詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林弘樹監督「惑う After the Rain 」(★★★★★)

2017-03-01 20:44:55 | 映画
監督 林弘樹 出演 佐藤仁美、中西美帆、宮崎美子、藤田弓子

 映像がとても美しい。ただ、この美しさは説明するのがむずかしい。舞台となっている古い旅館、その離れ(?)の畳や障子、柱、壁の美しさは、時間をかけて生まれてきた美しさである。宮崎美子が板の間(廊下)に雑巾をかけるシーンがある。つるつるの板ではない。ざらざらしている。しかし、木目にそって、ていねいに時間をかけて雑巾がけをすることで、つやをもってきている。この「木目にそって雑巾をかける」という仕種は、子供たちが塾の机に雑巾がけをするシーンで「ことば」として語られる。つまり、ひきつがれる。そういう「暮らし」が引き継いできたものが磨き上げた美しさである。わずかな水、布の摩擦が板をなめらかにしていく。「何時間」ではなく「何年」という繰り返される時間。そこには宮崎美子だけの時間ではなく、もっと前からの時間が積み重なっている。他人の時間をひきついでいく美しさである。
 冒頭の雨のシーンの緑の美しさも、日本独特のものだと私は感じたが、そこには日本人の「美意識」の時間があるのだろう。水と光と緑がどういうときに美しいものとして見えるか、ということを私たちは知らず知らずに「過去」から受け継いでいる。その受け継いでいる美意識が風景を切り取っている。だから美しい。
 で、主人公(と言っていいのだろうか)の佐藤仁美。私は、佐藤仁美を見るのは初めて。中西美帆を見るのも初めて。そして、佐藤仁美を見た瞬間に、あ、太っている。やぼったい、と感じた。顔がでかい、とも感じた。これを2時間見るのかと思うと、少し気が滅入ったのだが。
 なんと言えばいいのか。
 見ているうちに、妙に安心してしまった。無理して作り上げた「細いからだ」ではなく、生きているうちに自然に身についたたくましさを感じた。「太さ」のなかに「時間」を感じたのだ。「他人の時間」を引き継いで、「自分の時間」を太らせていく。この「時間」の「太さ」が、佐藤仁美の「肉体の太さ」で具体化され、それが映画全体のテーマとぴったり重なって感じられた。だんだん好きになってくる。
 いまはやりの「細いからだ」ではだめだなあ。きっと、まったく違った映画になってしまう。
 特に、風呂に入っている妹の中西美帆の対話のシーンがすばらしい。シングルマザーになる妹、その決意までの「時間」を思い、「太いからだ」で受け止める。「太い」からこそ、妹の「肉体」そのものを、そのまま「内部」に取り込むことができる。二人分の「感情」が佐藤仁美の「肉体」のなかで動く。「感情」というよりも妊娠した「肉体」そのものの変化を受け止めて、それが佐藤仁美の「感情」となって動いている感じ。
 裸の中西美帆と服を着たままの佐藤仁美が交互にスクリーンに登場するのだが、中西美帆の裸なんかどうでもいいから、もっともっと佐藤仁美が見たい、という気持ちになる。吸い込まれてしまう。
 佐藤仁美は「役どころ」としても「一家の大黒柱」なのだが、いやあ、すごいなあ。年をとって「肝っ玉母さん」を演じる女優は何人もいるが(この映画では、藤田弓子がそれに近い感じ)、若くて(何歳か知らないが……)、この「時間感覚」をもった「肉体」というのは、すごい。
 映画のなかで「家族とは何か」という問いが何回か出てくる。「鍋」だとか「花」などか、いくつか「答え」が語られるが、私には「ひきつがれる時間」と思えた。佐藤仁美は登場人物を、時には批判的に(冷静に)見ているが、それは「他人の時間」をどうやって自分の「肉体」でひきつぐか、それをゆっくりと手さぐりしているように感じられる。拒まず、引き受け、引き継ぐ。そういう「力」を感じさせる。

