詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也「祝福」

2017-03-07 10:36:44 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「祝福」(「森羅」3、2017年03月09日発行)

 高貝弘也「祝福」は、行間、字下げが複雑にできている。行間、字下げにも「意味」や「感覚」があるのだろうけれど、私にはつかみきれない。(引用したことばが、ネットにアップしたとき正確に反映するかどうかわからない。原文は「森羅」を参照してください。)

あなたへ返す、初心


悲願の血と 光と



   あなたの 悲しいほどの、
   うらなさよ



夕暮れ
さみしい日の、影送り

 これは、前半。「ことば」が散らばっていて、どう把握すればいいのかよくわからない。特に「うらなさ」につまずいてしまう。私は「うらなさ」ということばをつかったことがない。何をあらわしているのだろう。
 辞書を引けばいいのかもしれないが、私は目が悪いので辞書は引かないことにしている。間違っていたら間違っていたでかまわない。自分が覚えていること(思い出せること)を中心にして、ことばを動かしてみる。動かしながら「うらなさ」のなかにあるものを探してみる。
 「うらなさ」のまわりにあることばのひとつに「あなた」がある。書き出しにも「あなた」が出てきている。その「あなた」を「共通項」にしているということを頼りに考える。一行目には「初心」ということばもある。この「初心」と「うらなさ」は通じるのだと思う。
 また三連目の「あなた」のまわりには「悲しい」ということばがある。四連目に「さみしい」ということばがある。「悲しい」と「さみしい」はどこかで通じている。そして、その四連目には「日」「影」ということばがあり、それは二連目の「光」と通い合っているようにも思える。
 「光(日)」「影」「夕暮れ」「さみしい」「悲しい」と「初心」は、何か共通するものがあるだろうか。ぼんやりとことばのなかを往復していると「純粋」とか「澄んだ」ということばが浮かんでくる。「透明」ということばも。
 で、突然。
 あ、「うらなさ」とは「裏がない」ということなのか、と思う。「裏がない」とは「単一」。純粋を指し示すだろう。「初心」は純粋なものだ。純粋なものは傷つくことが目に見えている。だから「悲しい」という感情をどこかで刺戟する。「さみしい」ということにも通じる。
 透明だから、その奥に流れている「血」も見える。「願い」も見える。「悲しい」ほど切実な「願い」。それは同時にひとを導く「光」でもある。

 さて。
 では、それを「あなたへ返す、」とはどういうことだろう。
 「あなた」の「初心」を「私(書かれていないが)」は知っている。「あなた」を見ていて「あなたの初心」を思い出すというこが「返す」ということかもしれない。「あなたの初心」を知った、あの瞬間に、私が引き「返す」ということかもしれない。
 「返す」は他動詞だが、自動詞の「返る」と通い合うものがあるはず。「帰る」にも「変える」「変わる」にも通じるだろう。「あなたの初心」を「あなた」に「返す」。「あなたの初心」が私を「あの瞬間」に返す。私は「あの瞬間」に「返る/帰る」。そして、私も「変わる」。いや、私が「変わる」。
 「あなたのうらなさ」は「私のうらなさ」を思い出させる。だから「悲しい」「さみしい」。純粋な「光(朝の光)」がやがて「夕暮れ」になり、「影」を持つ。「悲しい」「さみしい」。
 「返す」「返る」「帰る」「変える」「変わる」。動詞の変化のなかに「時間」がある。それを「うらなさ」が、ぐいっとつかんでいる。「裏がない」では散文的すぎて、この凝縮感というか、いろいろなものを一気に感じさせる「強さ」がない。「うらなさ」という、ちょっと「わかりにくい」感じが、いろいろなものがぎっしりつまりこんでいて「わかりにくい」という感じとぴったりあうなあ。「わかりにくい」のだけど「わかりにくい」ということが「わかる」。つまり、何かを「わかりかけている」感じが刺戟的。こういうことを、ただ思ったままに書いていくことが私は好きだ。

 「影」は一方で「光」そのものでもある。「月影」「星影」は「月の光」「星の光」である。それはまた「純粋」を思い起こさせる。「うらなさ」(裏がない)の透明さを呼び覚ます。
 「影送り」とは「影(光)」を「送る」ということかもしれない。「送る」は「返す」に似ている。「渡す」と言いなおすと「返す」と「送る」は同じ行為になる。「うらのない影」を、純粋な(しかし、すこし悲しくさみしい)光を、「渡す」。
 だれに? 「あなたに」か。あるいは「私に」か。これは、特定できない。あるいは相対的に決定してはいけないことなのだろう。「返す」が「返る」に通じるように、「渡す」も、「あなたに渡す」ことは「私に渡す」ことに通じるのだ。
 ここから世界が動く。

枯草 首をいっせいに揺らして

やっと散りしぶいた、光の芽よ


 その光る子を、また
 ふあやすつもりで


--ついに魂がころげだしたよ
青いお玉じゃくしの縁から

 「あなた」は一輪の花かもしれない。枯草のなかから生まれてきた新しい花。光の誕生。誕生する光の「子」。「うらのない」美しさ。

木の下闇の片隅で、
        あなたは祝福されている

 そう書くとき、高貝は、その花を「祝福している」。同時に、高貝新しい花として生まれ変わり(誕生し)、詩から祝福されているとも言える。
 ことばのなかにある不思議な往復、特定することを拒絶してすばやく動く何か。そこに高貝の「本当」があるのだと思う。


高貝弘也詩集 (現代詩文庫)
高貝 弘也
思潮社
コメント
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