熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

Rioオリンピック2016とリオの思い出

2016年08月09日 | 海外生活と旅
   Rioオリンピックでの日本人選手たちの活躍を見ていると嬉しい。
   開会式の放映で、リオの風景が映し出されて、見慣れた風景が浮かび上がると、無性に懐かしくなった。

   はるか昔、1974年から1779年まで、ブラジルのサンパウロに在住していたので、リオへは、仕事や観光で良く訪れていた。
   その前は、フィラデルフィアでのMBA留学の2年間であったので、何となく、腰掛気分の海外生活であったのだが、ブラジルでは、仕事をして実績を上げなければならないし、家族も帯同しての本格的な海外生活なので、緊張を要した。

   当時のブラジルは、大変な好景気で、鳴り物入りで囃されたBRIC'sの比ではなく、大変なブラジルブームで、草木も靡く勢いで、日本企業が大挙してブラジルに殺到した。
   しかし、最近のブラジル経済の失速と同様に、ブームは長続きせず、世界でも屈指の経済的資源に恵まれながらも、何時まで経っても、ブラジルは「未来の国」である。
   
   あの当時も、サンパウロには、高層ビルが何千棟も林立する巨大な近代都市であったが、一方、中心から離れると貧民街ファベーラが広がっていると言う二重国家の様相を呈していたが、今も、リオの風景を見ていると、美しい海岸沿いの近代都市の横に山手に向かって、びっしりと低層のファベーラが広がっていて、殆ど変わっていない。
   ルーラ大統領の時に、大規模な貧民救済政策を実施したが、深刻な経済格差は解消されず、治安の悪さが依然として問題となっている。

   尤も、私自身は、リオを訪れても、コパカバーナやイパネバ海岸沿いの高級街や官庁ビジネス街しか行ったことがないので、ファベーラは知らない。
   しかし、一度だけ、友人の紹介で、日本にサンバ演奏団に参加して訪日したと言う演奏者を訪れて、サンパウロのファベーラに行ったことがあるのだが、あのリオのカーニバルでもそうだと思うのだが、多くの音楽家やダンサーたちは、ファベーラに住んで居たりするようで、正に、「黒いオルフェ」の世界であった。

   もう一つ、印象的であったのは、カーニバルやサンバに繰り出すブラジル人の多くは、庶民たちであって、金持ちたちは、ホテルや大会場を借り切って大パーティを開いて、自分たち自身のカーニバルやサンバを楽しむようで、私も一寸覗いただけだが、華やかで楽しそうであった。
   もっと金持ち連中は、外国に出て、楽しむのだと言う。
   何時まで経っても、ブラジルは二重国家のままなのである。
   これによく似た現象は、アルゼンチンのタンゴにも見られるようで、世界遺産に登録されても、まだ、庶民の芸術のようである。

   リオでもサンパウロでも、街の一角でのカーニバルの雰囲気を味わったが、大変な雑踏と人混みなので、本格的なカーニバルには見に行かずに、テレビで実況を見ていた。
   日本でも、祇園祭くらいで、祭り見物には行っていないので、まあ、仕方がないと思っている。

   リオとサンパウロを飛行機で往復すると、チャンスに恵まれると、あの巨大なキリスト像コルコバード(Corcovado)が、機内の窓から綺麗に見える。
   車で上ると、かなり高いところへの一本道なので、下手をすると上り切るのに時間がかかる。
   ケーブルカーもあるようだが、私は、マイカーで上った。

   もう一つ、上から遠望できるリオのシンボルは、頭のないライオンが伏せているようなポン・ヂ・アスーカル(Pão de Açúcar)で、砂糖パンに似ていると言うのでこの名前がある。
   とにかく、リオの上空を飛ぶと、飛行コースにも寄るのだが、コルコバード、ポン・ヂ・アスーカル、そして、弧を描くコパカバーナとイパネマの白砂の海岸などの美しい風景が眼下に迫り、最初に見た時には、非常に感動した。
   あまりにも美しくピクチャレスクな光景は格別で、ぐんぐんと迫りくる風景は圧倒的であり、その後、プラハで、私が見た一番美しい都市景観だと思って感激した、あの印象と同じである。

   さすがにリオでは仕事にならなかったが、多少、時間にも余裕があったので、コパカバーナで、美女たちの写真を撮ったこともあった。
   赴任を終えて、ブラジルを離れる前に、コパカバーナ海岸のリオ オットン パレス(
(Rio Othon Palace)に何泊かして、名残を惜しんだ。
   薄暗いホテルの高層の窓から望んだ、大西洋のかなたの地平線に浮かび上がる朝日の美しさは、今でも、印象に残っている。


   ブラジルについては、このブログの「BRIC’sの大国:ブラジル」ほかで随分書いて来たので、蛇足は避けるが、私にとっては、初めてのかなり長い海外生活の地で、永住権も取得した第二の故郷にも近い思い入れのある国なので、今回のオリンピックについては、平穏無事に成功裏に終わって欲しいと願っている。
   少し前に、大分追加勉強して、2年間、群馬県立女子大学で、単発のブラジル学講義を行ったことがあるのだが、歴史上も非常に特異な国ではあるけれど、協創には最高の国だと思っており、日本としては、特に、注目すべき国であろう。

