詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宇部京子「とうさんの海」

2017-03-08 09:17:32 | 詩(雑誌・同人誌)
宇部京子「とうさんの海」(「毎日新聞」2017年03月07日夕刊=西部版)

 毎日新聞夕刊の「特集ワイド」に宇部京子「とうさんの海」が掲載されている。

さみしいとき
うれしいとき

まよったとき
つかれたとき

とうさんの海に
会いにいく

とうさんとおなじ 歩幅で
すなはまを あるく

とうさんとおなじ 背中で
かいがらを ひろう

とうさんとおなじ 目線で
水平線を みる

とうさんとおなじ 手つきで
はまなすを たおる

とうさんの海は わたしのふるさと
 ザッポーン ザッポーン
 ザッラーン ザッラーン

 東日本大震災の、津波の被災者である。
 同じことばが繰り返される。同じことばを繰り返したい。繰り返すことで、そこに書かれていることが「ひとつ」になる。宇部は「とうさん」になり、「海」になり、「すなはま」「かいがら」「すいへいせん」「はまなす」になる。「とうさん」になるときは、「とうさん」の「動き(動詞)」が宇部の肉体で繰り返される。肉体で繰り返すことで、「とうさん」の「歩幅」「背中」「目」「手」になる。
 どこにも嘘がない。

 そして、なによりも。

 ザッポーン ザッポーン
 ザッラーン ザッラーン

 この繰り返しがいい。「ザッポーン」は、もしかしたら、聞いたことがあるかもしれない。私にも、なんとなく「思いつく」ことができるかもしれない。しかし「ザッラーン」は思いつかない。波の音に「ラ」の音があるとは知らなかった。
 知らなかったけれど。
 聞いた瞬間、あっ、たしかに「ザッラーン」と聞こえる、と「思い出す」。
 「思い出す」というのは変な言い方だが、たしかに聞いた気がする。光があふれていて、どこまでも広がっていく海。その「広さ」を感じる。「広さ」を思い出す。
 私が直接聞いたのでなければ、私のなかの「遺伝子」が聞いた音。

 宇部と私はつながっている、と私は「誤読」する。海が好き。「さみしいとき/うれしいとき/まよったとき/つかれたとき」海を見る。みつめる海は違うけれど、「みつめる」という「動詞」のなかで「ひとつ」になる。「肉体」が解放されていく。「私」を超えて、海をみつめている「いのち」と「ひとつ」になる。
 この波の音を、私はけっして忘れないだろう。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
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千人のオフィーリア(メモ30)

2017-03-08 01:06:06 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ30)


今夜、川がオフィーリアを発見した、そのすばらしい体を。
キスをするとき舌と舌が激しくもつれて、
「もっと」。ほかのことばが無意味になったみたいに「もっと」
こころが叫んだとき熱のある肌が大きく起伏して、
遠くでフクロウが闇に嘘をついていた。
春のやわらかい葉裏になって風が手のように動いた。

今夜、川は裸になってオフィーリアを追いかけ、
今夜、川はなめらかなまま光る激流になってオフィーリアをえぐり、
「もっと」。あえぎながら初めて自分をとりもどすオフィーリアの
すばらしい体に重なる裸として月に発見された。
橋の上を猫が音を立てずに歩いている
一枚の絵がしなやかに動いてきて鏡のなかに映る今夜。

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