから良いようなものの、日本の現状は、正に、薄氷を踏む思いであろう。

(追記)写真は、アサヒコムから借用。
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e-Tax納税は骨折り損のくたびれ儲けであった

2008年06月07日 | 政治・経済・社会
   5月末、最寄の税務署から、
   e-Tax(国税電子申告・納税システム)をご利用された方へ
   《保管されている書類の提出のお願い》 
   と言う書類が舞い込んだ。
   不要だった筈の添付書類を全部送って来いと言う命令書である。
   ”さて、ご承知のとおり、所得税の確定申告を電子申告で行う場合、医療費や源泉徴収票等の添付書類は、その記載内容を入力して送信することで提示又は提出の省略(添付省略)が可能となりましたが、税務署においてはその記載内容を確認することができるとされております。
   このため、税務署では、この制度をご利用していただいた方のなかから一定の方を対象とさせていただき、平成19年度の所得税の確定申告に係わる書類を税務署まで送付いただくようお願いしております。”
   と言う指示書きだが、6月3日(火)までに送付せよと言うことだから、1週間の余裕もない。
   提出書類を返して欲しければ、切手を貼った返信用封筒を同封せよとも注意書きがしてある。

   尤も、私の場合には、3月の申告書作成時に揃えた書類をそのまま送られてきた封筒に入れて提出すれば良いだけなので、何の造作もなく、そのまま、送り返したが、どう考えても、性善説に立っての配慮ではなく、間髪を入れずに送付すべく期限を切ったのは、脱税防止のための抜き打ち調査の意図が濃厚だとしか思えない。
   
   サンプル調査なのか、疑いの為の調査なのか知りたくて、直接担当官に聞くのも何なので、国税局のホームページから税務相談所の電話番号を調べて架けて見たら、事情を良く知らなかったのみならず、電子申告でも、記載内容を確認する為に調査するとなっているだろうとケンモホロロの回答である。
   ただ、調査項目を説明したら、所得の源泉徴収票や医療費の領収書のほかに、生命保険や地震保険の支払い証明書などの提出も求めていたので、全部ですなあ、と担当官も驚いていたのが気にかかった。

   前年度までは、国税局のホームページの、納税申告書フォームに必要事項を打ち込んでアウトプットして、添付書類をつけて、納税事務所へ持ち込んで確定申告をしていたので、それ一回で完結していたのに、今回はe-Taxの為に二重手間になってしまった上に、疑られていると言う精神的苦痛も受けた。
   提出書類の内容は、医療費の領収書以外は、これまでに税務署に提出している書類と殆ど全く同じなので、過去の納税記録を見れば分かる筈であり、それさえチェックしないのか。
   日頃から電子政府は持論なので、行政改革の一環として、電子政府への取り組みには積極的に協力すべきだと思っており、ITデバイドを克服してe-Taxを試みたが、無駄であったとしか思えない。
   と言って、電話を切った。

   税務署から、e-Taxをご利用下さい。
   と言うパンフレットが送られてきたのは昨年の晩秋であったであろうか。
   ①HPからカンタン申告
   ②最高5000円の税務控除
   ③添付書類が提出不要
   ④還付金がスピーディー
   と能書きが麗々しいが、実際に試みてみると、相当、PC操作に堪能でないと、「HPからカンタン申告」など出来ないし、この能書きも、今は国税局のホームページから消えてしまっており、何処を探しても、添付書類が提出不要などと言う記述はない(あるかもしれないが、以前のように表に出ていない)。
   添付書類は提出不要と言うのは、インターネットで納税申告書を提出するから、オリジナルの添付書類の送付は物理的に不可能であり、欧米の常識では、添付書類の提出不要だと言えば、特別な理由がない限り一切不要なのである。
   罷り間違っても、国民を疑ってチェックしようと言うような姑息な考えは起こさないし、騙まし討ちなどには絶対にしない。

