熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

デイビッド・ヨッフィー , マイケル・クスマノ 著「ストラテジー・ルールズ」:パーソナル・アンカー

2020年07月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   イノベーターとしてもこの3人は突出していて、クリステンセンの説くローエンドからの破壊的イノベーションと言うよりは、無消費のブルーオーシャンの追求であって、それを、途轍もない時代を画する最先端を驀進する超巨大企業にまで育てあげたのであるから、まさに、小さな産業革命の牽引者とも言うべき偉業である。

   さて、イノベーターのジレンマに興味のある私の関心は、やはり、イノベーターのイノベーターたる由縁の3人のパーソナル・アンカー(個人的な強み)が何でありどのように働いて巨大な業績を上げたのか、そして、その引退後に、植え付けた企業文化が生き続けて成長を持続できるのかと言うことである。

   ゲイツはマイクロソフトに、ソフトウェアをテクノロジーとビジネスの両面から深く理解する文化を植え付けた。グローブはインテルに、マネジメントと業務運営を「エンジニアリングのように」厳密に実行するための規律を確立した。ジョブズはアップルに、テクノロジーに詳しくない人手も複雑な技術を直感的に操作できる、ユニークな生産デザインをもたらした。
   これらのパーソナル・アンカーは、彼らの会社への貢献の基盤となり、組織の真価の道筋を示すものとして機能した。この強みが、CEOの仕事の優先度に影響を与え、パターン化した戦略的思考を導き、人材の採用基準から権限の委譲範囲に至るまで様々な意思決定やルーチンの基礎になった。と言う。

   ゲイツのソフトウェアへの情熱、グローブの規律への情熱、ジョブズのデザインへの情熱に代表される特徴的な関心や強みは、経済やビジネスが不確実な時代には、企業文化やコンピテンシー戦略的指針を与え、会社が注力すべきものを明確にし、軌道から逸れるのを防ぐ役割を果たす。
   しかし、このアンカーは、船を固定する碇であるから、攻撃に対しては脆弱であり、それまでは成功していたとしても、テクノロジーや市場など企業環境が変化し、新たなライバルが台頭すると、コアコンピタンシーはすぐに盲点化、硬直化してしまう。
   
   さて、後継者の問題についてである。
   ゲイツ、グローブ、ジョブズは、CEOである自らの弱点を補完し、企業経営で右腕となってくれ、様々な個性やスキルを持つパートナーを採用し、そして、その中から重要な人物を後継者に選んだ。
   しかし、ゲイツ、グローブ、ジョブズの成功に不可欠だったバルマー、バレット、クックだが、後継者CEOとしては苦戦しており、おそらく、3人の代わりを務められるリーダーはどこにもいなかった。3人は、忠実な右腕を後継者に指名したのは間違いで、次世代の技術や顧客、競合に詳しい新しい感覚を持つリーダーを探せたはずだった。と著者たちは言う。
   3人が去った後のマイクロソフト、インテル、アップルの事業の推移や苦境については、省略するが、著者は、最後に、競合イノベーターであるラリー・ペイジ、マーク・ザッカーバーグ、ジェフ・ベゾス、馬化騰について語っていて興味深い。

   補完は代替にはならないと言う教訓でもあるが、日本にも、一代で築き上げたダントツの成功企業がいくらか存在するのだが、その成功企業の創業経営者が、去ってしまえば同じような軌跡を辿るのであろうか。
   全く事情も違うし条件も違うのだが、別な意味でイノベーターが直面せざるを得ないジレンマと言うべきであろうか。
   結局、この3人のイノベーターの戦略論も、GAFAの創業者のような傑出したイノベーターあっての有効な戦略戦術であって、そのようなパーソナル・アンカーを備えたイノベーターが登場しない限り意味をなさないと言うことであろう。
 
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梅雨も梅雨なりに

2020年07月09日 | 生活随想・趣味
   九州や中部日本の大災害を慮れば、「梅雨は梅雨なりに」などという悠長な記事など書けないのだが、
   この鎌倉でも、結構、強烈な男性的な梅雨で、強風に煽られ豪雨に襲われていて、しとしととして蒸し暑い昔の梅雨の印象とは桁違いの激しさである。
   天気予報のテレビ放映では、よく、江ノ島が映っているのだが、ここから山の手北へ4~5キロほどの小高い山間の住宅街なので、吹き上げてくる風雨はかなりきつい。