   テレビで、オリンピック放送を見ていたら、窓の外で、アゲハチョウが、カノコユリにたわむれ始めたので、フッと、同じような光景を見たブラジルを思い出し、この文章を綴ってみた。
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映画「インデペンデンス・デイ リサージェンス」

2016年08月08日 | 映画
   夏休みシーズンの映画館では、殆ど、子供向けの映画が占めていて、大人にとって面白そうな映画は少ない。
   どうしても、映画を見るとなると近場と言うことになるのだが、鎌倉には映画館がないので、隣町のシネマコンプレックスである109シネマズ湘南に行って、IMAXを見ることになる。

   最近、孫たちと話が合うためにも、一寸毛色の変わった映画も見ており、私としては、殆ど見たことがないジャンルの「インデペンデンス・デイ リサージェンス」を見ることにした。
   20年前の「インデペンデンス・デイ」を見ていないので、よく分からなかったのだが、
   1996年に公開された前作SF「インデペンデンス・デイ」の20年ぶりの続編とかで、エイリアンの侵略を撃退して生き延びた人類は、宇宙における独立を宣言して、回収したエイリアンの技術を利用して防衛システムを構築して、エイリアンの再来に備えた。ところが、再び地球を目標に襲来したエイリアンの兵力は想像を絶するほど高度に進化した圧倒的なもので、人類は為す術もなく、再度の絶滅の危機を迎え、壮絶な宇宙戦争が展開される。
   前回でも、空前のディザスター映像で大反響を呼んだが、今回は、更に、高度なCGなど大進化を遂げたICT技術を縦横に駆使して、別次元の途轍もないスペクタクルを創造した革新的な超大作になったと言う。

   監督は、前作も手がけたディザスター映画の巨匠ローランド・エメリッヒで、戦闘機パイロットの主人公ジェイク役を「ハンガー・ゲーム」シリーズのリアム・ヘムズワースが演じ、ビル・プルマン、ジェフ・ゴールドブラムら前作から続投したキャストも参加したと言うのだが、私には分からない。
   主役は、若い男女の戦闘機パイロットなど戦士なのだが、当然、地球の運命をかけた宇宙戦争であるから大統領など偉い人が出てきて活躍するし、とぼけた調子の科学者や指揮官なども登場するのだが、エイリアンによって親を失った子供たちの乗ったスクールバスがエイリアンの頭目である女王に追っかけまわされて砂漠を突っ走るなど、遊び心満開の映画で、非常に面白い。

   監督が言っているのだが、20年の進化を考慮して、“地球防衛システムの発足”や“世界平和同盟の締結”“月面に基地を建設”といったキーワードを配し、また、「96年の出来事(エイリアンの襲来)を“戦争”として描いたが、本作は、“戦後の世界”を描いて、人類が、地球上において、初めて、民族や人種を越えて一致団結している世界を描出している。
   本作は娯楽として作っているから、まずは楽しんでもらって、後から考えたらメッセージ性もあるなと思っていただきたいといっているのは、この、人類皆兄弟、力を合わせて宇宙船地球号を死守しようと言うことなのであろう。

   とにかく、高度に構築された宇宙基地で最新鋭機が派手な戦闘を繰り広げ、海も山も、都会も田舎も、エイリアンの攻撃に晒されて、天地が分からないくらい地球が鳴動し揺れ動いて破壊されて行く凄まじい光景など、科学の進歩か映像技術の進歩か、文句なしに、面白い。
   科学技術の進歩と言いながら、実際に戦闘を繰り広げているのは、戦闘機であり自動小銃だと言うところが時代錯誤のような気がするが、若い男女のラブロマンスもテーマの一つであるから、スペクタクル漫喫の娯楽映画として楽しめばよいのであろう。

   私には、どんどん、畳みかけて展開されて行く創造性、そして、想像性豊かな絵のようなシーンの移り変わりが、正に、映画でしか表現できない素晴らしい芸術を生み出しているようで、楽しかった。
   
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国立演芸場・・・柳亭市馬:落語「禁酒番屋」ほか

2016年08月07日 | 落語・講談等演芸
   東京に出かけて、昼に時間が余ると、国立演芸場の定席に出かけることにしており、この日は、上席で、柳亭市馬がトリのプログラムであった。
   どうせ、何時もの定席であろうと思って、8月中席が、桂歌丸噺家生活六十五周年記念公演だと知らずに、チケットを取り損ねて残念に思っているのだが、普及料金の定席でも、結構、素晴らしい公演が行われることがあるのが、国立演芸場の良いところである。