   このケースからも、どちらが良いかは別にして、国民の行為を信用して行政を行うかどうかについて、欧米とのものの考え方の差が大きいのにビックリする。
   例えば、ビジネスの例であるが、性善説かどうかには関係なく、ヨーロッパ大陸では、鉄道駅や公共交通機関などには、日本のように出札窓口がなく、バスなどは乗る時に自動検札機で時刻を打ち込むだけで、客の善意を信頼して原則としてチケットのチェックは殆ど行われていない場合が多く、そのかわり、抜き打ちチェックで違法行為が見つかればペナルティが大きい。
   信用の上に成り立っている社会で、自己の行為に対する責任は一切自己責任だと言う原則が働いており、責任ある人間同士の行為によって社会の秩序を維持しようと言うことである。
   ところが、日本は、客のモラルも悪いが、性善説など元から否定して、徹底的にガードして不法乗車を取り締まろうと血眼になっている。

   ところで、添付書類を送ったら、暇なのかどうかは知らないが、間髪を入れずに、税務署から、
   平成19年度分所得税の確定申告書に係わる書類の確認結果について
   と言う文書が送られて来て、
   ”照合した結果、相違ありません。”と言うところに、チェック印がついていた。
   しかし、実際には、e-Tax申請時に、病院への交通費の金額が間違っていて、1万円ほど控除金額が少なかったので訂正して出したので、まともにチェックしておれば、僅かだが訂正して還付金を返して貰わないとおかしい。

   印刷されたフォーマットなので、この文書では、二つのチェック項目があり、もう一つには、次のように記されていた。
   ”送信していただいた記載内容に不足がありました。
   申告の計算に誤りはありませんが、提出を省略された
   ①
   ②
   ③       の書類について、
   支払者の所在地・名称
   支払先の所在地・名称
   支払金額・支払った医療費・支払保険料 etc.
    の入力が不足しておりました。
    次回、ご利用の際にはご留意願います。” と書いてあった。
   今回は許すが、バックデータとなる証憑書が添付出来ないのは虚偽申請だと分かっているぞ、と匂わせて脅そうと言う魂胆なのであろうか。

   全く、国税局の意図は分からないが、今回のように、金額的にも微々たるもので申告内容においてもシンプル極まりないケースでも添付書類を再提出せよと言う心算でチェックするのなら、或いは、前述の後者のケースのように目的・意味不明瞭な指示を出すだけなら、時間と金の無駄使いだから、e-Taxなど、根本的に止めた方が良い。
   来年は、二重手間を避けるため、e-Taxは止めようと思っている。
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今書店に並んでいる政治・経済・経営関係書

2008年06月06日 | 政治・経済・社会
   書店の店頭に並ぶ本の動向を見ていると、世の中の動きが良く分かる。
   尤も、書店にも依るのだが、私の場合には、東京駅近辺や神保町に行くことが多いので、丸善の丸の内本店と大手町店や八重洲ブックセンター、三省堂本店が中心となる。

   それに、銀座・数寄屋橋の旭屋書店にもよく行ったのだが、規模や場所的な面でも中途半端な店だったので、残念ながら、3月に閉店してしまった。
   関西人にとっては、旭屋は特別な書店で、本を探したければ、必ず、何十年も前から大阪駅の傍にあった旭屋本店(当時の場所はヒルトンあたり)に出かけたもので、何となく思い入れがある。
   インターネット・ショップや、メール通信まで中止したので、経営が苦しいのではないかと思っていたが、本離れが進む昨今、アマゾンやツタヤがトップ書店に躍り出るような時世だから、並みの書店経営をしていては持たないのであろう。
   
   ところで、今日出かけたのは丸善本店と三省堂で、私の場合には、時間があって他の書物に関心がある時には別だが、政治経済社会や経営と言った社会科学系が主で、それも、立ち読みすることなどないので、長居はしない。
   出版情報などは、新聞や雑誌、それに、アマゾンなどから得ることが多いのだが、大抵は、既に本を特定していることが多く、神保町での新古書(古本屋に出る最新刊の新本)を買う時の様な衝動買いはしない。

   一頃沢山出ていたサブプライムや環境・地球温暖化関係の本が後方に下がって、資源関係や株式市場関連の本が前面に出てきている。
   BRIC's関連の本は、相変わらず多くて、特に、中国関係が突出している。
   時節柄、アメリカ大統領選挙関連本があるのは当然だが、クリントンの本が消えて、オバマ本ばかりになってしまった。