   さて、天候が穏やかで、しとしと雨の静かな日には、蒸し暑さを辛抱して歩くと、それなりに、普段とは違った発見などはっとするような雰囲気を味わえることがある。
   尤も、年寄りと言うことで、コロナウイルス騒ぎが、まだ、終息していないので、バスや電車での移動さえも憚られていて、近所の散歩程度の移動なのだが、それでも、アジサイやアガパンサスなどが、雨に濡れてひっそりと咲いていて楽しませてくれる。
   自動車の免許証を返上したし、上等な電動自転車を買いながら、安全優先で乗るのを諦めているので、移動は徒歩のみ、
   最近、やっと、孫娘の幼稚園が平常通園に戻ったので、その送り迎えで歩く機会に恵まれて、無理に散歩することもなくなった。

   さて、わが庭の花も寂しくなったのだが、シルクロードやコンカドール、アジサイは、まだ、咲き続けている。
   梅雨模様の暗い天気で、花の色が冴えないのが可哀想である。
   
   
   
   
   

   本来なら、水不足で葉が痛んでしまうモミジの鴫立沢や琴の糸などの葉が綺麗に残っている。
   湿度の高い寒暖の激しい京都や奈良と違って、関東、この鎌倉でも秋まで葉が持たずに、綺麗に紅葉することは珍しいのだが、さて、今年は、この葉っぱが、いつまで持つのであろうか。
   
   
   
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デイビッド・ヨッフィー , マイケル・クスマノ 著「ストラテジー・ルールズ」:イノベーターのジレンマ

2020年07月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   30年間、ハーバードとMITで戦略論を教えてきたベテラン教授デイビッド・ヨッフィー , マイケル・クスマノ 著の「ストラテジー・ルールズ -ゲイツ、グローブ、ジョブズから学ぶ戦略的思考のガイドライン」
   元タイトルは、Strategy Rules: Five Timeless Lessons from Bill Gates, Andy Grove, and Steve Jobs
   ゲイツ、グローブ、ジョブズ3人の事業活動などを比較検討、分析して、共通する経営戦略のエッセンスを抽出して、5つのレッスンと捉えて、その本質を5つにルール化して戦略論を展開したものである。
   Timelessと銘打ったのは、時を超えて経営戦略として生き続ける要諦だという自負であろう。
   3人の偉大なICT革命の巨人については著書なり関連本を読んでいるので、特に目新しい知見はないのだが、おそらく、現在望み得る最も時宜を得たホットなイノベーターの戦略論の一冊だと言うことは言えると思う。

   私が興味を持ったのは、 第3の戦略「製品だけではなく、プラットフォームとエコシステムを構築する」という章で、「イノベーターのジレンマ」に触れていたことである。

   業界プラットフォームは、大きなマーケットシェアを獲得すると、長い年月をかけて多額の投資をした顧客が「ロックイン」されて、取り除くのが困難となって持続する。マイクロソフトなら、このロックイン効果を維持するために、ワードやエクセルやデータベースの旧バージョンを、最新のウインドウのバージョンでも動作するようにする。「既存の顧客や補完生産者にとって重要な製品やサービスを維持しつつも、時代遅れにならないようにするにはどうしたらよいのか」という問題に直面する。
   ゲイツ、グローブ、ジョブズ3人とも、プラットフォームを進化させる度合いと早さについては常に頭を悩ませてきた。速く進化させすぎると、既存の顧客や補完生産者との関係を壊してしまい、進化があまりも遅いと競合他社に出し抜かれてしまう。