   この日の落語は、入船亭扇蔵が「たがや」、川柳川柳が「ガーコン」、三遊亭窓輝が「武助」、橘家蔵之助が「ちりとてちん」、柳亭市馬が「禁酒番屋」であった。
   「たがや」は、先月の名人会で三遊亭萬窓で聞いているし、他の噺も何度か聞いているので、お馴染みであり、その都度、噺家の芸の差やバリエーションを楽しむと言うことである。
   東京には、噺家が300人いると言うことらしいが、これまで、沢山の噺家を聞いているのだが、何となく、聞いていて、面白くなかったり聞き難かったり、相性の合わない噺家などもいて、贔屓の噺家が出てくるのも分かるような気がする。
   
   市場は、師匠柳家小さんの話を始めて、永谷園の「 あさげ ひるげ ゆうげ」のコマーシャルに出ていたが、飲んでいたのを見たことがなかったと言っていた。そんなものであろうと思う。
   市場は、ヤットン節だと思うが、ひとくさり歌手としての美声を披露して客を喜ばせていたが、兄弟子の小三治と違って、殆どまくらを語らずに、「禁酒番屋」を始めて、30分、じっくりと語り終えた。
   この「禁酒番屋」は、YouTubeで、小さんの公演が聞けるが、市場は、これを踏襲したのであろう。

   ストーリーは、次のような浮世離れしたナンセンス噺。
   月見の宴で、泥酔した二人の侍が刀を交えて一方が死に、残った侍も切腹すると言う惨事で有能な家来を亡くした某藩の殿様が、「余も飲まぬ」と藩士一同に禁酒令を申し渡す。
   しかし、藩内きっての大酒飲みの近藤、酒屋にやってきて大酒を飲み、今晩中に一升届けよと命令する。
   禁酒の酒を届けて見つかれば、酒屋は出入り禁止となるのだが、近藤の小屋に行くには、「禁酒番屋」を通過しなければならない。
   困った酒屋は、菓子屋の梅月堂で南蛮菓子のカステラを買って中身を抜いて、五合徳利を二本、菓子折りに詰めて番屋に行き、許された拍子に、「ドッコイショ!」と荷を持ち上げたので、「水カステラ」だと抗弁するも、試飲されて、バレてしまって、飲まれてしまう。次に、油屋を装って通過しようとするが、水カステラと同じ匂いがすると、これも番屋役人に飲まれてしまう。
   2升もムザムザと飲まれてしまった酒屋は、頭にきたので、かたき討ちに、ションベンをもって行くことにする。小便だと番屋に言うのだが、酔いがまわってへべれけになっており、水カステラや油と同じだと思った番屋役人が、「今度はどうやら、燗をして参ったようだ、燗が過ぎたとみえて、泡だっておる」と言って飲むと本当に小便。怒った番屋役人に、「小便と言ったでしょ。」
   「この、正直ものめぇッ」

   酒は、百薬の長と言われながらも、何故か、禁酒禁酒と騒ぐ国や政府が、結構、歴史上に存在する。
   しかし、禁酒法厳しきシカゴでは、アルカポネが暗躍して暗黒街の様相を呈したのが、禁酒法が廃止されると、いっぺんに、平和が訪れた。
   今でも、酒は、政府にとって貴重な税収源。

   私には、晩酌をするなどと言った習慣はなかったのだが、欧米に長かった所為もあって、ワインを飲み始めてから、夕食時や会食時には、少し飲むようになった。欧米では、ワインは、飲む食べ物なのである。
   ほんのりとした気持ちになって、しみじみとした想いを語るのも、酒を嗜む愉しみかも知れないと思い始めている。
   
   
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日本での午後のひと時の過ごし方

2016年08月06日 | 生活随想・趣味
   日本で、などと振りかぶって文章を書くのも不思議だが、私には、午後のひと時、特に、中食や喫茶などの時間の過ごし方での思い出で記憶にあるのは、殆ど外国の場合であり、日本では、印象に残っているような経験がかなり少ないような気がしている。
   日本では日常なので、何時もの経験であり、余程変わった特別な経験ではない限り、思い出や印象に残る筈がないと言うことでもあるから当然であろう。

   私の場合、外国では、仕事の関係などで、出張なども含めて、一人で行動することが多かったので、一人でレストランなどに行って、時間を過ごすことがあった。
   しかし、日本では、仕事上や親しい知人や友人、あるいは、家族などとの会食は、結構あったが、一人で食べに行ったり飲みに行ったりなどすることは殆どなかったので、行きつけの店や飲み屋などもなかった。

   外国、私の場合は、ヨーロッパが多いのだが、若かったし、趣味と勉強を兼ねて、ミシュランの星付きのレストランに、一人で出かけて時間を過ごすことも多かったし、午後に、長居をすることもあった。
   別に、苦痛に感じたこともなかったが、このようなレストランには、大概、客は、ビジネス客やカップルなど目的を持ったグループ客たちで、一人客などは、アメリカなどからの出張ビジネスマンだったり、リタイア―した老ジェントルマンといった感じの人だったり、何となく、無粋だし寂しい思いをしたことはある。
   日本では、何故か、特別なレストランに行きたいと思ったこともなかったし、一人で出かけて行く時には、気のおけない場所に行っていたように思う。