   丸善の近刊書籍をディスプレイしているメインの書棚には、同じ本が一列に並べられ、特別な本は、平積みされているのだが、この日は、
   櫻井よしこの「異形の大国 中国」が、本人のにこやかな写真に、自書の「彼らに心をゆるしてはならない」とサイン入りの白抜き文字が染め抜かれた立て看板までかけてあり、その隣には、これも写真入の看板のある
   ジョセフ・E・スティグリッツ「世界を不幸にするアメリカの戦争経済」
   日高義樹「アメリカ狂乱」が並んでいる。
   
   私は、櫻井よしこの本は、それなりに確かな本だとは思っているが、週刊誌の頃から独善と偏見がかなりあると感じていたので読まないが、他に中国本では、加藤鉱著「チャイニーズリスク」、「本当にヤバイ中国経済」、中国新三国志と銘打った「ネクストエンペラー」など一寸異色な中国本が展示されていて、私の押したいスーザン・L・シャーク教授の「危うい超大国 中国」など陰も形もない。
   ベストセラーは、どのように作られるのかは分からないが、中国関係一つにしても、スキューしない公平な書物をどのように売るのか、中々難しい複雑な問題である。

   面白いのは、ビル・エモットの本日発刊の著書「アジア三国志」が、三省堂では、書店入口から3階の社会科学本コーナーのメインに大量に平積みされていたが、丸善には間に合わなかったのか、ディスプレィされていなかった。
   先のスティグリッツの本もそうだが、このビル・エモットの本も、読まなくても何が書いてあるのか、何となく推測がつくのだが、気が向けば拾い読みをと思っている。

   新興国の関係では、ブラジルとアフリカの本が一冊づつ並べられていた。
   読み始めたロバート・ゲストの「アフリカ 苦悩する大陸」だが、エコノミストの特派員だったから、生々しいアフリカの描写が素晴らしいが、資源や貧困の問題も含めて、もっと、アフリカを知るべきだと思っている。

   株式など証券市場関係は、日経BPから出ているリチャード・ブックステーバー著「市場リスク 暴落は必然か」が、丸善の一つの壁面一杯に大きな看板と共に大量に平積みディスプレイされていていて、証券金融関係の平ずみコーナーでも、この本の部分がめり込んでいるから売れているのであろう。
   ところが、三省堂では、何故か探してもないのが興味深いが、この本は、冒頭からブラックマンデーの暴落の真実など語っていて面白いのだが、少し証券や株取引関係の知識がないと読み辛いのと何しろ400ページ以上の大著である。
   一寸変わった感じでは、鈴木貴博著のガースナーが語るという「カーライル」で、ベストセラーらしい。
   他の本は、W・シャープの「投資家と市場」、マンデルプロとハドソンの「禁断の市場」、N・N・タレブの「まぐれ」などで、このコーナーには、白川総裁の「現在の金融政策」が並んでいて骨の折れる本が多いが、流石に、大手町を背負ったビジネス街の書店である。
 
   経営関係書だが、ハーバード・ビジネス・スクール出版関係の本が一堂に会するコーナーがあったが、これは、新旧取り混ぜてのディスプレイなので、経営学のスタンダード・ナンバーとして中々良い。
   私自身の蔵書と結構重なっているが、これらの本を読むと、何時も、本とは、何と安くてコストパーフォーマンスの高いものなのだろうと感心する。
   ただ、野中先生や大前研一氏などを除いて日本人学者の卓越した経営学関連書が非常に少ないのが残念だと何時も思っている。   

   
   
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ジャン-ノエル・ジャンヌネー著「Googleとの闘い」

2008年06月04日 | 政治・経済・社会
   2004年12月、グーグルは、6年間で1500万冊の書籍、すなわち、約45億ページの本をデジタル化するため、スタンフォード大とミシガン大が所有する膨大な蔵書を、スキャンニングし複製化し、インターネットを通じてそれを流通させると発表した。
   フランス人であるこの本の著者ジャンヌネーは、技術の進歩による夢の実現に満足する一方で、この企画が独善的なアメリカの計画だと気付いて、どんな本が選択され、どんな基準でリスト化されるのか、その妥当性や潜在的な帝国主義性が気になって、グーグルの対応次第では、何世紀にも亘って人類が営々と築き上げてきた叡智を台無しにするかも知れないと不安になってきた。
   現在の公共ドメインに流出している文化的遺産の作品ならば、その優先リストはアングロサクソン文化に即して順序付けされるであろうし、まして、現在の共通語が英語である以上、益々英語に押し流されてしまう。