   プラットフォーム戦略で最も重要なマスター・ストラテジーの一つは、
   「同じところに立ち止まらずに、顧客が購入し続けていても、古い技術を売ることに満足せずに、新たなアイデアや機能(特に、自社を脅かしている競争相手が採用しているもの)を取り込むことによって、プラットフォームを漸進的に進化させて行くこと。」
   マイクロソフトのDOS/ウインドウズやインテルのx86マイクロプロセッサーなどのように成功すればするほど、顧客やサードパーティ企業が既存のプラットフォームに投資を続けて、ネットワーク効果は指数関数的に増加し、実用性や価値の向上、顧客の囲い込みなどのメリットが生じているので、それを大きく変更したり大胆に刷新したりすることが売り上げや利益にマイナスに影響するかも知れないと言うリスクを恐れる。
   ところが、いつかは、必ず、既存のものより良い製品が登場して、正しい戦略に基づいた新たなプラットフォームのリーダーが出現して、既存市場に波乱を起こして、旧態依然とした状態を打破しようとする。
   ノキアやブラックベリーが支配していた携帯電話市場にiPhoneが登場、アップルがグーグルのAndroidのソフトウエアをオープンにしてパートナーのエコシステムを構築しようとしてアップルに挑戦、

   興味深いのは、ジョブズは、「プラットフォームより製品」という哲学であったし、旧製品との互換性に関心をもっておらず、
   プラットフォームの互換性やカニバリゼーションの面で不安が少なく、エコシステムパートナーや顧客への影響も小さかったために、新製品のカテゴリに移行しやすかった。
   「古い製品の弱さ」にも関係し、過去と決別しても失うものが少なかったので、イノベーションを起こしやすかった。と言うのである。

   このイノベーターのジレンマに対する対応なり経営戦略は、クリステンセンの世界。
   創造的破壊は、資本主義経済の命であり、破壊的イノベーションあっての人類社会の成長発展であるから、
   イノベーターのジレンマは、最も重要な経営学のテーマの一つであって、決定版などなく、永遠の課題であろうと思う。
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J・スティグリッツ:Priorities for the COVID-19 Economy

2020年07月06日 | 政治・経済・社会
   Project Syndicate Jul 1, 2020 に、 Joseph E. Stiglitz が、”Priorities for the COVID-19 Economy”を書いた。
   コロナウイルス経済における優先政策について書いているのだが、今回は、非常にシンプルで、まさに、リベラル学者の言が冴えていると思うので、この点だけについて、考えてみたい。

   この論文の後半部分だが、大意は、ほぼ次の通り。
 
   スティグリッツは、まず、
   短期的な優先順位は、パンデミックが終息するまで経済は回復しないので、明らかに、人々への保護設備や病院のキャパシティへの援助サポートなどの緊急ヘルス関連支出(the health emergency)。
   そして、最も困っている人々を助け、不必要な倒産を避けるための財政援助、コロナ終息後の緊急再起が上手く行くような労働者と企業とのリンクの維持、を説く。

   このアジェンダで、絶対に必要なのは、既に寿命が尽きた企業に救済策を施さないこと、すなわち、コロナ前から既に倒産寸前の企業、ダイナミズムと成長余力を欠いたゾンビ企業、いかなるショックにも耐えきれない債務超過企業などへは財政援助をしてはならない。FRBが、財政救済策で、ジャンクボンド市場を支援するなどと言うのは完全な誤りである。これらは、まさに、モラルハザードを惹起する要因であり、政府は、愚挙とも言うべきこのような財政資金援助をやってはならない。と言う。
   実際には、アメリカ政府は、コロナの影響で売り上げ急減で危機に見舞われ、本来なら競争力が保てるはずの企業を破綻するのを防ぐ狙いであったのが、投機的等級に落ちた企業の社債を買ったり、コロナ以前から財政が悪化していた企業までも救済すると言うので問題視したのであろう。
   資本主義においては、企業の淘汰新陳代謝は、当然、自由市場システムの健全なメカニズムであるから、このような時期こそ、自浄作用を働かせよと言うことであろう。

   このコロナは、長引きそうなので、財政出動の優先順位をつけるのに十分な時間がある。パンデミックが、発生する前に、アメリカ社会は、人種的差別、経済格差、健康水準の傾向的低下、化石燃料への異常な依存等々、深刻な病巣を抱えていた。今や、政府は、膨大なスケールで財政出動するのであるから、国民は、それを受領した企業に、社会的かつ人種的な公正、健康の改善、より環境重視の知識ベースの経済へ資金を投入するように要求する権利がある筈である。

