いじめについて語ろうとすればマスコミの報道に頼るしかない。なぜなら私はいかなる意味でも当事者でないからである。教師でもなければいじめの加害者、被害者の親でもない。
いじめについて実のあることを語ろうとすれば、個別、具体的かつ詳細に語らなければならないだろう。マスコミの報道は量こそ気違いじみた多さで氾濫しているが、具体的な内容はほとんど無い。それに内容は画一的でこれほど情報密度の低い報道もない。
プライバシーの問題があるということだろう。情報がないので想像でしかないが、いじめの原因というかタイプは画一性の問題だと思われる。現在の教育は、60年前に与えられた教育基本法という家畜飼育マニュアルに基づいている。家畜の生産者にとって商品の均質化というのは至上命令である。品質管理だね。
上にも下にも、語弊があるというなら、右にも左にも、前にも後ろにもずれた、はみ出した商品は排除される。人間の場合には身体的なものに加えて性格というか、精神というにはまだすこし年齢が若すぎるかもしれないが、そうそう、心理的なタイプとでもいうかな、そういうものが家畜生産マニュアルで定めた基準値から外れてはいけない。許された偏差値は許容範囲が極めて狭い。
基準値を決める大本は教育基本法だが、日教組のさじ加減というのも影響が大きい。文部省の教育指導要領とかいうのもある。身体的に特徴があったり、背が低かったり、ちょっとユニークな性格の子供というのはいじめの対象となる。付け加えれば家庭の置かれた社会的な環境も影響、逆影響があるのかもしれない。マスコミがまったく報道しないから推測だが。
たちの悪いことに人間には、児童といえども意識というものがある。本来家畜の品質管理は飼育者のすることだが、家畜もちょっとした知能があるものだがら、飼育者を代弁したつもりで毛色の変ったこどもをいじめる。これが加害者の側のメカニズムである。児童にも自意識というものがある。いじめられる側では今度は自己規制をする。これがいじめられる側のメカニズムである。
自殺したこどもの遺書が公開されるが、その内容には燃えるような呪詛、遺恨の言うものがない。わたしが死ねばいいんでしょうとか、お荷物がなくなっていいですね、といった類のものだ。これは自殺するこどもが捨て台詞として皮肉をいっているのではない。ほんとうに思っていることを淡々と表現しているのではないか。