   ヨーロッパ市民の感性と心に思いを致すと、アメリカ文化・文明による独善的な知の支配を絶対に許せないフランス国立図書館長である著者は、ジャック・シラク・フランス大統領を巻き込んで、ヨーロッパ独自のグーグルに対抗するヨーロッパ・デジタル・ライブラリーやヨーロッパ検索エンジンの創出を画策し、始動し始めた。
   官民糾合して普遍的なものの構築を目指して、ヨーロッパの文化的財産を組織化し目録化し、情報へのアクセスは、排他性を留保しているグーグルと違って、どんな検索エンジンでも広く利用できるようにし、無料アクセスを望むどのサイトに対しても接続を認める。
   このグーグルとの闘いの推移を述べながら、何故、ヨーロッパの文化的・歴史的な知や美の遺産を、独自のデジタル・ベースを確立して死守しなければならないのか、激しい気迫で心情を吐露しており、特に、文化の本家を自認するフランスから見た米欧の文化・文明比較論が、実に興味深くて面白い。

   グーグルの欠点は、検索エンジンに占める広告のウエイトで、収益性を重視する利潤動機に拠ってのみ運営されているので、どうしても、革新的で将来的に影響力のあるな中小企業を犠牲にして大企業に有利に、ヨーロッパ企業を踏み台にしてアメリカ企業を優遇し、そして、文化的な大衆主義が、幼稚で、単純、ありふれた作品や情報ばかりにアクセスするような回路を醸成していると言う。

   クリントン大統領のモニカ・ルインスキー事件やブッシュ大統領の施政に失望をしたとして、アメリカの次のような点を非難している。
   死刑制度の存在、200万人も服役する刑務所、宗教と民主主義の関係、選挙で幅を利かす金の動き、ガス排出と温室効果について京都議定書を拒否したこと、人道に対する罪を裁く国際刑事裁判所の拒否、文化の多様性についてユネスコの活動に調印しなかったこと。

   しかし、最近のブッシュ政権のヨーロッパ擦り寄り政策でも、ライスが演説した自由こそ総ての幸福や平和を保障する手段だといったことについても、この自由の賞賛は、経済的利益や社会的な力やその国に特有な文化的要因からかけ離れた抽象的なもので、昔から自由にも代償があるとするフランスの考え方とは違う。
   リベラルと言う言葉についても概念の違いが濃厚で、アメリカ文化はそれなりに素晴らしく一目は置くが、あれやこれや考えると、このようなアメリカの資本主義とそれを受け入れるアメリカ社会を基礎にしたグーグルの計画は絶対にそのままでは認められない。
   一極支配による副産物として、自分達の利益の為に世界の考え方を一方的にコントロールするなどは許せないと言うのである。  

   自分達の目的はヨーロッパだけだが、EUは多様であり、アメリカとは異なるメッセージを世界に伝えることに自負を持っている。
   ヨーロッパ自身が生み出し育んできた叡智と文化によってゆるぎなき存在感を示せば、世界はもっと良くなる筈だと、フランス人は確信していると主張する。

   技術的な問題として、グーグルのシステムが、膨大な量のサイトを収穫し利用者の検索に応じて独立したドキュメントを見つけ出すという能力を持ちながら、他方において、要求された情報を表示するメカニズムは全く素朴で手がかけられておらず時代遅れで、検索の限界、つまり検索されたページと全体との関連についての肝心の情報が欠けていると指摘する。
   また、グーグル・ブック・サーチは、恐らく、論拠ある原則に従って編成されたいかなる分類も持っていないので、学校にとって使い勝手の良いモデルにはならないだろうとも言う。

   デジタル化された大量の情報をどう処理するのかが問題である。ウエブがグローバルなレベルで平等化を進めるのは良いが、しかし、体系化されない情報は価値を損なう。
   大量のデータの真ん中で、もう偶発的な選択に任せたくないので、データの誠実度、権利そして基準を見極めなくてはならない。
   図書館で本を探す時、読者の懐疑や推論は、今まで他者が考え抜いて整えた原則による分類との実りある対話の中から生まれてくる。
   バーチャルな図書館でもこの原則を確立しなければならない、と主張する。