   特に、環境保護グリーン革命への投資に意を用いるなど、公共支出の管理よろしきを得て、深刻な失業対策を兼ねての労働集約的かつ高度に刺激的な支出の価値のある財政援助、そして、減税。国家は、社会にたいして、それが求めている持続可能な回復プログラムを採択できないという経済的な理由はない。と言うのである。


   さて、先に、スティグリッツは、このパンデミックは、格差の拡大を増大すると述べている。
   機械やロボットは、ウイルスに影響されないので、未熟練労働者を使う建設業の雇用者などはハッピーな筈。それに、低所得者は、富者よりは、消費性向が高いので、所得を高い割合で費消するので必然的に格差が拡大するというのである。
   また、財政出動についても、金融政策は、一時的な流動性苦境に対応できても支払い能力問題の解決にはならないし、既に金利が0%近辺では経済刺激効果がない。それに、赤字の増大と政府債務の増加を嫌う保守派の強力な反対がある。と悲観論を展開している。
   そして、ウイルスが人間の行動にTAXのように作用するので、消費や生産に大きな変化を引き起こして、広範な形の構造変革をもたらすであろうという。
   今回のパンデミック不況は、急激な変化でありながら、求められる職業は、労働集約性の低い、より技術集約的な職なので、職業のスムーズな転換は非常に困難であり、コロナ終息後、再雇用によって失業率が多少戻ったとしても、構造的な失業は増加すると言うことであろう。

   それよりも、私が注目したいのは、ゾンビ企業や命運の尽きた企業は見限って新陳代謝を図れというシュンペーター張りの議論である。
   それに、細かいことには触れずに、助けて貰った企業に、環境対策や格差や不平等の社会悪に挑戦して社会的責任を果たせという提言である。
   
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未完の資本主義 テクノロジーが変える経済の形と未来:AIが雇用を駆逐するのか?

2020年07月05日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「テクノロジーが変える経済の形と未来」で、最もポピュラーな課題は、ICT革命によるAIやロボットの台頭が、人々の職を奪うのかどうかと言うことであろう。

   まず、クルーグマンは、AIは誇張されていて、AIが総ての仕事を奪うという話は、現実の仕事からは全く乖離していて、AIによる大量失業の時代がくるのはまだ先のことだという。
   歴史的には、仕事の代謝は何時の時代にも起こっており、機械による仕事への恐怖心があって、テクノロジーが資本主義を脅かすと言う強い偏見があるのだが、労働力の使用に反するとしても、それでは、賃金の低い仕事しか得られない方が良いのかと言っており、歴史の趨勢に任せても心配はないと言う考えである。

   かなり、クルーグマンに近い考え方をしているのが、「大停滞」「大格差」の著者タイラー・コーエン教授。
   「AIが仕事を奪う」という考え方を改めるべきで、AIは新しい仕事を多く創出し、同時に、古い仕事を排除し、むしろ、AIの導入は、新たな富と機会を創出する。
   仕事を得るのに、必要なスキルは変って行き、テクノロジーについての理解が必要になり、収入の格差も拡大し、危険なのは、スキルのない人が、サービス・セクターの仕事しかできなくなる未来が来るかも知れない。このスキルのあるなしによって格差が広がることこそが、AI導入による危険性だと個人的には考えている。雇用機会が減ることは、そこまで問題ではない。と言う。
   歴史上、どの時期でも良いが、50年、あるいは、100年という期間を取ってみれば、経済が成長して居れば、殆どの仕事は消滅し、異なる仕事に置き換わっている。

   スティーブン ピンカーの「21世紀の啓蒙 : 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 」の楽観的な未来予測の時にも論じたが、産業革命の時の機械をぶち壊したラッダイト運動 も食糧危機を予言したマルサスの人口論も、人類は、色々な深刻な危機を、科学やテクノロジーの進歩発展、イノベーションによって解決してきたではないかという歴史観があると言うことでもあろうか。
   いずれにしろ、短期的には、経済の合理化によって、AIやIoTの進化発展で、インターネットやロボットに取って代わられる仕事が淘汰されて行くことは間違いなかろうと考えられよう。

