詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八重洋一郎「山桜--敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

2017-03-21 10:51:40 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「山桜--敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」(「イリプスⅡ」、2017年02月10日発行)

 八重洋一郎「山桜--敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」は、「解説」はいらない。論理が完結している。「米軍は対中国戦争の詳細を念入りに吟味し/その結果は第三次世界大戦勃発 両(ふた)つ国民殆ど死滅との認識に至り」、それを避けるために「地域限定戦争」を研究している、と国際情勢を分析する。

中国対その周辺の国々 例えば
中国対韓国 中国対日本 中国対台湾
中国対フィリピン 中国対……
その作戦は言わずと知れた米軍得意のオフショアー・バランシング(沖合作戦)
ある敵への直接攻撃はせずに その敵を発見し
その勢力に武器 弾薬 謀略 資金を大量に肩入れし
敵と敵を沖合において闘わせ 自軍は戦場から遠く離れた穏やかな海岸で
いながらにして利益と安全を手に入れるという実に狡(うま)い作戦

 中東での戦争もすべてこれである。これがいま日本で行われようとしている。日本はそれに加担している。

徹底的に自発的対米従属国家サクラ咲く美しい日本国
アメリカという騎士に乗られてよく走る馬
鞭打たれれば打たれるほど勢いつけてよく走る馬 しかしその狡さは親分勝(まさ)り
己(おの)れは決して損しないその原則をたちまちコピー 日本式 沖合作戦をひねり出す
それは簡単 それこそ
与那国島 石垣島 宮古島 沖縄島 奄美島 旧琉球域
今はその名も南西諸島 日本ではあるが
日本ではない場所  ここを沖合と苦もなく即決
(こんなことろは戦争以外に使う価値ない)
(住民たちが死のうが生きようが そんなことは知ったことか) そしてそれを
うやうやしく米軍にたてまつる
七十年経ってもまるであの天皇のメッセージそっくりそのまま
(その腹中はどんなに他人を犠牲にしても自分だけは生き残る)

戦場は決まった
あの海域や島々でいかに激しい戦闘があっても この日本
美しい山桜咲く そのサクラの一片(ひとひら)も散らないよ 戦場から遠く離れた
なだらかな入江重なる沿岸地域 日本へは決して被害は及ばない
及ばないように戦場をひたすらあの島々へ局限する
局限するには狡智極まる奸計必要
まずこの狭い戦場にのみ中国をひっぱりだすには尖閣列島が最もいいカモ

 そこが日本であるにもかかわらず、政府は「日本」とみなしていない。「沖合」とみなしている。「沖合」を「戦場」にすることで、日本の軍需産業(アメリカの軍需産業)が儲かるようにしようとしている。
 いったん戦争がはじまれば、戦場は「局限」されないかもしれない、というのは「妄想」だ。戦場を「日本本土」や「中国本土」にまで拡大すれば収拾がつかなくなる。核兵器が「日本本土/中国本土」でつかわれてしまったら、勝敗も無意味になる。だから、戦争がはじまったとしても、中国も「日本本土」までは攻撃して来ない。戦場を「沖合」に限定し続けるだろう。
 こういう「見方」は、ある意味では「楽観的」と言われるかもしれない。しかし「楽観的」というよりは「現実的」であると私は思う。
 「楽観的」というのは、八重が言うように「抑止力と称して各離島離島にミサイル配備」をするということの方だろう。なぜなら、

それは実は敵攻撃を真正面からひき受けようと誘導集中するための巨大標的

 だからである。「抑止力とはまっ赤ないつわり」である。

 この「論理」は正しいと私は思う。
 で。
 「詩」は「論理」ではないのだが。
 ここから、少し「詩」の方に視点を動かしていく。この作品の、「どこに詩があるか」(詩はどこにあるか)。

いながらにして利益と安全を手に入れるという実に狡い作戦

それは実は敵攻撃を真正面からひき受けようと誘導集中するための巨大標的

 引用した部分の二行に「実」ということばが出てくる。「実に」「実は」。ここに、私は「詩」を感じた。「実に」「実は」はなくても「論理」は成立する。「意味」はかわらない。でも八重は、その「論理」「意味」を超える部分を書きたいのである。
 「実」は「実感」の「実」でもある。
 ここに書かれていることは、「論理」に見えるかもしれない。安倍政権への批判を「論理的」に展開しているように見えるかもしれない。たしかにそれは「論理」なのだが、「論理」であるまえに「実感」なのである。
 ここに目へを向けないといけない。
 中国が攻撃してくれば、八重の住んでいる「西南諸島」は「戦場」になる。「戦争」は規模が大きすぎて実態がわかりにくいが、「戦場」は具体的だ。「戦争」は国家と国家の戦いだが、「戦場」は国家の統治が効かない無法地帯。国家が「安全保障」しない場が「戦場」だ。「戦争」が全体としてどうなっているかはわからなくても、暮らしの場が「戦場」になれば、そこには「実感」しかない。「局限」しかない。「大局」などないのである。この「局限」が「実感」というものだろう。
 こんなふうに考えてみるのもいいかもしれない。
 尖閣諸島の周辺で漁をしているひとたち。この人たちにとって尖閣諸島が日本の領土であるか、中国の領土であるかよりも、安全に漁ができるかどうかの方が問題である。安全であると「実感」できるかどうか、が問題である。
 尖閣諸島を「国有化」し、そこに基地をつくるよりも、どこの国のものでもない状態にしておいたまま(領土問題は棚上げにしておいたまま)の方が中国から攻撃対象にされない分だけ、安全なのである。
 こういうあり方は、ある意味では「ずるい」生き方かもしれない。しかし、現実(ここにも実がある)とは、そういうものではないだろうか。
 中国は、尖閣諸島は中国の領土であると主張している。それは日本の主張と違う。しかし中国が実効支配しているわけでもない。それならば「宙づり」のままにしておけばいい。「宙ぶらりん」はいやだけれど、戦争するのはもっといや。「論理」の「正しさ」をつらぬくよりも、「あいまい」の平和がいい。そういう「実感」というものがあるはずだ。
 尖閣から遠いひとが、「実感」ではなく「論理」を振りかざす。「論理」は「実感」から遠いところで勝手に動くものなのだ。

 「実に」「実は」「実感」の「実」は「み」とも読む。「み」は「身」に通じる。「肉体」に通じる。「頭」ででっちあげる「論理」は暴走する。「肉体」は「頭」がでっちあげた「論理」のとおりには動けない。「肉体」がどう動けるか、「肉体」でできることは何なのか。そこに「実」がある。

ここは人間の住む島だ
家族がいる 子供がいる 老人がいる 仔犬がじゃれる 鳥が鳴く
団欒がある 生活がある 労働がある
ここはやさしい平和(うるま)の島だ

 ここに書かれていることは「論理」ではない。「実感」である。八重が「肉体」で確かめたことである。

八重洋一郎詩集 (現代詩人文庫)
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砂子屋書房
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