詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルキノ・ビスコンティ監督「若者のすべて」(★★★★★)

2017-03-29 21:16:29 | 映画
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 アラン・ドロン

 私は、昔、アラン・ドロンが大嫌いだった。「美形の男」が嫌いだったと言った方がいいのかもしれない。
 でも。
 「山猫」「若者のすべて」とビスコンティの作品でアラン・ドロンを見直して、うーん、おもしろいなあと感心した。好きになった。
 ビスコンティは美男子をつかうのがうまい。ビスコンティは美男子を「超美男子」に育て上げる天才である。

 「若者のすべて」では、アラン・ドロンは最初は「透明な青年」としてスクリーンに登場する。クリーニング店で女性にまじって働く姿は、何といえばいいのか……まるでオードリー・ヘップバーンである。非現実的。オードリー・ヘップバーンが「少年」の透明さをもっているのに対し、アラン・ドロンは「少女」の透明さを持っている。これが、なかなか危なっかしく、はらはらさせる。映画のなかに「五男坊」の、ほんとうの少年が出てくるが、この少年と比べるとアラン・ドロンが「少女」の透明さをもっていることがよくわかる。途中に針仕事をするシーンもあって、そういうことも「少女」性に拍車をかける。
 ところが。
 「少女」が「女」に変わるように、アラン・ドロンは「少女」から「男」にかわるのだ。後半、顔つきががらりとかわる。「少女」の顔つき、「少女」の透明さが消える。いや、これは正確な表現ではないかもしれない。アラン・ドロンが抱え込む「苦悩」が、顔に出てくる。「透明」だから、苦悩を隠せない。苦悩がアラン・ドロンを「男」に変えるのである。
 とは言え……。
 「少女」の特性のもうひとつ、「繊細さ」は維持し続ける。繊細さが、苦悩を単なる苦しみ悩みではなく、悲しみに変える。生きる悲しみ。ひとを、愛し、許す悲しみ。
 アラン・ドロンの弟(四男)が「ロッコ(アラン・ドロン)はひとを許しすぎる。人間は時に許してはならないことがある」というようなことを五男坊に語るシーンがあるが、アラン・ドロンが具体化する「愛」というのは、「少女」が「女」になり、さらに「母」になったときの「愛」なのである。「母」とは、子供が何をしようが「私はおまえの味方だ」という存在だが、アラン・ドロンはこの「愛」を具現化し、そのために悲しみが底なし状態になる。
 これに「お決まり」の「美男子は血が似合う(汚れ、傷が似合う)」というシーンもあって、やっぱり「美形」の力というのはすごいと驚嘆するのだが、
 何はともあれ、
 この不思議な「変化」はアラン・ドロンの「美形」を抜きにしてはありえない。
 この不思議な「愛」ゆえに、恋人は悩んでしまう。彼女が知っている「男」とはまったく違う人間だ。そして、これが悲劇に拍車をかけるのだが。

 まあ、ストーリーは、どうでもいいか。
 クラシックなのだから、ストーリーについて書いてもしようがない。

 この映画の音楽は、ニーノ・ロータ。映画の「結論」のような、四男と五男坊の会話の部分で流れる音楽が、かわっている。深刻なことを語るシーンなのだけれど、何か明るい。弾むような響きがある。これが妙に効果的である。大事な台詞なのだけれど、それを重くさせないようにしている。
 これがあって、最後にアラン・ドロンのポスターが壁に貼られているシーンになる。その輝かしい顔を五男坊が掌で触れる。とても魅力的なシーンだ。「ロッコはぼくの兄さんなんだ」というような喜びと誇りが伝わってくる。
 そこにエンディングのふるさとを思う歌が短く流れる。
 ここは、何度も見て、とてもうれしい気持ちになる。悲劇を含んだ作品なのに、希望を感じる。
                      (KBCシネマ2、2017年03月29日)


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