   私にとって、興味深かったのは、この問題には直接触れてはいないが、「フラット化する世界」のミルトン・フリードマンの生涯学習者になることの大切さを説いた見解である。
   AIやロボットについて行けなくなると言うよりも、科学技術の進歩があまりにも急速に、我々の職場環境のみならず生きる環境を激変させるので、弾み車のハツカネズミのように、生涯教育に邁進して知性教養、生活能力をブラッシュアップし続けなければ、生きて行けなくなるという指摘である。
   
   ビッグデータとAI、5GやIoTによって、総てのものに知性が宿り、今や、「世界はフラットだけではなく、ワンタッチで総てが行える、ファストかつスマートになっている」、
   今は、テクノロジーが地球を覆いつくす人新世だ。と言うのがフリードマンの現状認識。

   18世紀末に開発された蒸気エンジンが三世代稼働し、電力化と燃焼機関、産業革命が次の三世代続き、同じような次のテクノロジーが更に三世代続いてきたが、今や、世界はひっくり返り、三世代分のテクノロジーを一世代で使い切るようになった。
   この動きが、今後は更に加速するので、これからの競争に勝ち残るためには、個人でも政府でも、常に新しいことを学び続け、学習ツールを得るべく、生涯学習者(lifelong learner)になる能力が最も重要になり要求される。と説くのである。

   切った張った、激動の20世紀を生き抜いてきた私には、ベルリンの壁が崩壊しソ連が崩壊するまでの時代は、何となく異質感なく、歴史の線上で生きてこられたのだが、インターネットを叩き始めてからは、あれよあれよと思っているうちに世の中が大変身、
   この間の政治経済社会の動きもそうだが、科学やテクノロジーの進歩発展は、まさに、早送りのビデオ映像を見ているような感じで、ついて行けるのかどうか不安を感じ始めている。
   そうであればそれだけ、永遠にその価値を失うことなく輝き続けている真善美をアプリシエイトする日々を過ごして行きたいと思っている。
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未完の資本主義 テクノロジーが変える経済の形と未来:無意味な仕事Bullshit Jobs

2020年07月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、「テクノロジーが変える経済の形と未来」というサブタイトルがついているので、AIやIoTなどデジタル革命による職の危機などが話題であろうと考えられるし、冒頭、クルーグマンとの対話も、このテーマから入っているのだが、私にとって興味深かったのは、そんなことよりも、どうでも良い、必要がないと感じる仕事(Bullshit Jobs)が多すぎて、経済社会を毒していると言う見解を、二人の学者が論じていることであった。

   まず最初は、”We are the 99 percent."スローガンの生みの親アナーキストでLSE文化人類学のデヴィッド・グレーバー教授のBullshit Jobs論。
   ケインズの時代に存在していた仕事の半分が、時代の変遷やロボットに奪われるなどなくなっているが、労働時間を短縮したり、必要な仕事を公平なやり方で分配したりするのではなく、それをしている本人さえ「必要がない」と感じる仕事を作り出した。特に役所や管理職に付随する仕事など、雇用拡大の脅迫観念にドライブされて、大きな組織は余分なもの――定期的に人を雇っている明らかに馬鹿げた仕事――を作り出しており、ケインズの時には全体の25%であったのが、現在ではおよそ75%にまで増えている。と言う。
   それに、皮肉なことに、実際には、何もしていない人、Bullshit Jobsをしている人の方が、具体的に役立った仕事をしている人よりも、給料が高い、仕事が社会に貢献している割合と、貰っている報酬が逆相関になっているとして、
   大学施設、教育機関、健康管理部門などが非常に大きな規模になり、コンサルタント、会計士、企業弁護士、テレマーケティングやPR,ロビー活動など、皆、ライバルがやっているから自分もやると言うだけの理由で増えている。と言うのである。
   自らの仕事が必要ないことを彼らがどれだけ意識しているかに関心があって、「自分の仕事は社会に意味ある貢献をしているかどうか」を質問したら、「まったくしていない」が37%、「どちらか分からない」が13%、「間違いなく貢献している」と答えた人は50%だった。

