米田憲三「長崎さるく」(「原型富山」173 、2017年03月12日発行)
米田憲三の短歌は現実を描いてもどこか虚構性というか、演劇性があって、そこに私は「青春」を感じるのだが。
「長崎さるく」は、旅そのものが一種の非日常なので、虚構・演劇性が薄れる。そこにもうひとりの米田がいる。
さっと読んでしまう歌だが、その「さっと読める」リズムが気持ちがいい。「聞き慣れぬ」から「訊ぬれば」までが、とくに自然だ。また「語意」の濁音の強さが「訊ぬれば」の「ば」の濁音と呼応して自然に「ひと呼吸」できるところが、下の七七を呼び出すようでおもしろい。「対話」がそのまま「呼吸」として残っている。
「真贋」と「物語」が向き合う。「物語」には「真」と「贋」が同居している。米田の「青春」はこの同居を好む。
こんな具合に。
そこに龍馬がいるわけではない。だから、その声を聞くというのは嘘(贋)。しかし、それを思うということは「真」。想像力の「真」が、そのあとの「劇」(物語)を動かしていく。
このとき浮かび上がる「青春」が、私は好き。
この歌は、「聞き慣れぬ」と同じような自然なリズムをもっているが、倒置法の形に演劇性が残る。語順のうねりの持続。息の長さ。若い息である。
短歌は一気に読みくだすということと関係があるのかもしれないが、このうねる息があると、肉体そのものが刺戟されるから楽しい。
「短歌年鑑」(角川)自選作品集のなかでは、
が印象に残る。釣りをする少年を見かけた、という「描写」なのだが、単に目で見ているのではなく、米田が「少年」になって「物語」をしている。「テスト終えし」という状況説明は演劇性が強いが、「怯まず弛まずに伸ぶ」には少年の肉体がある。肉体がそのまま精神になっている。そこに「青春」がある。
「少年の耳いちずに火照る」も客観描写ではなく、少年の肉体になっての「実感」である。
米田憲三の短歌は現実を描いてもどこか虚構性というか、演劇性があって、そこに私は「青春」を感じるのだが。
「長崎さるく」は、旅そのものが一種の非日常なので、虚構・演劇性が薄れる。そこにもうひとりの米田がいる。
聞き慣れぬ「さるく」の語意を訊ぬれば気儘な散歩かと老師は応う
さっと読んでしまう歌だが、その「さっと読める」リズムが気持ちがいい。「聞き慣れぬ」から「訊ぬれば」までが、とくに自然だ。また「語意」の濁音の強さが「訊ぬれば」の「ば」の濁音と呼応して自然に「ひと呼吸」できるところが、下の七七を呼び出すようでおもしろい。「対話」がそのまま「呼吸」として残っている。
ジャガタラ文の真贋問わず読みており時が紡ぎし物語として
「真贋」と「物語」が向き合う。「物語」には「真」と「贋」が同居している。米田の「青春」はこの同居を好む。
こんな具合に。
土佐訛り強き龍馬が叫ぶ声木霊して西海へ消えゆきたり
そこに龍馬がいるわけではない。だから、その声を聞くというのは嘘(贋)。しかし、それを思うということは「真」。想像力の「真」が、そのあとの「劇」(物語)を動かしていく。
このとき浮かび上がる「青春」が、私は好き。
白秋らが大江御堂のパアテルさん尋ね辿りし山坂これか
この歌は、「聞き慣れぬ」と同じような自然なリズムをもっているが、倒置法の形に演劇性が残る。語順のうねりの持続。息の長さ。若い息である。
短歌は一気に読みくだすということと関係があるのかもしれないが、このうねる息があると、肉体そのものが刺戟されるから楽しい。
「短歌年鑑」(角川)自選作品集のなかでは、
テスト終えし少年ひとり投げつづく釣り糸怯まず弛まずに伸ぶ
反転して抗う獲物を押さえ込む少年の耳いちずに火照る
が印象に残る。釣りをする少年を見かけた、という「描写」なのだが、単に目で見ているのではなく、米田が「少年」になって「物語」をしている。「テスト終えし」という状況説明は演劇性が強いが、「怯まず弛まずに伸ぶ」には少年の肉体がある。肉体がそのまま精神になっている。そこに「青春」がある。
「少年の耳いちずに火照る」も客観描写ではなく、少年の肉体になっての「実感」である。
ロシナンテの耳―米田憲三歌集 (原型叢書) | |
米田 憲三 | |
角川書店 |