詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白島真『死水晶』

2017-03-18 10:33:38 | 詩集
白島真『死水晶』(七月堂、2017年03月07日発行)

 白島真『死水晶』には1970年代に書かれた作品から最近書かれた作品までが収録されている。2016年に書かれた「雪豹」。

机の上の青白い囲みのなかに
閉じ込められた雪豹をみる
書きかけた詩篇のなかで
原野に放たれ
都市の肉を引き裂くおまえを見たかった

 「書きかけた詩篇のなかで」という一行が白島を特徴づけている。「詩篇」は「ことば」と言い換えることができる。実際の雪豹ではなくて「ことば」の雪豹。そう指摘するだけでは不十分かもしれない。重要なのは末尾の「なかで」の「なか」である。「ことば」のなかで完結する世界、というのが白島の詩の特徴である。
 「ことば」でみる世界、「ことば」がつくりだす構築物。
 「剽窃」のなかに、こんな一行がある。

猫を抱きしめる主体は私だが、猫は私に抱きしめられたとは思っていない。

 「私」と「猫」が円環をつくる。円環をつくることで「世界」を円環のなかに限定する。「ことばの世界」は、このとき「暗喩」になる。「暗喩」であることによって現実と拮抗する。
 これは「わたし」と「もうひとつのわたし」の関係である。どちらが「現実」で、どちらが「暗喩」か。これは問いかけてもあまり意味がない。その関係自体が「円環」なのだから。「世界」をそういう風に見る、というのが白島の存在のあり方なのだから。
 「死水晶」は、そういう「わたし」のあり方を描いている。

遠くで
わたしを手招くものがある
そのとき 窓ガラスの向こうで
ひとりの死者は ゆっくりと起き上がる

無関心をよそおう横顔の
青褪めたなつかしさ
風が鳴っている
廃屋にひび割れた鏡がとり残されている

影のように覗き込む者がいる
死水晶のきらめき に憑りつかれた
もうひとつのわたしのかげ

わたしが捨てた影のため
涙はその落ちる位置をしらない
盃はいつも 毒のように呑みほされている

 一連目の「死者」は「使者」でもある。「わたし」と「もうひとつのわたし」という関係そのものが「使者」。どちらかが「使者」なのではなく「円環運動」が「使者」なのである。
 「窓ガラス」と「ひび割れた鏡」は、「わたし」と「もうひとつのわたし」と同じように互いの「暗喩」であり、(「発寒通信「界川遊行」Ⅱ」には「ガラスの鋭い破片があれば/鏡はいらない」という行がある)、「使者」であり、その運動は「死水晶」へと結晶していく。
 「円環運動」による「完結」は、「入浴」では、こんな形で書かれる。

眼の重量が定まらない
つま先から風呂に入る
昼間の俺の影たちが
無数の死者と混浴している
俺が欲しもしないときに

浴槽からながめると
入口が出口になる

 「入口」「出口」は「固定化」できない。瞬間的にかわる。どちらでもある。どちらでもあらなければならない。
 しかし、こんなふうに「円環運動」の「なか」で、「世界」と交錯することはできるだろうか。どう交錯するつもりだろうか。むずかしい問題なのだが……。
  「長編詩 肉体の創世記」はランボーの「酔どれ舟」のような作品だが、そのなかにこんな行がある。

五日目に
生まれたばかりの鳥が
意味の彼方へと
羽搏いていった
その地平が僕の心象風景 <死>である
と気づいたとき
近しい死への
ふかい距離を垣間見た
ぼくという主語は消され
仮構の小舟は廃船と化した

鳥の飛跡をさらに追うため
ことばで新たな舟をつくった

 「ことばで新たな舟をつくった」は「捏造」ということである。思えば「暗喩」も捏造かもしれない。
 「死水晶」のような短い詩のなかで完結するよりも、「捏造」で増殖していく長い詩の方が、世界と交錯する可能性を増やすかもしれない。あるいは逆により完結の密度を増すことになるかもしれない。どうなるかわからないが、「捏造」の「持続」の方が、おもしろいような気がする。「持続」が70年代の「抒情」を「叙事」に変えるかもしれない。




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