粕谷栄市「死んだ男」(「森羅」3、2017年03月09日発行)
粕谷栄市「死んだ男」は、繰り返し、言い直しによって少しずつことばが動いていく詩である。
「死んでいることに気づかずに、日々を過ごしている」は「何年も、一人も筆を買いにくる客がいない」ことによって証明(?)される。「たしかに」ということばが証明を導き出す。
証明というのは、次々に根拠を求めるものである。「どうして」ということばが次の証明を要求している。
このあとが、おもしろい。
「つまり」は言い直しなのだが、ここに語られることは「どうして、この店に客が来ないのか」の説明にはなっていない。どこかに新しい筆屋ができたとか、ひとはもう筆をつかわなくなったとか、というのが「現実的」な説明だろうけれど、ここで語られるのは、そういうことではない。
「現実」から反転して「この世ではない」ところから状況が言いなおされる。ここに「飛躍」があるのだが、その「飛躍」を「つまり」という「論理」のことばが隠している。「論理」というのは「飛躍」してしまうと「論理」ではなく「空想(でたらめ)」になるのだが、それを「つまり」という「ことばの肉体」が引き止める。
ここで、うまく言えないが、何かがゆっくり捩じれていく。
そして「運命」ということばが出てくる。「死んでからも、人間に運命があるとしてだが」という「仮定」がねじれを「論理的」にする。「仮定」によって捩じる。「仮定」は「運命に翻弄されていた」という「断定(結論)」として言いなおされる。「運命に翻弄される」というのは常套句というか、「流通言語」なのだが、その「流通言語」が「空想」を「現実」に引き戻す。ひとは(読者は、私は)、何かしら「運命に翻弄された」ことを思い出す。どうしようもないものにまきこまれて、違う「人生」を生きてしまった、というようなことを思い出す。つまり、「わかる」。わかってしまう。
全然知らない「筆屋の男」のことなのに、なぜか、そういうことはあるなあ、と納得する。
ここからまた、何か見聞きしたことのある「現実」が動き出す。
「従って」「結局」と、ここでも「論理」がことばを統一している。その「論理」のなかで、独特なのは「死んだ男が死んだ男になるためにしたこと」という不思議な繰り返しである。
この部分は意味的には「不要」である。「彼がしたことは、自らの店で、首を吊って、自らの生涯を閉じることだったのである。」で十分である。この十分な部分に「自らの」を初めとする「繰り返し」がある。「彼がしたことは、自らの店で、首を吊ることだった。」わかるし、「自らの」というよりも「自分の」と言った方が自然かもしれない。「自らの店で」の「自ら」は「自ら首を吊って」、生涯を「自ら閉じる」という具合に「動詞」につないでつかう方が自然だろう。不自然な形で「自ら」をつかうことで、「自ら」を強調している。
だから、最初に意味的には「不要」と書いたのだが、実は、この「不要」こそが必要なことであるというべきなのである。
言いなおすと、ここでは男が首を吊って死んだという「事実(意味/ストーリー)」ではなく、「死」という「結論(論理的結論)」に、どうかかわるかということを書きたくて書いたものだと言える。
このあと、詩はさらに「論理」として「飛躍」する。
「考えれば」ということば「論理」そのものをあらわしている。その最後の部分、「人間は、一度しか生きられない。本当に、それは一度限りである。」に激しい「重複」がある。「本当に、それは一度限りである。」は、ひとによっては書かないかもしれない。
けれども、粕谷は、書く。
この重複の「本当」を粕谷は探している。「本当」にたどりつくために、「論理」を動かしている。その「論理」が空想に見えても、それは「本当」につながっている。他人にとっては「空想」であっても、粕谷にとっては「本当」。これに先の「自ら」を重ねると、「本当」は「自らの本当」ということになる。「自分にとっての本当」というのが一般的な言い方だけれど、粕谷は「自らの本当」と言うだろう。「自ら選んだ本当」という意味である。
この「自ら選んだ本当」から池井昌樹の詩を読み返すと、池井の詩がなまなましくあらわれてくる。きのう紹介した「星」は幼いころに星を見ながら聞いた声のことを書いている。だれでも経験したことがあるかもしれない。その誰もが経験したことのなかにある「自ら選んだ本当(池井が選んだ本当)」のこととは何か。「なんぜんねんもむかし」が「いま」としっかり結びついているということ。池井は「なんぜんものむかし」を「いま」として「自ら選んでいる」。そして、それを詩に書いている。
池井と粕谷は「自らの本当本当」を求めるという「動詞」でしっかりと重なっている。「同人誌」の理想が「森羅」によって具体化されている。
粕谷栄市「死んだ男」は、繰り返し、言い直しによって少しずつことばが動いていく詩である。
死んだ男が、最も恐れなければならないことは、自分
が、既に死んでいることに気づかずに、日々を過ごして
いることである。
たしかに、自分は、昔から住んでいた町にいて、永年、
営んできた筆屋の店にいる。少し、変わっていることと
いえば、もう何年も、一人も筆を買いにくる客がいない
ことである。
「死んでいることに気づかずに、日々を過ごしている」は「何年も、一人も筆を買いにくる客がいない」ことによって証明(?)される。「たしかに」ということばが証明を導き出す。
筆のことだったら、自分は何でも知っている。だが筆
屋であるからには、どんな筆も売れなければ、何の足し