 今年のベスト1、というには早すぎるかもしれないが、傑作である。「東京物語」のように、時間が経てば経つほど評価が高くなる作品であると思う。
                        (中洲大洋4、2017年03月01日)


 
 *

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松尾真由美「香りあるもののささやき」

2017-03-01 09:19:46 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾真由美「香りあるもののささやき」(「イリプスⅡ」21、2017年02月10日発行)

 松尾真由美「香りあるもののささやき」は、ことばの「内部」へ踏み込んでいく。高良勉のことばの動きとは対照的である。
 松尾真由美「香りあるもののささやき」は「花」を10の視点からとらえている。一つだけを取り出して感想を書くのは、松尾の「意図」を無視することになるかもしれないが……。

4 insomnia(不眠)

ようやく
ひらく
花の吐息を
誰が聞いているのだろう
この氾濫の秘めやかな香りを察し
なまなましい旋律の糸
絡まりゆく足頸に
躓きの
予感は満ち
あれはいつもの
晴れがましい
誤解と誤謬
眠っていても
眠っていない
そんな硬度がまばゆくいたく

 花が開く前に、「呼吸」がかわる。花の開いた唇から「息」が漏れる。「吐息」とあるが、「ようやく」は「吐く」というよりも「漏れる/あふれる」という感じの方が「動詞」としてふさわしい感じがする。
 私は思わず「ふさわしい」と書いたのだが。
 松尾のことばは、一つのことばが他のことばに「ふさわしい」かどうかをめぐって動いていく。ことばにはそれぞれ「過去」がある。その「過去/歴史」を追いかけている。
 ようやく漏れた息(吐息)、それはかすかな音だろう。だから「誰が聞いているのだろう」という問いになる。誰も聞いてはいない。松尾だけが聞いている。ようやく漏れた息の「背景」にはやはり「過去」がある。花だけにしか知らない「秘密」がある。それが「秘めやかな」ということばを誘い出す。「息」に「秘密」を感じている松尾がいる。
 花の息なので、そこには「香り」がある。「秘やか」なので、逆に「なまなましい」。「なまなましい」は直前の「氾濫」を言いなおしたものだ。息が漏れるときの「内部」には何かが「氾濫」している。「秘やか」というのは「隠す」という意味でもある。隠そうとするから、それを突き破ってあふれる、漏れる。それが「吐きだされる」。
 ここには「絡み合い」がある。反対のものが、花の「内部」で動いている。花はこのとき「ことば」の比喩でもある。
 「香り」は「旋律」へと変わっていく。「嗅覚」が「聴覚」へと変わっていくが、「肉体の内部」で「嗅覚」「聴覚」がつながっているように(「肉体」がひとつであるように)、「ことばの内部」もどこかで「融合/混沌」の場をもっている。
 その変化の一瞬は「躓き」でもあるし、「飛躍」でもある。「飛躍の予感」といった方がいいかもしれない。
 未分節の「混沌」、感覚が「融合」している場というのは「誤解/誤謬の場」であるともいえる。「香り」と思えば「旋律」。それは未分節であるがゆえに「なまなましい」。「嗅覚」「聴覚」、あるいは「視覚」や「触覚」という「肉体」の融合にとどまらず、そこから「誤解/誤謬」という「理性の領域」へまで「なまなましく」踏み込んでゆくのが松尾のことばなのだと思う。

 あ、でも、なんだか苦しい。閉塞感がある。その閉塞感が「内部/理性(精神)」をさらに強調するのかもしれない。
 どこかに壊れた部分というか、「外部」が侵入してくるようなところがあれば、楽しく読めるかもしれない。「内部」の噴出の裂け目、そこへ「外部」が瞬間的に侵入してくると、破れた壁から突然青空が見える、という感じになるかもしれない。
 それでは「濃密感」がなくなると、松尾は言うかもしれないけれど。

松尾真由美詩集 (現代詩文庫)
松尾 真由美
思潮社
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