戦後10年を迎える直前に、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験によって、被爆したマグロ漁船の第5福龍丸ご存知でしょうか?
日本が広島・長崎の被爆を受けて、またもや公海上とはいえ日本人が23名被爆したのです。致死量の半分量となる、推定5000~3000ミリシーベルトの死の灰を浴び、半年後に機関長の久保山愛吉さんが亡くなりました。
しかしその後、ほぼ全員が白血病や様々な癌で亡くなっています。唯一の生存者の、大石又七さんが昨日大江健三郎さんと、会談がNHK教育テレビで放映されました。
大石さんも、肝臓がんで何度も手術をされています。その事件の最も重要なことは、日本人の記憶あるいは記録から意図的にこのことが消されてきたことにあります。
第5福龍丸は13年後、東京のごみ捨て場に廃棄されていました。東京都職員がこれを見つけて保存運動が起き、現在は夢の島に記念館が作られ保存されています。
第5福龍丸被爆の前年に、アイゼンハウアーが核の平和利用を、国連で訴え大きな支持を得ていました。その陰で、アメリカはソビエトに後れをとった水爆実験(ブラボー計画)をやっていたのです。第5福龍丸の被爆は、このことを世界に知らしめる結果になったのです。
アメリカは、核の平和利用のモデルとして、資源の少ない技術国の日本を選んでいました。これに乗ったのが、正力松太郎と中曽根康弘でした。
核の平和利用を訴えたアメリカにとって、第5福龍丸の被爆は不都合な事実でした。被爆の10ケ月後には早々と、200万ドルを支払われて政治決着したのです。
第5福龍丸の乗員は1年半後には、全員が退院しました。見せかけの退院です。冷戦下日米の政治決着を背景が裏にあります。
一方日本共産党が、社会主義国の核兵器の容認に走り、反核運動は分裂したことも、日本政府には都合の良い材料でした。
こうして日本は、原発大国への道を歩き始めたのです。第5福龍丸被爆から、2年後には東海村の原発計画が始まります。そして5年後の臨界へと進みます。まるで、第5福龍丸の事件などなかったように、忘れるために動き始めます。
原子力発電事業は、単に「国策」として推進されただけではなく、東西冷戦とアメリカの世界戦略の補完作用として存在したのです。そのことが、原発の危険性を隠ぺいし、お金を田舎にばら撒く事業として存在するようになったのです。