小笠原鳥類「印刷と写真および詩について」(「現代詩手帖」2017年03月号)
小笠原鳥類「印刷と写真および詩について」の詩を、きのう読んだ松浦寿輝の詩と比較して読むとどうなるだろう。「ダダ」「シュルレアリスム」ということばが出てくるから、この作品も特集に合わせて書かれたものだと判断しての比較になるのだが……。
どこが「シュルレアリスム」と思わない? どこが「ダダ」と思わない?
私は小笠原のことも松浦のことも知らないから間違っているかもしれないが、松浦は綿と同じような年代。それに比べると小笠原は若い。この世代の「あいだ」に、科学というのはとてつもなく変化した。
文字が「ザラザラ」という印象を与える「活版印刷」はいまはもうほとんど見ることができない。たいていが写植というのか、オフセットというか、よく知らないが凸版をつかわない。だから紙に凹みも生まれない。「ザラザラ」した手触りにならない。(視覚的にも「ザラザラ」という感じはない。)
この「ザラザラ」を小笠原は「生きている」と言いなおしている。この「生きている」は「リアル(現実感)」ということだろう。「リアリズム(現実)」が、そこにある。リアリズムとは、「ザラザラ」、言い換えると「違和感」なのだ。肉体を刺戟する力なのだ。
思えば、「シュルレアリスム」が現実感をもっていたのは、たぶん「科学」が「ザラザラ」した感じのときだったのだ。小笠原がことばをつかいはじめたときには、その「ザラザラ」は「印刷」に名残をとどめているだけで、「ことば」にはもう「ザラザラ」が存在しなかったということだろう。
松浦の詩に「蒸気機関車」が出てきたが、いまの列車は「電気」で動いているし、スピードも速く、レールの継ぎ目も「ガタンガタン」といわない。石炭の煙かすが目に入って、目が「ザラザラ」するというような「肉体」の体験はなくなってしまった。電車、新幹線も古くなって、リニアカーというものまで生まれている。
「科学」はどんどん「つるつる(すべすべ)」になっている。「ザラザラ」は過去になってしまっている。マックの製品は「ボタン(突起)」をなくし、つるりとしている。「科学」は「日常」を「つるつる」にしたのである。
だから。
もし、現代の「シュルレアリスム」があるとしたら、それは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのような、「違和感」とは違うものでなければならない。もう「シュルレアリスム」が「ザラザラ」であってはいけないのだ。「ザラザラ」は「レトロリアリズム」なのである。
小笠原が書こうとしていることは、私の感想とはかけ離れているかも知れないが、小笠原の詩を読みながら私が感じたのは、そういうことだ。
「シュルレアリスム」は科学の変化(日常の科学に対する意識の変化)といっしょに終わってしまっている。「シュルレアリスム」の作品を見ても、誰も「シュル」とは思わない。「スーパーリアリズム」の方が、「日常の科学」を刺戟する。えっ、これが絵? 写真よりも精密じゃないか。写真よりも、もっと「見たいもの」をえぐりだしているじゃないか、という驚きで評価されていないだろうか。
さあ、どうかなあ。
「ザラザラ」「いにしえ」は「日常の科学」とは乖離したもののように私には感じられる。
これからどんな運動が生まれてきて、それを「●●●リアリズム(レアリスム)」と呼ぶことになるのかわからないが、小笠原よりももっと若い世代、「つるつる科学」しか知らない世代でないと、「現実」はえぐり取れない時代になっているのかもしれない。
古い古い世代の私は、そう思う。
このことは、こんなふうに言い換えることもできる。
いつの時代もひとを動かすのは「リアリズム」だけである。「シュルレアリスム」が生まれたときも、それを生み出したひとは「シュル」とは思っていないだろう。「真のレアリスム」と思っている。そうしないと人間は動けない。「シュル」ということばをつかったのは、古いリアリズムと「切断」するためである。新しいリアリズムへ踏み出すためには「切断」が必要だ。そのために「シュル」と言ったにすぎない。
ひところ流行した表層を駆け抜けるような詩は、「つるつるの科学」のリアリズムとどこかで共振しているだろう。いま流行している主語/述語の「脱臼」したような詩は、「つるつるの科学」への抵抗かもしれない。(だから、そこに登場する素材も、レトロを通り越して、とても古い。)
いつでも「温故知新」というのは大切なのだろうけれど、なぜ、いま「シュルレアリスム」なのだろうと思ってしまう。
違った視点からもう少し。
最近読んだ本では閻連科「年月日」(谷川毅訳)に「リアリティ」を感じた。「寓話」あるいは「童話」のスタイルとも言えるのだが、そこに登場する「音」の描写がすばらしい。私の聞いたことのない「音」が書かれている。その「音」に触れるたびに、私自身の「肉体」が生まれ変わる感じがするのだ。あ、耳をすませば、こういう「音」が聞こえるのだ、と実感できる。古い私をたたききり、新しい私を生まれさせてくれる。そういう「きっかけ」を私はリアリズムと呼ぶ。
小笠原鳥類「印刷と写真および詩について」の詩を、きのう読んだ松浦寿輝の詩と比較して読むとどうなるだろう。「ダダ」「シュルレアリスム」ということばが出てくるから、この作品も特集に合わせて書かれたものだと判断しての比較になるのだが……。
今の印刷はとてもはっきりしたものであるのだが、ところで
いにしえのザラザラの印刷があった。昔、
例えば、思潮社の『ブルトン詩集』
(稲田三吉、笹本孝訳、持っているのは一九九四新装版)があって
とても昔の印刷だった。文字がザラザラで
ああ、いにしえの文字の印刷はザラザラで
生きている生きていると思った。写真も多くて
どこが「シュルレアリスム」と思わない? どこが「ダダ」と思わない?