   何故、欧米では、ミシュランの星付きとか高級レストランへ気軽に行けたのかと言うことだが、これは、特別なワインを選ばなければ、それが、パリであろうとロンドンであろうと、かなり、リーゾナブルな価格で楽しむことが出来ることである。
   パリの三ツ星レストランでも、私が一人で出かけて、支払える値段であったし、フィラデルフィアのブックバインダーで、留学生の私でも、上等のイセエビ料理を食べることが出来たのである。
   それに、その頃は、Japan as No.1で、私自身、仕事上でも個人的にも、臆することなく、そのような環境で、自由に生活できたと言うこともあるかも知れない。

   ところが、日本では、高級レストランや料亭の飲食代は、けた違いに高くて、一度、赤坂の料亭にイギリス人を連れて行った時に、マツタケの吸い物一椀の値段が、ロンドンのフランス料理のフルコースの値段とほぼ同じだったのを知って面食らっていた。
   別に、コストパーフォーマンスに拘るわけではないのだが、日本の美食は、自分のような並みの人間には、別世界であって、馴染まないと思っている。

   もう一つ、日本には、喫茶店と言う素晴らしい喫茶文化があって、何時でも、好きな時に出かけて、気楽に喫茶や会話を楽しめるのであるが、少なくとも、アメリカやイギリスには、スターバックスが生まれるまで、喫茶店がなくて、コーヒーを飲もうと思えば、ホテルのコーヒーショップやマクドナルドなどに行って飲む以外に、方法がなくて困った。(尤も、ウィーンには、素晴らしい喫茶文化がある。)
   ドラッカーが、スターバックスをイノベーションだと言っているのだが、私は、日本では、喫茶店の応用に過ぎないと思っているが、英米では、確かに、革命的な喫茶文化の開花であり、イノベーションと言えるであろう。

   さて、前置きが長くなったが、特別なことではないけれど、今日、午後、東京と横浜で、すこし、リラックスした時間を、レストランと喫茶店で、過ごしたので、それについて書く。
   一つは、遅い中食を取ろうとして、西麻布の權八と言う居酒屋風のレストランで、過ごしたこと。
   街角に珍しい大きな蔵作りの建物の中が、かなり広いレストランになっていて、蕎麦や天婦羅や丼、所謂、総合的な和食レストランだが、店内は、バーカウンターもあれば、上階には、太鼓などを置いた舞台まである。
   店のこだわりは、”ただ料理や飲み物を提供するだけのビジネスではない。お客様に喜んでいただける空間を創造し、最高のサーヴィスと最高の料理を提供する。つまり「エンターテインメントとしての食事」を創り出すのがわれわれの仕事です。”と言う。
   時間もあったので、生ビールを飲みながら、特選ランチコース3,500円を頂いたのだが、まず、満足であった。
   気に入ったのは、薄暗い店内が、擬古風の田舎家の雰囲気を醸し出した内装で、落ち着いた気分で、食事が出来て会話を楽しめたことである。

   口コミか、英字観光案内に紹介されているのか、外人のグループ客が、半分くらい入っていたことで、室内装飾は、完全に和風だが、室内のムードは、欧米のレストランにある雰囲気と似通った感じが漂っていて、ほっとするところがあって、良いのである。
   食事は、新鮮で、温かい作り立てのものが出てくる。
   昔、京大和で、舞妓さんを頼んで、外人客と会食をした時、絶妙のタイミングで、瓢亭か、近くの料亭から料理が運ばれてきて、三業の鉄壁のコラボレーションが、京文化を支えていることを知って、流石にと思ったことがあるが、この当たり前である筈のサービスが、今の日本では、珍しくなったのである。
   
   
   

   もう一つ、帰りに、横浜の高島屋に寄って買い物の後で、店内のイノダコーヒー店に立ち寄った。
   イノダについては、学生時代から、あの中京区堺町通三条下ル道祐町にある昔の倉庫を改造した本店に行っていたので、良く知っていて、このブログでも何度か取り上げている。
   京都に行けば、必ず行っている喫茶店なので、特に、書く必要もないのだろうが、ロンドンのフォートナム・メイソンの喫茶室とともに、これだけは、私の好きな喫茶店と言えるかもしれない。
   ここも、混んでいたが、少し待って、コロンビアのエメラルドを楽しんで帰った。
   
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国立能楽堂・・・能・観世流「通小町」

2016年08月05日 | 能・狂言
   今回は、小野小町の能で、深草少将の百夜通いがテーマになっている。
   ツレの小野小町は、前ツレで老女(面・深井)として登場し、中入りして、後場では、若い女(面・小面)として再登場するので、衣装が変る。
   この日、「装束付け実演解説」があって、後ツレの装束付けが実演されたが、中入り後5分で、衣装付けするのだと言う。
   シテが、後場しか登場しないのも、興味深い。