   興味深いのは、グレーバーが、BS職として、次の5例を挙げていること。
   「Flunkies(太鼓持ち)」受付係や秘書
   「Goons(用心棒)」企業弁護士、電話営業、ロビイスト、広告・広報
   「Dact Tapers(落ち穂拾い)」何か不具合が起きたときのためにある職、謝罪するためにだけ存在
   「Box Tickers(社内官僚)」銀行など多くの企業にあるコンプライアンス部門
   「Task Makers(仕事製造人)」監視する必要がない人を監督する、他の人にBS職を作り出す
   グレーバーは、これらに共通する要素はと聞かれて、「これらの仕事をしている人がいなくなっても何の不都合も生じないか、あるいは、世の中が少し良くなるかも知れないと、BS職をしている本人たちが知っていることだ」と答えている。

   経営の合理化戦略として、中間管理職の中抜き論などは、以前から論じられており、実施して成功しているケースもあるようである。
   また、このBullshit Jobs論は、ドラッカーが説いていた知識情報化産業社会において重要なプレイヤーであった「ナレッジワーカー / Knowledge Worker(知識労働者)」を否定するような見解だが、確かに、ICT革命、デジタル革命の進展によって、弁護士や会計士の仕事をインターネットが蚕食しつつあり、高度な専門知識を持った知識労働者さえ駆逐されていると言われて久しく、時代の急激な移り変わりの成せる技であろうか。
   いずれにしろ、グレーバー論は、一寸行き過ぎだとは思うのだが、あながち否定するわけにも行かず、この激動の経済社会環境で生き抜くためには、企業も役所も、色々な組織も、BS職を排除して行かない限り生きて行けなくなるであろう。
   特に、今回の新型コロナウイルス騒ぎで引き起こされた経済恐慌級の大不況によって、多くの企業や団体が大構造改革に迫られているので、BS職の淘汰削減は、喫緊のテーマとなろう。

   さて、もう一人は、ベーシックインカムの主唱者オランダの歴史家ルトガー・ブレグマン。
   働くイギリス人の37%、オランダの人の40%、ベルギー人の30%が、自分のやっている仕事は、全く意味がないと感じていると紹介して、人生で最大の課題は、「生きることの意義」を見つけることであって、働くことこそ生きる意味だという人がいるが、間違っている。と言う。
   ブレグマンは、日本人のワーカホリックぶりを揶揄しながら、「過労死」という言葉のある日本ほど、仕事に取り憑かれた文化を見たことがない。日本人にとって、仕事の重要性があまりにも大きいことに驚いた。働かなければならないという脅迫観念が強いからこそ、失業率がこんなに低いのか。意味もない仕事がどんどん生み出されている。日本人は、人生で何を大切にすべきかについて真剣に議論する必要があるというのである。
   夜中の11時、東京で工事中の道を横切ろうとしたら、5人もの従業員が立っていて右を歩けと指示してくれたが、そんなに無駄な人間がいるのか、ソ連の末期に、モスクワのパン屋のレジに3人も店員がいて、一人はパンを計測、一人は袋に入れ、一人はお金を受け取ってレシートを渡す、こんな国が崩壊するのは当然だというわけである。

   もう一つ面白い指摘は、富を移動するだけの「くだらない仕事」が多すぎるとして、まず、銀行業を、今の金融センターが行っているのは、生産的な投資ではなく投機で、かっては、才能ある若者たちは、研究機関や大学、政府、医療、教育などの分野で働いていたのに、今やその大半が、ウォール街で働くようになってしまったのは、現代最大の悲劇だ。とやり玉に挙げて、
   また、最近の優秀な若者は、シリコンバレーではたらいて、人々にできるだけ広告をクリックさせるように仕向けており、これは才能の無駄遣いだ。シリコンバレーで、イノベーションなど起こる筈がない。と言う。
   現在のイノベーションが大したことのないのは、多くの優秀な若者がウォール街やシリコンバレーで働き、才能を無駄遣いしているからだ。と言うあたり、中々の論客である。

   ブレグマンは、ベーシックインカムを説きながら、GDPがもはや人間の幸せとは無縁の概念になってしまっていることを説いていて、面白い。
   最後に、未来の最大の課題は「退屈」だとして、ホイジンガの「ホモ・サピエンスはホモ・ルーデンスであり、遊ぶことこそ我々の本質だ」と言う言葉を引いて、我々は遊ぶことで、物語を作り出し、文化を創る。仕事ばかり集中した文化では、イノベーションや創造性、文化を生み出せない。

