監督 クリスティアン・ムンジウ 出演 アドリアン・ティティエニ、マリア・ドラグシ
グザビエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」(★★★★★)を思い出した。アップのシーンが多い。台詞が重い。ただ「エリザのために」を先に見ていたら、「たかが世界の終わり」には★を5個つけなかっただろうなあ、と思った。
好みの問題かもしれないが、私は「エリザのために」の方が好きである。台詞が少なく、「間合い」が微妙で、とてもおもしろい。
たとえばアドリアン・ティティエニがしきりに台所に立つ。こまめに何かをつくる。料理というほどのものでもない。サンドイッチだったり、飲み物(アルコール?)だったり、デザート(リンゴ)だったり。妻がいるのだが、夫が食べたり飲んだりするものに、あまりかかわらない。いや、いっさい手伝わない。最初は理由がわからない。酒を飲むならかってに飲んだら、くらいの感じかなあと思っていたのだが、映画が進むに連れて、夫婦仲が冷えきっていることがわかる。夫には愛人がいて、妻はそれを知っている。ふたりはエリザ(マリア・ドラグシ)のために、家庭を守っているにすぎない。
その大事なエリザが卒業試験(大学受験資格試験?)の前日にレイプ未遂にあう。動揺して、試験でいい成績がとれるかどうか心配になる。エリザよりもアドリアン・ティティエニの方が、結果を気にする。なんとかいい成績を取らせたい。成績が悪いとイギリスへ留学できない。そのために「コネ」をつかって、様々な工作をする。それが、対社会的な人間関係(検察をまきこんだ不正捜査)という動きだけでなく、「家庭」に深く影響してくる。親子、夫婦関係を、厳しく圧迫してくる。きしみが大きくなる。
アドリアン・ティティエニはエリザが夫婦関係が冷えきっていることに気づいていない、少なくとも愛人がいることを知らないと思っているが、エリザは気づいていた。エリザは学校まで父親に送ってもらうときがある。渋滞もしていない道で、突然クラクションを鳴らす。愛人の家のそばを通るのとき、通ったよ、と合図している。それに気づく。そして祖母が倒れたとき、医者である父親を愛人の家まで呼びにくる。そして、父親に、母と話し合え、と迫る。
エリザに夫婦関係の「嘘」を知られてしまって、アドリアン・ティティエニと妻の関係は、激しく崩れ始める。このやりとりのなかで、私はひとつのシーンにみとれてしまった。アドリアン・ティティエニが夜の飲み物(あるいはデザート?)のためにオレンジを切っている。その手元(左手)がスクリーンの左下に映し出される。顔は見えない。右側の空いたスクリーンの奥にドアがあり、そのドアを開けて妻が出て行く。この肉体の対比が、とてもおもしろい。アドリアン・ティティエニは自分のなかに閉じこもっている。オレンジを切る手すら動かない。一方、妻は全身を動かして、夫に別れを告げる。ことばではなく、肉体の動きで、完全に決裂してしまう。
「たかが世界の終わり」でも、マリアン・コティヤールが沈黙するラストシーンが印象的だったが、肉体そのもので時間を動かしていくシーンというのは、映画の強みである。芝居にはできない「アップ」の映像が、とても効果的なのである。
妻の決裂が決定的になったあと、アドリアン・ティティエニが愛人の家に行く。愛人がミートボールスープの残り(ミートボールなし)を温めて、アドリアン・ティティエニに出す。「ミートボールは?」「いや、いらない」というようなやりとりが、そっけなくて、非常に深みがある。最後の一滴までスプーンですくって食べるシーンにも、不思議な説得力がある。「時間」を感じてしまう。「過去」が「いま」に噴出してきている感じがすばらしい。
映画は、アドリアン・ティティエニの家の窓ガラスが破られるところからはじまる。誰かが石を投げ込んだのだ。そのあとアドリアン・ティティエニの車のフロントガラスも被害に遭う。誰がやったのか、映画のなかでは説明されない。しかし、愛人の子供を公園で遊ばせているとき、その子供が他の子供に石を投げるシーンがある。これは、子供がガラス窓に投石したことを暗示させる。
子供はどこかで母親とアドリアン・ティティエニの「愛人関係」に不安を感じていたのだろう。そしてその不安、あるいは不満を訴えていたのかもしれない。
これは、映画のなかでは「答え」を出していない。出していないからこそ、おもしろい。
人間というのは、とても敏感な生き物である。アドリアン・ティティエニのように、医師として成功している人間よりも、未完成な人間の方が不安に揺れ動く。そして制御がきかなくなる。暴走してしまう。幼い子供がそんなことをするはずがない、と大人は思うが、大人の「常識」を超えるのが子供である。
そして、この「大人の常識を超える子供」という視点から、この映画を見ると、また別な面も見えてくる。
レイプ未遂にあったエリザは不安に揺れ動いている。「弱い」存在である。しかし「弱い」だけではない。試験でいい成績をとるための「不正方法」を教えられるが、不正をしない。いい成績を納め、イギリスへ留学するという夢があるのだが、その夢のために不正をするという方法を拒む。子供には「純粋」という強さがある。
それがアドリアン・ティティエニを初めとする大人の「弱さ」をじわりじわりとあぶりだしていく。「弱さ」は「愚かさ」と言い換えることができるかもしれない。
ある意味で、非常に怖い映画でもある。
(中洲大洋3、2017年03月10日)
グザビエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」(★★★★★)を思い出した。アップのシーンが多い。台詞が重い。ただ「エリザのために」を先に見ていたら、「たかが世界の終わり」には★を5個つけなかっただろうなあ、と思った。
好みの問題かもしれないが、私は「エリザのために」の方が好きである。台詞が少なく、「間合い」が微妙で、とてもおもしろい。
たとえばアドリアン・ティティエニがしきりに台所に立つ。こまめに何かをつくる。料理というほどのものでもない。サンドイッチだったり、飲み物(アルコール?)だったり、デザート(リンゴ)だったり。妻がいるのだが、夫が食べたり飲んだりするものに、あまりかかわらない。いや、いっさい手伝わない。最初は理由がわからない。酒を飲むならかってに飲んだら、くらいの感じかなあと思っていたのだが、映画が進むに連れて、夫婦仲が冷えきっていることがわかる。夫には愛人がいて、妻はそれを知っている。ふたりはエリザ(マリア・ドラグシ)のために、家庭を守っているにすぎない。
その大事なエリザが卒業試験(大学受験資格試験?)の前日にレイプ未遂にあう。動揺して、試験でいい成績がとれるかどうか心配になる。エリザよりもアドリアン・ティティエニの方が、結果を気にする。なんとかいい成績を取らせたい。成績が悪いとイギリスへ留学できない。そのために「コネ」をつかって、様々な工作をする。それが、対社会的な人間関係(検察をまきこんだ不正捜査)という動きだけでなく、「家庭」に深く影響してくる。親子、夫婦関係を、厳しく圧迫してくる。きしみが大きくなる。
アドリアン・ティティエニはエリザが夫婦関係が冷えきっていることに気づいていない、少なくとも愛人がいることを知らないと思っているが、エリザは気づいていた。エリザは学校まで父親に送ってもらうときがある。渋滞もしていない道で、突然クラクションを鳴らす。愛人の家のそばを通るのとき、通ったよ、と合図している。それに気づく。そして祖母が倒れたとき、医者である父親を愛人の家まで呼びにくる。そして、父親に、母と話し合え、と迫る。
エリザに夫婦関係の「嘘」を知られてしまって、アドリアン・ティティエニと妻の関係は、激しく崩れ始める。このやりとりのなかで、私はひとつのシーンにみとれてしまった。アドリアン・ティティエニが夜の飲み物(あるいはデザート?)のためにオレンジを切っている。その手元(左手)がスクリーンの左下に映し出される。顔は見えない。右側の空いたスクリーンの奥にドアがあり、そのドアを開けて妻が出て行く。この肉体の対比が、とてもおもしろい。アドリアン・ティティエニは自分のなかに閉じこもっている。オレンジを切る手すら動かない。一方、妻は全身を動かして、夫に別れを告げる。ことばではなく、肉体の動きで、完全に決裂してしまう。
「たかが世界の終わり」でも、マリアン・コティヤールが沈黙するラストシーンが印象的だったが、肉体そのもので時間を動かしていくシーンというのは、映画の強みである。芝居にはできない「アップ」の映像が、とても効果的なのである。
妻の決裂が決定的になったあと、アドリアン・ティティエニが愛人の家に行く。愛人がミートボールスープの残り(ミートボールなし)を温めて、アドリアン・ティティエニに出す。「ミートボールは?」「いや、いらない」というようなやりとりが、そっけなくて、非常に深みがある。最後の一滴までスプーンですくって食べるシーンにも、不思議な説得力がある。「時間」を感じてしまう。「過去」が「いま」に噴出してきている感じがすばらしい。
映画は、アドリアン・ティティエニの家の窓ガラスが破られるところからはじまる。誰かが石を投げ込んだのだ。そのあとアドリアン・ティティエニの車のフロントガラスも被害に遭う。誰がやったのか、映画のなかでは説明されない。しかし、愛人の子供を公園で遊ばせているとき、その子供が他の子供に石を投げるシーンがある。これは、子供がガラス窓に投石したことを暗示させる。
子供はどこかで母親とアドリアン・ティティエニの「愛人関係」に不安を感じていたのだろう。そしてその不安、あるいは不満を訴えていたのかもしれない。
これは、映画のなかでは「答え」を出していない。出していないからこそ、おもしろい。
人間というのは、とても敏感な生き物である。アドリアン・ティティエニのように、医師として成功している人間よりも、未完成な人間の方が不安に揺れ動く。そして制御がきかなくなる。暴走してしまう。幼い子供がそんなことをするはずがない、と大人は思うが、大人の「常識」を超えるのが子供である。
そして、この「大人の常識を超える子供」という視点から、この映画を見ると、また別な面も見えてくる。
レイプ未遂にあったエリザは不安に揺れ動いている。「弱い」存在である。しかし「弱い」だけではない。試験でいい成績をとるための「不正方法」を教えられるが、不正をしない。いい成績を納め、イギリスへ留学するという夢があるのだが、その夢のために不正をするという方法を拒む。子供には「純粋」という強さがある。
それがアドリアン・ティティエニを初めとする大人の「弱さ」をじわりじわりとあぶりだしていく。「弱さ」は「愚かさ」と言い換えることができるかもしれない。
ある意味で、非常に怖い映画でもある。
(中洲大洋3、2017年03月10日)
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