白井知子「春のくるぶし」(「幻竜」2017年03月20日発行)
白井知子「春のくるぶし」は旅の報告。「名まえは忘れてしまった 遥かな村」の一軒の家に招き入れられ、いっしょに食事をする。
--サラダをまわしてちょうだい
まだ咳はやまない
あれこれ重病の巣になってしまったらしい
--ぼくがとってあげますよ
青年がサラダを小皿にのせる
彼の首すじといったら
そこだけ初夏
春なのに、光があたって、そこだけ「初夏」に見える。「いま」と「これから」が同居している。老女と青年も同居している。
故郷での最もうるわしい儀式
血脈の微熱のこもった皿の並ぶ食卓を みんなで囲むこと
わたしは この食堂の匂いに 専有されていた
いつのことだったかしら
赤カブのスープ じゃがいものパンケーキ
茹でた黒豆 ライ麦パン
エニシダがそえられた魚の燻製
乾いたスモモ
この同居を、白井は「儀式」と呼んでいる。「儀式」だから「いつのこと」かは特定しなくていい。「遥かな村」と同じように、思い出すとき、「いま」「ここ」としてあらわれてくる。そういう「同居」のあり方。
「みんな」とは人のことでもあるが、料理そのものをも指している。
食べるひとと、食べられるものが「同居」する。
これが後半で、こう言いなおされる。
そうなのだわ
<あちらの世><ここの世><かなたの世>の境界の在りかは
私を潜って
尽きることのない空
<あちらの世><ここの世><かなたの世>も同居するのである。この「同居」を、白井はもっと簡単な(?)、なじみのあることばでつかみ取っている。
地続きのアルメニアとトルコの間のブドウ畑が
限りなく殖えていくような土地
畑にはいった人たちが
一緒になって 朗らかに
ブドウを摘みとっている朝みたいなもの
「一緒になって」。この「一緒になる」は単に「ひと」を指しているのではない。「土地(畑)」も「ブドウ」も「一緒になる」。
不思議なことなのだが。
「朝みたいなもの」は、最初に引用した「そこだけ初夏」という感じに似ている。「そこだけ朝」と言いたくなるようなあざやかな印象で迫ってくる。「そこだけ」という「限定」が限定を超えて「永遠」になる感じ。
「そこだけ初夏」ということばで感じたのも、この「限定」を突き破って「永遠」になる力であると、ここまで読んで、あらためて思う。
*
山本楡美子「途上にて」にも白井の作品と通じるものを感じた。「イエロー/シアン/マゼンダ/ブラック」とインクの色から書き出されて、
ロンバルディア州マゼンダで生まれた
百六十歳くらい
イタリア統一の戦地
小さな町なのだろう
私の地図には載っていない
けれども
サマンサ マゼンダ
こんな名前のひとがいるような気がして-
けさ モミジが燃え
赤いパラフィン紙のように陽に映えた
色が土地の名前に、さらにひとのなまえにかわり、モミジといったいになる。「ひとつ」になる。「ひとつ」だけれど、それぞれ別の存在。その「同居」。「いっしょに」いてその「いっしょ」が世界を新しくする。