   とにかく、この本、色々な問題を提起してくれていて、非常に面白い。
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未完の資本主義 テクノロジーが変える経済の形と未来:セドラチェクの場合

2020年07月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、大野和基の著名な経済学者等とのインタビュー記事を集大成した本で、カレントトピックスに集中しているので面白い。
   丁度、先日レビューしたトーマス・セドラチェク, オリヴァー・タンツァー 著「続・善と悪の経済学 資本主義の精神分析」出版後のセドラチェクとのインタビュー記事が含まれていたので、参考になるかと思って読んでみた。
   セドラチェクの前著は、先の「善と悪の経済学」と主義主張は殆ど変っていないと思うのだが、フロイトやユングの理論を展開しながらの資本主義を精神分析手法での分析なので、心理学等の基礎知識のない私には苦痛であった。

   しかし、いずれにしろ、セドラチェクの見解は、本人の言をそのまま引用すると、経済学が纏っている合理性と数学でできたマントを剥ぎ取り、一見素晴らしい理論と合理的に選択された行動と、ブラック=ショールズ方式の算出可能性のみで形成されている経済学が魅惑する上着を排除することで、古い時代の賢明な経済学者が未来の経済学においては精神分析が重要な位置を占めるだろうと預言したように、精神分析によって、数学のみに依拠していた経済学が、最高の学問になりうる。と言うことである。
   数学偏重の現代経済学に反発しているのだが、経済学が現実に合っていないと言う反論は、ガルブレイスの「悪意なき欺瞞」などでも論じてきたが、
   セドラチェクは、完全に無視され続けていた持論が、現代経済学が暗礁に乗り上げた2008年の金融危機を境に一気に認められたと述べているのが面白い。

   もう一つの論点は、成長を当然として前提としている経済学への批判。
   我々を取り巻くシステムは、今、徐々に安定を欠いてきている。天然資源は、既に、現代の経済戦争の戦場と化し、社会は、まるで、自身を食い潰すことでしか成長できないように見える。「成長しなければならない」という脅迫は躁的な経済危機へとつながり、人々の価値観を変え、既に手に入れた進歩を粉々に破壊しかねない。
   破壊への道をこのまま進むか新しい道を行くか、岐路に立っている。
   もし、新しい道を行くのなら、己の属性の一部を再発見し、経済的行為や思考によって生活から閉め出されていた共感や創造性や忍耐、自分を信頼する能力、独自の直感などを蘇らせなければならない。と言う。

   さて、この本で、セドラチェクは、成長に対する経済学の病として、3点を指摘している。
   第一の病は、経済の成長を子供の成長のように扱っていることで、その成長の保障はない。
   第二の病は、経済を非常に速いスピードで走らせていることで、成長が経済の自然な状態であると勘違いしている。
   第三の病は、意思のある者が多く取り、意思のないものは少なく取る傾向、すなわち、経済格差を拡大させる純粋資本主義の弊害、
   成長至上主義こそが社会の病に繋がっており、「フェア・ゲーム」ができる公正な社会でなければならないという考え方である。

   経済成長についての私の考え方は、前回もその前にも随分書いてきたので端折るが、最近の経済の成長進化は、GDPなどの数値では表せない、質の向上に体現される傾向が強くなって、形を変えて、経済が社会の進化発展を支えている、すなわち、GDPベースでの経済成長率は低下しているのだが社会がどんどん変化して良くなっている(?)という新常態を注視すべきだと思っていることを補足しておきたい。

   また、資本主義は、共産主義と違って、批判されるためにあり、完全なシステムではないので、うまく矯正すれば完全になり得る。資本主義は、批判して、変えて行くべきだという。
   セドラチェクの社会に対するイメージは、ケインズと非常に似ており、いつか、社会が豊かになり、テクノロジーも発展して、人間が人間としてやるべき運命にあることができる社会で、生計を立てる手段についても悩まなくてもいい社会である。誰もが自分のやりたい仕事、存在意義を見出せるような仕事をできるのが理想だという。
   現代資本主義を憂い糾弾しながらも、楽観的と言うべきか、社会はその理想にかなり近づいていると言うのが私の考えである。と述べるあたり、真意が何処にあるのか分からない。
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ワーグナーの「ニーベルングの指輪」