   日本でも、経済産業省が、日本の国策検索エンジン「情報大航海」プロジェクトを推進していて、色々な方面で研究が進んでいる。
   フランスのみならず、日本も2000年以上に亘る膨大な文化遺産を持っており、そのデジタル化による文化的な貢献には計り知れないものがある。
   フランスで火がついたプロジェクトが、ヨーロッパでは、「i2010デジタル・ライブラリー」計画として、欧州委員会で採択されて進行中だという。
   グーグルが、世界の情報デジタル戦争を触発したことによって、人類の知的遺産は益々膨張して行くと言うことであろうか。
   このあたりにも、ナショナリズムが色濃く出ていて興味深いが、益々グローバル化して画一化が進み過ぎて行く今日こそ、文化の多様性、特に、消え行く古き人類の遺産である貴重な文化の保存は必須である。
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中古住宅改築工事の凄まじさ

2008年06月02日 | 生活随想・趣味
   近所の中古住宅解体工事に、大型のキャタピラー付きの油圧ショベルが入って、100メートル離れた住宅でも、地震と間違うような揺れを感じるような地響きを立てて、基礎を解体するのに、一日中工事をしていた。何度も家が揺れたので、この重機の為か、他の機械かは分からないが、とにかく、凄まじい工事である。
   しかし、この工事は、敷地面積が約50坪ほどで、建坪30坪くらいの25年ほど前の普通の建売住宅の解体である。
   翌日、ほんの数十センチの高さのブロック壁を壊すのに、このショベルのアームが動き出して叩き壊しているのには驚いた。(写真)

   ところが、その翌日、もっとビックリしたのは、隣家の二階建ての建物の屋根より大分高いから、杭芯の長さが10メートル近いと思われるような大きな杭打機が持ち込まれ、5メートル以上も掘削して、土壌を改良しているのであろうか、とにかく、狭い敷地をキャタピラーで移動しながら、一日中騒音を立てて長い杭を上下しながら掘削を繰り返していた。

   これは、某鉄骨プレハブ住宅メーカーの現場だが、これほどまでに大げさな工事をする必要があるのであろうか。
   この土地は、最大手のゼネコンが造成した土地で、もう、30年以上も経った熟成した大きな住宅地であり、これまでに問題が起きたことは全くなかったし、大体、あっちこっちで立替が行われているが、大げさな重機を持ち込んだ、こんなにけたたましい現場は初めてである。

   ところが、この会社は、サステイナブル宣言とかで、持続可能な社会・企業を経営理念として、二酸化炭素を20%削減し、新築現場は、地球に優しいゼロエミッションを目指すのだとして、小鳥が木にとまり、アゲハチョウが花に戯れる写真をあしらった看板を現場に掲げている。
   この一週間ほどの間だけでも、けたたましい騒音を、静かな住宅地に一日中振りまいて、パワーショベルや杭打機などの重機の排出する排気ガスで住宅街に悪臭を放って、膨大なCO2を排出していたのを、何と心得ているのであろうか。
   工事中は、排気ガスと騒音の垂れ流し。能書きだけは、一人前だが、環境問題の”カ”も分かっていない会社で、傍若無人の工事を当然の権利だと思っているのであろう。
   尤も、こんな会社であるから、工事挨拶もなかったし、近所の迷惑など考えず、あっちこっちに工事関係の車を駐車させていて、迷惑この上もない。

   近所なので、人間関係の微妙な配慮が必要であり、正面切って文句を言うのは遠慮したが、隣家の人々の辛抱強さには脱帽せざるを得ない。
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ナショナル・ジオグラフィック・・・中国特集

2008年06月01日 | 地球温暖化・環境問題
   先月5月号のナショナル・ジオグラフィックは、殆ど全ページ中国特集である。
   「中国 変化に富む大地と気候」と題する中国地図が添付されていて、今後、中国のニュースに接する時に、非常に役に立つので助かる。裏ページには、紫禁城、特に、太和殿の詳細な説明画があり、これも興味深い。

