詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦寿輝「魚は目覚めたまま夢を見る」

2017-03-02 10:05:52 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「魚は目覚めたまま夢を見る」(「現代詩手帖」2017年03月号)

 「現代詩手帖」2017年03月号は「ダダ・シュルレアリスムの可能性」という特集を組んでいる。松浦寿輝「魚は目覚めたまま夢を見る」はそれに合わせた作品か。

幽霊が忍び足で入ってくる
川底に沈んだ水族館で月の最終木曜の深夜に開かれる
藍玉(アクアマリン)と天河石(アマゾナイト)と琥珀(アンバー)と燐灰石(アバタイト)のオークション
魚が目覚めたまま見る夢は鉱物質の涙に結晶するからだ

 私は、この四行を読んで、「シュルレアリスム」の教科書みたいだ、とも感じた。私の感じている「シュルレアリスム」がそのまま「ことば」になっている。
 「シュルレアリスム」とは何かと聞かれたら、その「答え」を私はもっていないが、「感じ」としては、松浦の書いていることばが「教科書」になる。「感じ」だから、論理的には間違いかもしれないが、感覚的には「正直」を書いている。
 私は何を「シュルレアリスム」と感じていたのか。
 「切断」と「接続」の過激さである。

 「幽霊」あるいは「最終木曜」など、たぶんそれぞれの「ことば」に「出典」があるのだろう。どことなく「聞いた感じ」がある。「無意識」の底に沈んでいる「ことば」。これを次々に引用する。引用するときは、「切断」と「接続」が過激に行われる。この過激さを、私は「シュルレアリスム」と感じている。
 「月の最終木曜」は、「三月の最終木曜」とか「四月の最終木曜」として読むこともできるし、宇宙の「月」の「最終木曜」とも読むことができる。「川底に沈んだ」は「川面に浮かんだ」(川面の中に見える)と読むことができるので、「宇宙の月」が「接続」される。
 「切断」と「接続」は、松浦がやっていることだけれど、私の方でも勝手に「切断」と「接続」をやってしまう。だから私が「引用」と感じたものが「引用」でなくても「引用」になってしまうということもあるし、私が「切断」と感じたものは「接続」であり、「接続」と感じたものが「切断」ということもあるだろう。

 こういうとき、では、作品を作品として成立させるものは何だろうか。なぜ、このことばを私は「詩」と感じてしまうのか。

 ことばのリズムだ。私の場合は、ことばのリズムで、あることばを「詩」と感じ、あることばを「詩」と感じることができない、ということがおきる。
 「リズム」というのは不思議なもので、完全に新しい(まったく聞いたことがない)ものだと、ついてゆけない。どこかで聞いたことがあって、はじめて「耳」がついていく。そして、私が松浦の「詩」に感じる「リズム」とは、「ことばの論理」(論理のことば)がつくりだす「リズム」である。
 最初の四行を引用したのは、そこに「論理のことば」があり、それが私を安心させたからだ。
 「シュルレアリスム」とは一種の「でたらめ(現実を超えるもの)」だが、そしてその「でたらめ」というのは「接続」の仕方が「でたらめ」ということ。たとえば、手術台とミシンとこうもり傘が一緒にある(接続されてある)というのは「現実の病院(手術室)」では見ることができないから「でたらめ」と言える。
 松浦の、どのことばに私は安心したか。「論理」を感じたか。

魚が目覚めたまま見る夢は鉱物質の涙に結晶するからだ

 この行の「からだ」である。
 その前に「入ってくる」「開かれる」という「動詞」がある。その「動詞」をつなぐものとして「理由(論理)」が語られる。「……だからだ」。「魚が目覚めたまま見る夢は鉱物質の涙に結晶する」が「理由」になるかどうかは、問題ではない。それを「理由」にするということが「論理」ということである。「論理」とは「接続」によって生まれる。「論理」はいつでもつくりだすものである。「接続」させれば「論理」になる。

ところが炎をたなびかせた雌虎は夢のない眠りのなかで
一つの単語ともう一つの単語のあいだを苦しげに泳ぎ渡っては
脱輪して暴走する蒸気機関車のように交合しつづける

 「ところが」も「論理」のことばである。「逆」のことをつなげるためにつかわれることばである。それまでの「接続」を「切断」し、そこに「逆」のものを「接続」させる。「逆」の刺戟は「シュルレアリスム」にとって快感である。そんなものが「接続されるはずがない」という「常識」を否定し、「常識」の「逆」をつないでゆく「論理」。
 たとえば次の行。

水底を吹く風は精妙な地震計の針のように幸福な錯乱のように
戦争勃発直前の国境のように美しく慄えている

 「のように」「のように」「のように」。この「直喩」も「接続」の「論理」である。比喩とはかけ離れたものを「結びつける」こと。つまり「接続」すること。比喩のなかには「接続の論理」がある。

漂い流れてくる没薬と白檀のかけらの優しいかおりがうとましい
荒廃した水族館はもうあと何秒かすれば音もなく崩れ去るだろう

 「だろう」。推量のことば。推量も「論理」である。
 「接続」がどんなに非常識(シュル?)であっても、そこに「論理」あり、それがことばを支えている。「論理」にあうようにかけ離れたものが(矛盾するものが)結びつけられている。そのとき、実は「かけ離れたもの」さえも「かけ離れている」という「論理(意味/評価)」を生きている。

 シュルレアリスムというのは論理(科学)が「日常(常識)」になってきたからこそ生まれたんだろうなあと、私は勝手に思っている。
 いま引用した部分からだけでも「水族館」「鉱物(質)」「結晶する」「蒸気機関車」という「科学」の「身近さ」を感じさせることばがある。科学によって目覚めた「日常の夢」。科学が日常にならなかったらこの夢は生まれない。
 ここから別のことも考えられる。それは小笠原鳥類の作品に触れながら、あした書くつもり。


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