私は小笠原のことも松浦のことも知らないから間違っているかもしれないが、松浦は綿と同じような年代。それに比べると小笠原は若い。この世代の「あいだ」に、科学というのはとてつもなく変化した。
文字が「ザラザラ」という印象を与える「活版印刷」はいまはもうほとんど見ることができない。たいていが写植というのか、オフセットというか、よく知らないが凸版をつかわない。だから紙に凹みも生まれない。「ザラザラ」した手触りにならない。(視覚的にも「ザラザラ」という感じはない。)
この「ザラザラ」を小笠原は「生きている」と言いなおしている。この「生きている」は「リアル(現実感)」ということだろう。「リアリズム(現実)」が、そこにある。リアリズムとは、「ザラザラ」、言い換えると「違和感」なのだ。肉体を刺戟する力なのだ。
思えば、「シュルレアリスム」が現実感をもっていたのは、たぶん「科学」が「ザラザラ」した感じのときだったのだ。小笠原がことばをつかいはじめたときには、その「ザラザラ」は「印刷」に名残をとどめているだけで、「ことば」にはもう「ザラザラ」が存在しなかったということだろう。
松浦の詩に「蒸気機関車」が出てきたが、いまの列車は「電気」で動いているし、スピードも速く、レールの継ぎ目も「ガタンガタン」といわない。石炭の煙かすが目に入って、目が「ザラザラ」するというような「肉体」の体験はなくなってしまった。電車、新幹線も古くなって、リニアカーというものまで生まれている。
「科学」はどんどん「つるつる(すべすべ)」になっている。「ザラザラ」は過去になってしまっている。マックの製品は「ボタン(突起)」をなくし、つるりとしている。「科学」は「日常」を「つるつる」にしたのである。
だから。
もし、現代の「シュルレアリスム」があるとしたら、それは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのような、「違和感」とは違うものでなければならない。もう「シュルレアリスム」が「ザラザラ」であってはいけないのだ。「ザラザラ」は「レトロリアリズム」なのである。
小笠原が書こうとしていることは、私の感想とはかけ離れているかも知れないが、小笠原の詩を読みながら私が感じたのは、そういうことだ。
「シュルレアリスム」は科学の変化(日常の科学に対する意識の変化)といっしょに終わってしまっている。「シュルレアリスム」の作品を見ても、誰も「シュル」とは思わない。「スーパーリアリズム」の方が、「日常の科学」を刺戟する。えっ、これが絵? 写真よりも精密じゃないか。写真よりも、もっと「見たいもの」をえぐりだしているじゃないか、という驚きで評価されていないだろうか。
新しい印刷であっても、ザラザラな印刷のような
いにしえの鳥のような、森の奥に住む言語を書くことが
必要だ必要だ、印刷のコンピュータの新しさと
戦わなければならないだろう。
さあ、どうかなあ。
「ザラザラ」「いにしえ」は「日常の科学」とは乖離したもののように私には感じられる。
これからどんな運動が生まれてきて、それを「●●●リアリズム(レアリスム)」と呼ぶことになるのかわからないが、小笠原よりももっと若い世代、「つるつる科学」しか知らない世代でないと、「現実」はえぐり取れない時代になっているのかもしれない。
古い古い世代の私は、そう思う。
このことは、こんなふうに言い換えることもできる。
いつの時代もひとを動かすのは「リアリズム」だけである。「シュルレアリスム」が生まれたときも、それを生み出したひとは「シュル」とは思っていないだろう。「真のレアリスム」と思っている。そうしないと人間は動けない。「シュル」ということばをつかったのは、古いリアリズムと「切断」するためである。新しいリアリズムへ踏み出すためには「切断」が必要だ。そのために「シュル」と言ったにすぎない。
ひところ流行した表層を駆け抜けるような詩は、「つるつるの科学」のリアリズムとどこかで共振しているだろう。いま流行している主語/述語の「脱臼」したような詩は、「つるつるの科学」への抵抗かもしれない。(だから、そこに登場する素材も、レトロを通り越して、とても古い。)
いつでも「温故知新」というのは大切なのだろうけれど、なぜ、いま「シュルレアリスム」なのだろうと思ってしまう。
違った視点からもう少し。
最近読んだ本では閻連科「年月日」(谷川毅訳)に「リアリティ」を感じた。「寓話」あるいは「童話」のスタイルとも言えるのだが、そこに登場する「音」の描写がすばらしい。私の聞いたことのない「音」が書かれている。その「音」に触れるたびに、私自身の「肉体」が生まれ変わる感じがするのだ。あ、耳をすませば、こういう「音」が聞こえるのだ、と実感できる。古い私をたたききり、新しい私を生まれさせてくれる。そういう「きっかけ」を私はリアリズムと呼ぶ。
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