橋下徹君、家禽の王たらんよりは、サーチライトたれ。
「私が言っていることは国民の意見です」から「私の考えは国民の意思です」までは小さな一歩である。こういう人物は危険人物である。
橋下君はいいことも言っている、やっている。ドーベルマンも使いようだ。国民は猛獣使いになれるかな。
他の政治家は彼を探照灯として使えばいい。猟犬としての彼の臭覚を利用するのだ。彼の心的メカニズムは権力を握ると「私の意思が国民の意思だ」に変貌することはまちがいない。
昔で言えば国王の意思は神の意志である、ということになる。自分は神に油を注がれし者という幻影にとらわれるのである。
問題は彼を探照灯として利用できる政治家がいるかどうかだ。中田宏君、出来るかな。石原君なら出来そうだが、彼には時間があまりない。
坂本竜馬の役割は、司馬遼太郎がでっち上げたところでは、そういう役回りだ。種をまいた後では殺された。ある意味で作劇の基本法則に沿ったものであった。舟中八策とはそういうものだったらしい。
播いた種にはいい麦もあった。悪い麦もあった。悪い麦は抜き取られ、いい麦は収穫された。収穫したのは西郷隆盛であり、維新の元勲たちであった。そうすると、中田宏とか石原慎太郎は刈り入れる人かな。