   崩れだした神話と言うサブタイトルがついていて、”2015年から減少に転じる労働人口 広がる格差、都市部の所得は農村の3倍以上に 黄河汚染で急増する「ガンの村」とは?”と表紙に大書されている。
   独特な編集方針と記事で特徴のあるグラフィック月刊誌だが、世界に冠たる学術研究誌でもありながら、他の学術書や専門書と違った視点からのアプローチが非常にユニークで面白い。
   それに、初公開の空撮写真とあって、チベットの壮大なラマ教の寺院、桂林風の山河、雪の万里の長城、上海の夜景等、流石に写真では最右翼のナショナル・ジオグラフィックならの写真に迫力がある。

   冒頭の記事は、小平の晩年に中国で英語を教えていたジャーナリストのピーター・へスラーが、時を経て、現在の教え子の状態をレポートするものだが、最後に、美人の教え子ヴァネッサのことについて触れ、短く刈上げた髪にニキビ面、ラフな服装の婚約者である社長にBMWで迎えに来て貰う様子を書いているのが、如何にも今風で面白い。
   次の記事は、ズァントンホーの「ベラ15歳 止まれない子、ついていけない親」で、上流階級の両親の中で育ち、上海のトップクラスの中学に合格したベラと言う女の子の活躍ぶりを主題に、中国の若者の過去との断絶とも言うべき目覚しい変化を活写している。

   作家エイミー・タンの「隠れ里に住む少数民族」では、トン族の生活を非常に興味深くレポートしており、テッド・C・フィッシュマンは、「百花繚乱 北京の新建築」でオリンピックを目指して建設中の超モダンな建築を語りながら中国の現在社会の矛盾をも披瀝している。
   一人っ子にのしかかる超高齢化、石油を買い漁る中国、前代見聞の聖火リレー、課題だらけの動物保護等々興味深い記事や写真でページが埋め尽くされていて興味が尽きない。 

   しかし、私にとって最も興味を引いたのは、「黄河崩壊 水危機が生む”環境難民”」と言う記事であった。
   「黄河はチベット高原に源をもち、中国北部の大地と人々を潤し続けてきた。だがいま、目覚ましい経済成長の陰で、母なる大河が深刻な危機に陥っている。」とのサブタイトルに記された冒頭ページは、何十年も前の日本のような黒い煤煙を吐き出す化学工場から汚水が、赤茶けて草木一本もない大地の小川に湯気をたてて排出され、黄河上流に流れて行く悲惨な光景を写し出している。
   黄河の下流域には、水質汚染で、ガンの発生率が異常に高く”ガンの村”が沢山あると言う。
   黄河流域を大きくΠ型に蛇行して流れる河流の過半は汚染されていて、特に、韓城あたりからの下流域と、西安を流れる渭河など多くの支流や合流地点の河は大半過度に汚染されていて、農業、工業用水にも不適だと言う。
   鄭洲の上流辺りを経て北京へ、長江から導水路を建設する「南水北調」計画が進行中であるが、このあたりの黄河は既に汚染されているし、黄河は、断流で、水が下流に流れない状態が続いており、これをどうするのであろうか。

   中国は、国民の職と生活を維持する為には、10%近い経済成長を維持して、水車のハツカネズミのように走り続けなければ、治安悪化など深刻な問題を惹起する。
   そのために、任された地方政府が必死になって経済成長優先政策に邁進するので、公害や国民生活の保全など外部不経済について顧慮する余裕などないのが現状である。
   洛陽に近い黄河の流域に、1960年に完成した三門峡ダムがあり、「黄河が穏やかなら、中国は平穏だ」と言う標語が掲げられており、そのダムをバックに痩せ細った羊が群れている写真が掲載されていて、今では、土砂の堆積で洪水が増えて爆破するしかないと言う。
   目覚ましい経済成長を遂げている中国だが、農工業の開発と都市化が急ピッチに進むことによって、水需要が急増し、中国文明を育んできた黄河が干上がりつつあり、水質の汚染が益々深刻化して行く。

   とうとう、破竹の勢いの経済成長と言う禁断の木の実を食べてしまった中国が、如何にして、失楽園での生を全うするのか、人類の運命をも巻き込む壮絶な戦いが、これから始まると言うことである。  
   
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