2020年07月01日 | 生活随想・趣味
   7月からの、歌舞伎や能、クラシック・コンサートのチケット予約案内が、メールで届いていて、いくらか予約を入れたが、やはり、歳を考えて躊躇している。
   新型コロナウイルス騒ぎで、劇場での公演が総て中止されてしまって、歌舞伎や能でも、動画配信されて人気を博しているようだが、テレビやパソコンで観劇するのであるから、特に見たいと食指が動くのは別だが、同じ画面なら、録り溜めたDVD録画を見た方が良かろうと言うことになる。
   今日明日、WOWOWで、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」の4部作が放映されていて、先月の放送を録画してあるので、それを見始めている。
   METライブビューイングなので、休憩も含めての録画であるから、延々、15時間以上で、並大抵の努力では、楽しむという域には、中々達せない。
   第2夜の「ワルキューレ」は、METの公演でもドミンゴの出演する舞台も複数回観ており、ロイヤルオペラでも観ているのでお馴染みだが、他の3夜は、一度ずつベルナルド・ハイティンク指揮のロイヤル・オペラで観た記憶があるくらいで、中々、チャンスに恵まれない。
   この放映は、2010年以降のMETの舞台だが、WOWOWの放映は、「ワルキューレ」だけ、2019年のガーキーの新しい上演作品を放送していたので、以前の録画のヴォイト・バージョンを観た。
   
   
   
   

   ワーグナーのオペラは、他にも、WOWOWやNHK BSPで録画したスカラ座やロイヤル・オペラなどの「パルジファル」「タンホイザー」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などの名演が残っている。
   昔は、せっせと、ビデオやレーザーディスクやDVDのオペラを買っていたが、今では、私自身がハイビジョン放送をブルーレイ録画した方が遙かに質が良く遜色がない。
   しかし、問題は、録画するだけで、観る機会がないので、DVDが積み上がるだけだと言うことである。

   私が、ワーグナーに傾倒したのは、1967年のバイロイトの来日公演(大阪国際フェスティバル)で、「トリスタンとイゾルデ」の観劇。
   指揮はピエール・ブーレーズ、演奏はNHK交響楽団、演出はヴィーランド・ワーグナー、
   トリスタン: ヴォルフガング・ヴィントガッセン、イゾルデ:ビルギット・ニルソン、マルケ王:ハンス・ホッター
   丁度、カール・ベーム指揮で同じキャストのレコードが発売されたので、分からないままに、とにかく、聞き込んでフェスティバル・ホールに出かけた。

   次のワーグナーは、大阪万博で来日したベルリン・ドイツ・オペラのマゼール指揮の「ローエングリン」、
   タイトルロールはチャールズ・クレイグ、ピラール・ローレンガーのエルザが素晴らしかった。
   それ以降、日本では偶にしかワーグナーを観ることはできなかったが、幸い、欧米伯で14年間生活したので、ほとんどのワーグナーの舞台は鑑賞したし、帰国後も世界的な歌劇場の来日公演に行っているので、随分、ワーグナーを楽しんできている。
   ワーグナーのオペラは、比較的長時間なのだが、とにかく、のめり込んでしまうと蟻地獄、
   私など、音楽の素養なり知識は無に等しくて、何も分からないのだが、好きだと言うだけで、せっせと、劇場に通い続けてきた。

   オランダに居た時、夏の休暇で、車で、ロマンティック街道を経てウィーンへ行く途中に、ワーグナーに傾倒したバイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築されたノイシュヴァンシュタイン城を訪れた。
   城内の各部屋には、ワーグナーの楽劇の舞台を模した素晴らしく幻想的な装飾がなされていて、夢心地の経験を味わった。

   さて、映画館がオープンして、METライブビューイングも上映されているのだが、まだ、コロナが気になるので、遠慮している。
   最後のワーグナーの「さまよえるオランダ人」へ行こうか行くべきでないか、迷っているところである。
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