   ストーリーは、
   八瀬の山里の僧(ワキ/江崎欽次朗)のところに、毎日木の実を供えにくる女(ツレ/観世芳伸)がいて、ある日、名を尋ねると、市原野に住む者の霊と答え、供養を頼んで消える。僧が市原野に行って供養していると、小野小町の霊が現れ弔いに感謝するが、小町に恋い焦がれていた深草少将の幽霊(シテ/山階彌右衛門)が現れて、小町の成仏を妨げる。少将は、懺悔に生前の百夜通いの様子を再現して僧に見せ、100日目に、小町との祝言に、「飲酒戒」を守って酒を止めようとしたことによって、仏縁を得て、小町もろともに成仏する。

   この能の終幕の立働きで、100日目に、紅の狩衣の着付けを上品に調えて小町との祝言に臨もうと出かけるのだが、嬉し盃を交わせば、仏の戒めである「飲酒戒」を犯すことになるので、これを止めようとした、この思いが、専心一念の悟りとなって、小野小町も少将も、多くの罪を消滅して成仏した。と言う話であるが、私には解せない世界。

   尤も、深草少将も実在しなければ、百夜通いも伝説に過ぎないのだが、物語は、恋する少将に、小町が、「百夜、通い続けてくれれば晴れて契りを結ぼう」と言ったので、それを信じて少将が百夜通いに挑む。と言う話。
   古今和歌集から見ると、小町は、言い寄ってくる男には拒絶する女と言うイメージが浮かび上がるらしいのだが、この百夜通いも、少将が諦めるであろうと思って口から出た言葉だと言う設定であろうか。
   能「恋重荷」で、菊の世話をする山科の荘司が、白河院の女御に憧れて、持ち上がりさえしない重荷を持って、庭を百度、千度廻れば、姿を拝ませてやると言われて、憤死する話と同じであろう。
   銕仙会の解説では、「通小町」は、
   ”人をうらみ、自らを嘆き、さまざまな感情が心中に渦巻きながらも、九十九夜のあいだ女のもとへ通い詰めた男。生きること、恋することの苦悩と、そこに差してきた一縷の光。”
   「能を読む①」では、
   ”四位少将と小町の邪婬、それゆえの堕獄、受戒による救済。”と言うのだが、観阿弥の作だとか、世阿弥の手も加わっているらしいと言うのであるから、大曲なのであろう。

   深草の少将の住まいがあったと言われているのは、深草にある墨染欣浄寺、京阪墨染駅から西へ疏水を越えて歩けばすぐなのだが、ここから、真っすぐ東に向かって、およそ5キロの道を、毎夜、山科の小野の随心院へ通ったと言う想定である。
   途中に、小栗栖山が横たわっているので、少し、北に上って、かなり起伏のある今の名神高速道路沿いあたりの道を歩いたと思うのだが、雨の日も風の日も、冬の寒い時期に通ったと言うから、並大抵の努力では、続く筈がなく、満願の100日目に、途中で発作を起こして死んでしまうと言うのである。

   私には、女性の気持ちは分からないが、男なら、下種な話かも知れないが、直感的に好きか嫌いか分かっている場合が普通であろうから、「〇〇すれば、恋を叶える」と言ったような話など、絵空事であることくらいは分かる筈だと思うのだが。
   恋は素晴らしい。
   恋を昇華出来るところが、動物と違うところ、人間の特権だと思う。
   しかし、芝居でも、実らない恋の話は、好きではなく、悲しくなる。
   受戒を受けて成仏しようとする小町を制して、「死してなお私を独り遺そうというのか…。」と、男の霊(シテ)が、小町の袖にすがりつく哀れな姿は、見るに堪えない。

   随分前に、山科から、醍醐の三宝院を経て、宇治を訪れた時に、二回ほど、小野の随心院を訪れて、小野小町を忍んだことがあるが、しっとりとした良いお寺である。
   
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宋玉:秋はもの悲しいの元祖?

2016年08月04日 | 生活随想・趣味
   「杜甫」を読んでいて、面白いと思ったのは、宋玉を忍ぶ「古跡を詠懐す」の解説で、宇野直人が、秋の季節を悲しいとして詠んだのは、宋玉が最初で、杜甫が、この影響を受けて悲しい秋のイメージが大変好きだったと語っていることである。

   宋玉が、師匠である屈原が政争に巻き込まれて追放されたことを悲しみ、同情して書いた「九辯」の冒頭の「悲しいかな、秋の気たるや 蕭瑟として 草木揺落して変衰す」が、秋の季節を悲しいものと詠んだ最初の例だと言う。
   それ以前の詩に詠われる秋は、祭りの秋、実りの秋、穫り入れの秋であって、悲しいと言う感覚を導入したのは、これが初めてで、それが人間の機微をついたのか、これ以降、秋を悲しいものとしてうたう作例が急に増えたと言うのである。

   杜甫は、詩に悲秋と言う言葉がよく出てきて、杜甫=「悲秋の詩人」だと言っているが、李白は、「秋が悲しいと言ったのは誰だ。秋はさわやかじゃないか」と言った句もあるらしく、秋は悲しいとうたわなかったらしいのが興味深い。