にもならない。どうして、この店に客が来ないのか。
証明というのは、次々に根拠を求めるものである。「どうして」ということばが次の証明を要求している。
このあとが、おもしろい。
つまり、それは、死んだ男にかかわる一切が、この世
のものでないからだが、悲しいかな、まさに、そのこと
が、彼には分かっていないのである。
それが、彼の運命だったと言うべきだろう。死んでか
らも、人間に運命があるとしてだが、結局、彼は、その
不毛の運命に翻弄されていたのである。
「つまり」は言い直しなのだが、ここに語られることは「どうして、この店に客が来ないのか」の説明にはなっていない。どこかに新しい筆屋ができたとか、ひとはもう筆をつかわなくなったとか、というのが「現実的」な説明だろうけれど、ここで語られるのは、そういうことではない。
「現実」から反転して「この世ではない」ところから状況が言いなおされる。ここに「飛躍」があるのだが、その「飛躍」を「つまり」という「論理」のことばが隠している。「論理」というのは「飛躍」してしまうと「論理」ではなく「空想(でたらめ)」になるのだが、それを「つまり」という「ことばの肉体」が引き止める。
ここで、うまく言えないが、何かがゆっくり捩じれていく。
そして「運命」ということばが出てくる。「死んでからも、人間に運命があるとしてだが」という「仮定」がねじれを「論理的」にする。「仮定」によって捩じる。「仮定」は「運命に翻弄されていた」という「断定(結論)」として言いなおされる。「運命に翻弄される」というのは常套句というか、「流通言語」なのだが、その「流通言語」が「空想」を「現実」に引き戻す。ひとは(読者は、私は)、何かしら「運命に翻弄された」ことを思い出す。どうしようもないものにまきこまれて、違う「人生」を生きてしまった、というようなことを思い出す。つまり、「わかる」。わかってしまう。
全然知らない「筆屋の男」のことなのに、なぜか、そういうことはあるなあ、と納得する。
ここからまた、何か見聞きしたことのある「現実」が動き出す。
従って、彼は、普段は、さまざまな筆に囲まれている
筆屋の男であるが、深夜になると、自分の住む町を徘徊
して、見かけ次第、女の下着を盗まずにいられない、情
けない性癖を持つ男になっていたのである。
結局、彼は人々に捕まった。最後に、彼がしたことは、
死んだ男が死んだ男になるためにしたこと、自らの店で、
首を吊って、自らの生涯を閉じることだったのである。
「従って」「結局」と、ここでも「論理」がことばを統一している。その「論理」のなかで、独特なのは「死んだ男が死んだ男になるためにしたこと」という不思議な繰り返しである。
この部分は意味的には「不要」である。「彼がしたことは、自らの店で、首を吊って、自らの生涯を閉じることだったのである。」で十分である。この十分な部分に「自らの」を初めとする「繰り返し」がある。「彼がしたことは、自らの店で、首を吊ることだった。」わかるし、「自らの」というよりも「自分の」と言った方が自然かもしれない。「自らの店で」の「自ら」は「自ら首を吊って」、生涯を「自ら閉じる」という具合に「動詞」につないでつかう方が自然だろう。不自然な形で「自ら」をつかうことで、「自ら」を強調している。
だから、最初に意味的には「不要」と書いたのだが、実は、この「不要」こそが必要なことであるというべきなのである。
言いなおすと、ここでは男が首を吊って死んだという「事実(意味/ストーリー)」ではなく、「死」という「結論(論理的結論)」に、どうかかわるかということを書きたくて書いたものだと言える。
このあと、詩はさらに「論理」として「飛躍」する。
考えれば、ばかばかしい迷妄に満ちたはなしだが、学
ぶべきことがないでもない。この世で、人間は、一度し
か生きられない。本当に、それは一度限りである。
「考えれば」ということば「論理」そのものをあらわしている。その最後の部分、「人間は、一度しか生きられない。本当に、それは一度限りである。」に激しい「重複」がある。「本当に、それは一度限りである。」は、ひとによっては書かないかもしれない。
けれども、粕谷は、書く。
この重複の「本当」を粕谷は探している。「本当」にたどりつくために、「論理」を動かしている。その「論理」が空想に見えても、それは「本当」につながっている。他人にとっては「空想」であっても、粕谷にとっては「本当」。これに先の「自ら」を重ねると、「本当」は「自らの本当」ということになる。「自分にとっての本当」というのが一般的な言い方だけれど、粕谷は「自らの本当」と言うだろう。「自ら選んだ本当」という意味である。
この「自ら選んだ本当」から池井昌樹の詩を読み返すと、池井の詩がなまなましくあらわれてくる。きのう紹介した「星」は幼いころに星を見ながら聞いた声のことを書いている。だれでも経験したことがあるかもしれない。その誰もが経験したことのなかにある「自ら選んだ本当(池井が選んだ本当)」のこととは何か。「なんぜんねんもむかし」が「いま」としっかり結びついているということ。池井は「なんぜんものむかし」を「いま」として「自ら選んでいる」。そして、それを詩に書いている。
池井と粕谷は「自らの本当本当」を求めるという「動詞」でしっかりと重なっている。「同人誌」の理想が「森羅」によって具体化されている。
続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫) | |
粕谷 栄市 | |
思潮社 |