池井昌樹「星」(「森羅」3、2017年03月09日発行)
すでに紹介したが、「森羅」は手書きの文字をコピーして製本したもの。池井の、独特の「くねくね」した文字。何をつかって書いているのかわからないが、「筆」の文字に似ている。書き初めがしっかり意識されている。最後の「とめ」とか「はね」もしっかり意識されている。書き初めから、最後の「とめ」「はね」までゆっくりと「筆の腹」が紙の上を動いていく。その「ゆっくり」が見える文字である。
なぜ、こんなことを書くかというと。
きのう読んだ小笠原鳥類の詩のなかに、昔の本は「ザラザラ」していた、ということばがあったからである。小笠原は「ザラザラ」に「リアル」を感じ取っていた。「森羅」、池井の文字は「ザラザラ」ではないが、活字とは違った「抵抗感」がある。
謄写版だったら、この抵抗感に「ザラザラ」も加わったかもしれない。謄写版(ガリ)がもっている「ドット」というか、「鉄筆」と「板」の網によって生まれる「途切れ」が、文字のコピーでは生まれない。謄写版に比べると、すこし「のっぺり」という感じがする。きのうの続きで言えば、「新しい科学」によって文字さえも「つるつる」になっている。
でも、「抵抗感」はある。「軽み」がなく「ねっとり」した感じがある。私の知っている詩人で言えば、秋亜綺羅は池井とは対照的に「軽い」文字を書く。粘りけがない。秋亜綺羅は「抵抗感」を出すために、文字を「変形」させる。しかし、それは逆に「軽み」を強調することにもなっている。
池井の文字は「変形」させたのではない。むしろ「変形」を避けようとして、奇妙に「ねっとり」してしまう。「ていねい」が、一種の「圧力」となって、私に迫ってくる。こういう「圧力」は、私は大嫌いなのだが、この大嫌いは池井という存在をとても強く感じてしまう、という意味でもある。
感じなくてもいいのに感じてしまうのは、まあ、「好き」につながっていくことでもある。
ということは、余分なことかもしれないし、余分ではないかもしれない。わからないけれど、思ったことは何か理由があって思うのだから、わからなくても、私は書いておくことにしている。
さて。「星」である。
最後の一行は「なんぜんねんもむかしのこえ……」と読み替えたくなる。星の光を見ている詩なのだが、誰かの声を聞いている詩という気がしてくる。「星」と「声」の区別がつかない、というよりも「声」があるから「星」があり、「星」があるから「声」がある。それは切り離せない。
ここで、私は、あっ美しいとびっくりしてしまうが、「声」「姉」「母」「星」が、どれ、と特定できない。特定(断定)を超えて、つぎつぎに入れ替わり、そのすべてが「真実」になる。「姉」が「真実」でも、「母」が「真実」でもない。「断定しない」ことが「真実」である。
この「真実」は「一瞬」であり、「錯覚」のようなものなのだが、この「一瞬」を池井は「ねっとり」と定着させる。「永遠」にかえる。独特の、一種「歪んだ」とも言える文字のなかを、ゆっくりと動いていく。「ねっとり」は、池井がつかみとったものを「逃がさない」ための「方法」なのである。
「あのひかりはねえ」の「ねえ」は「ねっとり」を強くするが、またやわらかくもする。「意味」ではない何かが動いている。
この詩には「星の光」と「声」が書かれているだけだが、私は、また「闇」をも感じてしまう。深い深い闇。一切の光がない真実の闇。それは、やはり「なんぜんねんもむかしの闇」ということになる。
「いま」なのに、「なんぜんねんもむかし」が一緒にある。「永遠」がある。
この遠く隔たったものを「ひとつ」にするためには、池井の書いている「ねっとり」した「ていねいな」文字が必要なのだ。「ねっとり」と書くことで、書かれたものが「ひとつ」になるのだ。
というようなことは、「テキスト」そのものとは関係がないかもしれない。
池井の「手書きの文字」をそのまま紹介しているのではないのだから、こういう感想は無意味かもしれない。
でも、私は「無意味」なことも書いておきたい。
何かに共感したり、反発したりするとき、いろいろなものが作用している。それはそれで「真実」なのだと思う。
「ことばの意味(論理)」にだけ反応して感想が動くわけではない。
すでに紹介したが、「森羅」は手書きの文字をコピーして製本したもの。池井の、独特の「くねくね」した文字。何をつかって書いているのかわからないが、「筆」の文字に似ている。書き初めがしっかり意識されている。最後の「とめ」とか「はね」もしっかり意識されている。書き初めから、最後の「とめ」「はね」までゆっくりと「筆の腹」が紙の上を動いていく。その「ゆっくり」が見える文字である。