   日本へは、この「九辯」が、南北朝時代に伝わると、読書人の間に爆発的な人気を得て、秋はかなしいものとなった、それ以前の「万葉集」などをみても、秋は悲しいものとしてうたった例はないと言うことである。

   西洋では、秋をどのような感覚で受け止められているのか、今、資料がないのでよく分からないのだが、絵画などを見たり祝祭などの印象では、やはり、実りの秋、収穫の秋と言った喜びの感じの方が強いように思う。
   特に、ヨーロッパなどは、秋になると、一気に陽が短くなって、陽の殆どささない長い長い陰鬱な夜が支配する冬に一直線に進んで行くので、オペラや芝居など観劇シーズンとなり、華やかな社交の夜が花開く。

   日本人のように、蛍の光に旅愁を感じ、虫の鳴き声に耳を澄まして人生の喜びと悲しみをかみしめる・・・、そんな感覚などとは全く縁のない、蛍や鈴虫などはただの虫として一顧だにしない西洋人には、悲秋など言った感覚は、なじまないのかも知れない。
   もし、秋を悲しいとするならば、死の予感を感じた時かも知れないと思っている。

   欧米での生活が長かったので、私の印象だが、アメリカでもヨーロッパでも、秋になると、森や林が、黄金一色に染まって、びっくりするような輝きの中で、荘厳な思いに包まれて至福の時間を過ごした思い出がある。
   もう一つは、晩秋のレマン湖をドライブした時のワイン色にくすんだ湖岸の絵のような美しさで、気の遠くなるような夕暮れの対岸の雪を頂いた山々の稜線が輝いていた。
   日本の秋は、もみじや秋の落葉樹で、正に、赤や黄色や橙色など、極彩色に近い錦の美しさで輝くのだが、そのような繊細で微妙な秋化粧を、欧米では見たことがなかったが、要するに、ヨーロッパでは、冬季には、殆どの野外公園が休演となり、スキーなどの雪山を除いて、野外生活とはおさらばなので、悲秋などと言う感性など生まれ得たいのかも知れない。

   さて、ここで私が考えたかったことは、この詩の悲秋のように、人間の感性によって、世の中の方向や伝統などが、簡単に変って定着すると言うことである。
   フランス料理のコースなどは、寒いロシアの料理が一皿ずつ温めてサーブされるのに感じ入って、フランス人が真似たからとか、
   イギリスのテーラーが、黒い礼服など伝統的な洋服デザインを確立したのは、ヴェニスの葬送衣装を模したからとか、色々、言われているが、このブログでも書いたが、スコットランドのタータンチェックも、それ程遠くない過去に、施政上決められたものである等々。
   伝統は伝統だから尊いのだと言っていた学者がいたが、人間の伝統や習慣、意向や考え方など、何かの拍子にコロコロ変わってしまうのである。

   経済学も、複雑系経済学や人間心理などを重視した行動経済学の台頭など、学問の世界も変わりつつある。
   面白いのは選挙で、今回の都知事選挙でも、既成政党の醜いドタバタを見ておれば、そして、判官びいきの日本人の感性を考えれば、小池百合子が当選するのは当然であった筈。
   クリントンが、ブッシュに勝ったのも、「It's the Economy, Stupid(問題は経済なんだよ、おバカさん)」の一言だったと言うのだが、今回のクリントンとトランプの世論のシーソーゲームを見ておれば、その面白さが良く分かる。
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イギリス:”EU離脱”で進む分断

2016年08月02日 | 政治・経済・社会
   今朝7時のHNK BS1世界のTOPニュースのワールドeyesで、”イギリス EU離脱で進む分断”を報じていた。
   今回のEU離脱の国民投票の結果で、EU域内からの移民に対して深刻な民族圧迫とも言うべき嫌がらせや弾圧まがいの運動が拡大して、分断現象が巻き起こっていると言うのである。

   この問題は、これまでにも何度か報道されていて、所謂、ヘイトクライム(英: hate crime、憎悪犯罪)現象で、一般的には、人種、民族、宗教、性的指向などに係る特定の属性を有する個人や集団に対する偏見や憎悪が元で引き起こされる暴行等の犯罪行為を指す(ウイキペディア)のであるが、
   今回の場合、特に顕著なのは、2004年以降、ポーランドなど東欧諸国からの移民が増えて、これらが、英国人の雇用や社会福祉など、国民生活を圧迫しており、これが、英国人の国民感情を悪化させていると言うことである。
   
   

   ポーランド人に対する嫌がらせが顕著なようで、協会事務所への落書きや、一所懸命働いてやっと地歩を築いたポーランド人経営者の車に「まだ、帰国の準備をしていないのか」と言った紙切れが挟まれていてショックだったなどと報じていた。
   EU離脱に70%を投じた有数の野菜生産地であるイングランドの田舎町ボストンは、バルト3国など東欧からの移民が10%を越えていて、病院や社会福祉行政を圧迫し、英語の分かららない児童の増加で教育現場に負担がかかるなど、英国人の不満が増幅していると言う。
   
