詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

又吉直樹「劇場」

2017-03-11 10:30:48 | その他(音楽、小説etc)
又吉直樹「劇場」(「新潮」2017年04月号)

 又吉直樹「劇場」はストーリーと描写と哲学が交錯する。「小説」の王道である。
 私は「見かけ」のストーリーには関心がない。目次に「上京して演劇を志す永田と恋人の沙希。未来が見えないまま、嘘のない心で結ばれた二人」が、「見かけのストーリー」である。「枠組み」である。
 「見かけのストーリー」とは別に、「真のストーリー」がある。「他人」が突然登場して、世界を活気づかせる瞬間がある。それが「描写」となって全体を引き締める。たとえば、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた時、その静けさはとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。(68ページ)

アパートの中は妙に冷えていたのに、外気に触れると着ているものが膨らむ感触があった。(88ページ)

 その描写の特徴は、表面的な叙述から始まり、ことばの力を借りて反転するように深まるところにある。「静かさ」が「音」として「神経を逆なでする(うるさい)」にかわる。「冷えている」ものは「小さい」あるいは「固まる」という印象がある。たとえば、氷。それが「膨らむ」にかわる。
 ここに、ことばでしかできない運動がある。そして、その運動の「奥」に又吉の「過去(時間)」というものが噴出してきている。表面から内面へと視線を動かし続けてきた意識のあり方が見える。「劇場」というタイトルに合わせて言えば、役者で言うところの「存在感」が「手触り」として浮かび上がる。

感傷を抱えて公園に立ちよっても見下ろされるような視線を感じると、そればかりが気になって、自分がなにに悩んでいるのかわからなくなることがあった。(46ページ)

 というものもある。何かを「感じる」。あるいは「気づく」。その「感じ/気づき」にとらわれて、そこに入って行ってしまう。最初に引用した部分は、

沙希が僕に気遣って話すのを止めた「のを感じた/のに気づいた」時、その静けさ「ばかりが気になって」、それははとても大きな音として僕の神経を逆なでするようになった。

 ということである。何かを感じて(気づいて)、自分がそれまでとは違う状態に「なる」。「逆なでするようになった」「わからなくなることがあった」のなかにひっそりと動いている「なる」という動詞が、ほんとうの「ストーリー」である。「着ているものが膨らむ」には「なる」という「動詞」はないが、そのあとの「感触」ということばを手がかりにすれば「膨らんだ感じになった」という形で「なる」が隠れているといえるだろう。
 「なる」というのは、ひとが変化すること。二人が出会い、二人が変わる。それは好きになる、嫌いになる、待た好きになる、けれどどうしようもなくて別れるというような変化でなく、「内部」の変化、認識の変化を意味する。こういう描写が又吉のことばの動きを支える底力である。
 もうひとつの魅力は「哲学」。「哲学」ということばは、実際に17ページに出てくるだけれど……。また、「演劇論」や「小説論」という形でも書かれているのだが、私が「哲学」と強く感じるのは、正面切った「論」ではない部分。

 頭の中で構成され熟成され審査を受けて、結局空気に触れることのない言葉と、生まれた瞬間空気に触れる言葉がある(16ページ)

 この考察を借りて言えば、「生まれた瞬間空気に触れる言葉」、言い換えると「他人」にぶつかることばの方に「論になる前の哲学」(純粋な哲学)を感じる。

「正直すぎて感情をどれかひとつに絞られへんねやと思う」(32ページ)

「主張と感情と反応が混ざって同時に出てまうねん」(33ページ)

 沙希の「人物描写」なのだが、外側からの描写ではなく、内部での変化を書こうとしている。それまでの沙希が新しい沙希に「なる」瞬間、その内部で何が起きたかを書いている。「内面」描写である。
 「描写」がそのまま「哲学」に昇華していく。

「創作ってもっと自分に近いもんちゃうんか」(85ページ)

 ということばがあるが、「自分に近い」とは「自分の内部に忠実」という意味だろう。沙希の「人物描写」が「外形」ではなく「内部の変化」としてとらえられているということは、沙希が主人公永田の「内部」になっているということでもある。沙希を自分に近づけてことばにしている。それはほとんど永田自身でもあるということになる。
 ここに「恋」が濃密に書かれている。

幾日か洗髪していない人間の頭皮の生々しい匂いや、かさぶたを剥がし血がにじんだ時の痛みを書こう。(26ページ)

この主題を僕は僕なりの温度で雑音を混ぜて取り返さなければならない。( 100ページ)

 と又吉は「小説作法(小説論)」も語っている。膨大な「演劇論」も展開されている。「小説」はそういうものをすべてのみこんで動いていく。そういう「王道」の小説を又吉は書いている。それは何か、「欠点」が全部噴出して、それが輝かしいものに変わるような力業である。そういうことを指摘するひとはきっと多いだろうと思う。それはそれでおもしろいが、一回書いたら、二度目は自己模倣になる。正面切った「哲学」というか「論」は、どうしても「ひとつ」になってしまう。その「ひとつ」からはみ出し、「ひとつ」になることを拒絶している「描写」の方に、魅力を感じる。「論」を組み込むにはもっと長さと登場人物が必要だろうと思う。「論」がぶつかりあわないと、「論」が「描写」にならない。そういう意味では「大長編小説」(1000枚以上)のものを読んでみたいという欲望をそそられる。

新潮 2017年 04月号
クリエーター情報なし
新潮社
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