なぜ、こんなことを書くかというと。
きのう読んだ小笠原鳥類の詩のなかに、昔の本は「ザラザラ」していた、ということばがあったからである。小笠原は「ザラザラ」に「リアル」を感じ取っていた。「森羅」、池井の文字は「ザラザラ」ではないが、活字とは違った「抵抗感」がある。
謄写版だったら、この抵抗感に「ザラザラ」も加わったかもしれない。謄写版(ガリ)がもっている「ドット」というか、「鉄筆」と「板」の網によって生まれる「途切れ」が、文字のコピーでは生まれない。謄写版に比べると、すこし「のっぺり」という感じがする。きのうの続きで言えば、「新しい科学」によって文字さえも「つるつる」になっている。
でも、「抵抗感」はある。「軽み」がなく「ねっとり」した感じがある。私の知っている詩人で言えば、秋亜綺羅は池井とは対照的に「軽い」文字を書く。粘りけがない。秋亜綺羅は「抵抗感」を出すために、文字を「変形」させる。しかし、それは逆に「軽み」を強調することにもなっている。
池井の文字は「変形」させたのではない。むしろ「変形」を避けようとして、奇妙に「ねっとり」してしまう。「ていねい」が、一種の「圧力」となって、私に迫ってくる。こういう「圧力」は、私は大嫌いなのだが、この大嫌いは池井という存在をとても強く感じてしまう、という意味でもある。
感じなくてもいいのに感じてしまうのは、まあ、「好き」につながっていくことでもある。
ということは、余分なことかもしれないし、余分ではないかもしれない。わからないけれど、思ったことは何か理由があって思うのだから、わからなくても、私は書いておくことにしている。
さて。「星」である。
あのほしは
あのひかりはねえ
なんぜんねんもむかしのひかり
みみもとで
ささやきかける
あのこえは
だれだったのか
やはりおさないあねだったのか
ぼくをおぶったははだったのか
ほしだったのか
いまごろみみにとどくこえ
あのこえはねえ
なんぜんねんもむかしのひかり……
最後の一行は「なんぜんねんもむかしのこえ……」と読み替えたくなる。星の光を見ている詩なのだが、誰かの声を聞いている詩という気がしてくる。「星」と「声」の区別がつかない、というよりも「声」があるから「星」があり、「星」があるから「声」がある。それは切り離せない。
あのこえは
だれだったのか
やはりおさないあねだったのか
ぼくをおぶったははだったのか
ほしだったのか
ここで、私は、あっ美しいとびっくりしてしまうが、「声」「姉」「母」「星」が、どれ、と特定できない。特定(断定)を超えて、つぎつぎに入れ替わり、そのすべてが「真実」になる。「姉」が「真実」でも、「母」が「真実」でもない。「断定しない」ことが「真実」である。
この「真実」は「一瞬」であり、「錯覚」のようなものなのだが、この「一瞬」を池井は「ねっとり」と定着させる。「永遠」にかえる。独特の、一種「歪んだ」とも言える文字のなかを、ゆっくりと動いていく。「ねっとり」は、池井がつかみとったものを「逃がさない」ための「方法」なのである。
「あのひかりはねえ」の「ねえ」は「ねっとり」を強くするが、またやわらかくもする。「意味」ではない何かが動いている。
この詩には「星の光」と「声」が書かれているだけだが、私は、また「闇」をも感じてしまう。深い深い闇。一切の光がない真実の闇。それは、やはり「なんぜんねんもむかしの闇」ということになる。
「いま」なのに、「なんぜんねんもむかし」が一緒にある。「永遠」がある。
この遠く隔たったものを「ひとつ」にするためには、池井の書いている「ねっとり」した「ていねいな」文字が必要なのだ。「ねっとり」と書くことで、書かれたものが「ひとつ」になるのだ。
というようなことは、「テキスト」そのものとは関係がないかもしれない。
池井の「手書きの文字」をそのまま紹介しているのではないのだから、こういう感想は無意味かもしれない。
でも、私は「無意味」なことも書いておきたい。
何かに共感したり、反発したりするとき、いろいろなものが作用している。それはそれで「真実」なのだと思う。
「ことばの意味(論理)」にだけ反応して感想が動くわけではない。
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