   

   ピケティに象徴される経済格差、貧富の格差の拡大で、生活を圧迫される国民が増加の一途を辿っていると言う問題に加えて、近年、英国のみならずEU全体が経済の悪化に苦しんでおり、英国そのものの財政が悪化し続けていて、社会福利厚生や教育文化予算を切り詰めるなど緊縮政策を取らざるを得ず、この面からも、国民生活は、どんどん圧迫されて悪化している。
   特に、移民による国民生活の圧迫がすべてではなくても、自分たちの職を低所得でも喜んで働く移民たちに奪われて、福利厚生など生活を保障してくれるセイフティネットが、緩み始めてくると不安を感じるのは当然であろう。

   先日、この番組でも報道されていたのだが、エストニアやラトビアなど東欧移民の所得は、本国の5倍だと言うことだが、今日の番組では、英国政府次第では、帰国せざるを得ないと言っていたので、ある程度は、出稼ぎ意識の移民もいるのかも知れない。
   しかし、もう、既に、10年近くも経つのであるから、ドイツのトルコ移民のように、永住化と言う問題もあろう。
   いずれにしろ、今回のEU離脱の最大の焦点が、英国への移民阻止と言う深刻な国民感情であったから、移民の流入さえ止めれば、自分たちの生活は守れると考えている英国民が、過半と言わないまでも、少なくとも、庶民の多くは、そう考えていると言うことであろう。

   ここで、考えるべきは、英国そのものの歴史である。
   かっては、七つの海を支配して世界を制覇し、殆ど世界中の国を自分たちの文化文明に取り込んで、手足のように使って大をなして来た。
   そして、大英帝国の没落と英国の衰退以降も、自国の力が弱体化しつつも、自尊心など何のその、ウィンブルドン現象をフルに活用して、世界の金融業を巻き込んでシティを世界一の金融センターにするなど、世界のパワーを手玉に取って、今日の英国を築いてきている。
   移民は職を奪うと言うのだが、現在、シティが最高峰の金融センターとして栄えているのは、衰退した英国金融機関に代わって、アメリカやドイツなど巨大な外国金融機関の働きあってこそなのである。
   先に、サッチャーが必死になって日産を英国に誘致するなど、とにかく、英国経済を支えているのは、外国パワーの貢献あったればこそであって、外資は歓迎するが、移民は拒否すると言うのは、本来の英国の姿ではなかった筈である。
   (尤も、外国人嫌いの日本人の立場からは、この問題には、あまり踏み込めないとは、思っている。)

   話は飛ぶが、私が、英国関連で仕事をし始め在住したのは、1980年代初め位から、1993年頃までで、日本が、Japan as No.1の時代であり、英国病で呻吟していたイギリスが、サッチャーによって、不死鳥のように蘇生して、経済大国へと驀進しはじめた時期である。
   この時には、英国の経済や社会状況が上り坂で、移民の規模も少なく、それまでに、インドパキスタンなど、元植民地であった英連邦からの膨大な移民で溢れかえっていて、ロンドン市内でも、外国出身者の方が多い感じで、私が付き合っていたエンジニアやシティのバンカーたちのかなりも純粋のブリティッシュオリジンではなかった。
   しかし、極端な移民排斥運動や外国人に対する嫌がらせなど起こっていたようには思えなかった。
   英国人は、世界制覇して、かっては、外国人を支配していたのかも知れないが、あの当時は、英国人は、外国人を自国人と同じように遇して生活する国民だと思っていたし、私の友人のイギリス人の多くもそう言っていた。

   しからば、何故、今、英国は、移民排斥気運の蔓延で、分断が進むのか。
   やはり、リーマンショック以降の深刻な国際経済、特に、EUおよび英国の経済の悪化の結果、本来は、経済成長源であった筈の移民労働者を吸収する能力がなくなり、その負担があまりにも過重となって、英国の政治経済社会の悪化を招いて、暗礁に乗り上げてしまったと言うことであろう。
   1990年代以降、ブレア政権以降の政治経済社会のかじ取りに問題があったと言うことかも知れない。

   余談ながら、当時、私自身は、シティで大プロジェクトを推進していて、英国の永住権もすぐに貰ったし、ジェントルマン・クラブにも入会を許されていたので、外国人として、英国で、嫌な思いを経験したことはなかった。
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宇野直人&江原正士著「杜甫」

2016年08月01日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   杜甫は、中国文学史上最高の詩人として、李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれる大詩人だとは知っていたが、特に、作品や伝記を読んだこともないので、遠い存在であった。
   
   私も、高校で、漢詩を少しは習っていたので、杜甫の「国破山河在 城春草木深 (国破れて山河在り 城春にして草木深し・・・)」くらいは覚えており、芭蕉が、「奥の細道」で、
   国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。 と引用して、有名な”夏草や 兵どもが 夢の跡”を詠んだのは知っている。

   所謂、訓み下し文と言われている日本語に文章化した漢文訓読文については、白居易の「長恨歌」など、随分魅力的な表現だと思ったし、漢詩ではないのだが、土井晩翠の”祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原”で始まる「星落秋風五丈原」などのリズム感など、随分、魅力的で印象に残っている。
   しかし、私の悪い癖で、今、能狂言鑑賞で苦労している、日本文学の詩歌に対すると同じように、漢文に対しても苦手意識が強くなって、若い頃の不勉強が祟り、先に進めなかったのを後悔している。

   中国史については、それなりに勉強したつもりだが、中国文学は、「紅楼夢」や「金瓶梅」を読んだのかは定かではないのだが、挑戦したので、今でも、箱が破れた骨董の本が手元に残っている。
   原本「金瓶梅」は、もっとパンチが利いているのであろうが、林真理子の「本朝金瓶梅」も面白かったが、あまり、人前でニタニタ読むと恥ずかしい。

   さて、肝心の「杜甫」だが、玄宗皇帝、楊貴妃、安禄山の時代の大詩人で、主に、粛宗に仕えた役人でもあった。
   尤も、若き頃より、天下国家に奉仕すべく、役人を目指して勉強したが科挙には受からず、役人になったのは、40代になってからで、不運が重なって、恵まれたキャリアを歩いたわけではなかったし、極貧生活に喘いだこともあったと言う。

   この本は、NHKのラジオ放送から起こした本だと言うので、杜甫の生涯を追って、その時代時代の杜甫の作品を取り上げて解説しながら、杜甫の足跡を展開しているので、比較的分かり安くて面白い。
   杜甫は、当時の知識人たちの傾向と同じで、役人になって理想的な政治を行いたいと思っていたので、戦争に明け暮れて塗炭の苦しみに喘いでいた人民たちのビビッドな生活描写は勿論、玄宗皇帝などの政治や経済社会の矛盾や蹉跌を、積極的に詩歌の題材として取り上げて、糾弾交じりにリアリズムに徹した描写を続けていて、凄まじく、報道写真家のような鋭さがあって、感動さえ覚える。
   その中にも、糟糠の妻への優しい思いやりや亡き子を忍ぶ心情吐露、旧友との再会の喜び、新婚翌日出征に泣く新妻など民の悲しみ、セミやコオロギや蛍、そして、旅の途中で走馬灯のように移り変わる景色や風物、歴史の足跡、等々、生きとし生けるものなど、社会派的な描写が、非常に興味深い。

   とにかく、玄宗皇帝と楊貴妃の時代に、李白と杜甫と言う偉大な大詩人が活躍したと言うことは、偶然とは言え、凄いことで、フィレンツェでのルネサンスを彷彿とさせるようで面白い。

   ケント大学のビジネス・スクールを終えた娘の卒業旅行にと思って娘を連れて上海を訪れて、ついでに、歴史散策を兼ねて、蘇州の蘇州古典園林や寒山寺や虎丘、杭州の「西湖」などを観光して、中国文学と芸術の一端に触れる機会を得た。
   文革直後、北京の紫禁城を訪れて、丸1日、殆ど人のいない宮城を散策した時には、感動の一語であったが、あの蘇州や杭州の旅と同様、私があこがれ続けた中国古典の美しい世界は、大分消えてしまっていて、時の流れの非情を感じたのを覚えている。

   杜甫の漢詩には、西湖の美しい中国風景の描写や、世界遺産の蘇州庭園のようなみやびと言った美しい風土の詩はなく、私には、少し拍子抜けであったことは、事実であった。

   杜甫は、科挙に合格していないので、推薦によってやっと仕官が叶いながら、恩義のある宰相房琯の左遷を擁護するために、職を利用して、肅宗皇帝の寝室にまで踏み込んで直訴して、裁判に掛けられて、死刑だけは免れたと言う。
   こんな性格であるから、折角、故郷に帰って、最愛の妻と幼い子供たちと穏やかな生活を送っていても、すぐに、天下国家のことが心配になって、出て行って、一悶着起こして左遷される。そんな生活を続けながら、人民の苦しみや国家の行く末を憂う鋭い漢詩を書き続けたと言うのである。

   一寸意外であったのは、中国最高の名君の一人とされている玄宗皇帝の平穏であった筈の時代において、安禄山の反乱もあろうが、戦争に狩り出され続けて、人民が如何に悲惨な困窮生活を送っていたかを、杜甫の漢詩には、克明に描かれていることである。
   唐朝の太宗李世民や清朝の康熙帝なども名君と言われて有名だが、中国は、あまりにも巨大な国なので、王朝は盛期を誇っていても、一般庶民は、根無し草のように、哀れな生活を送っていたのであろうか。
   能を鑑賞していると、平和な御代を寿ぐテーマに満ち満ちているのだが、日本程度の小さな国の方が、安泰なのかも知れないと、勝手に感じている。

   さて、最近、このブログでは、台頭する中国の政治経済などについて、辛口の文章ばかり書いているのだが、中国の古典や文化芸術の話になると、何となく、憧れがあって、心休まるのが不思議である。
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