詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島きみ子『楽園のふたり』

2021-08-26 10:18:39 | 詩集

小島きみ子『楽園のふたり』(私家版、2021年08月10日発行)

 小島きみ子は『現代詩の広い通路へと』のなかで、こう語っていた。(32ページ)

詩の作品の中で主体が発話するというのは非自己が作品の中にあるということ。作品の中で主体が発話しているかどうかは、とても重要なことで、その作品を読んだときに、自己を超越した自己、これが感じられるというのは作品として普遍ということだと思う。


 これは、私には非常に難解ことばである。詩がある。当然発話者(詩の作者)がいる。この発話者を小島は「非自己」と読んでいる。「非自己」が発話することで「自己」を超える「超越的自己」になるということか。そういうことを「感じられる」作品は「普遍(性)」を持つということか。
 これは、わかったようでわからない。
 実は、この小島の発言は、対談をしている松尾真由美の次の発言を踏まえている。

  詩を書く意味からすると、自己は作者であり、非自己は主体だと思う。

 この発言では「書く=作者(自己)」。これは、少し「等式」を変えると「作者=書く=自己」のようにも見える。一方、「非自己」と「主体」がどんな「動詞」と結びついているかわからない。「非自己=書かない=主体」なのか。
 この私のわからない部分を、小島は「主体が発話する」という動詞を補って、松尾のことばを引き継いでいる。「主体=発話する」、「非自己=発話する=主体」。非自己(主体)が発話することで自己(書く人、作者)を超越し、普遍に到達する。
 そうだとして。
 「書く」と「発話する」という「動詞」の違いは、どう定義されるのか。
 私は、どうしても理解できない。
 これは小島が「真理が女であると考えてみてはどうだろう」に飛びついたのと同じくらい、私にはわからない。

 わからないまま、しかし、私は考えることができる。ただし、小島の考えていることがわからないのだから、私の考えることは、小島の考えていることと「無関係」かもしれない。詩集『楽園のふたり』のなかでは、「どの水音を遡ってここまで来たのか」「(声の影が、)」「黄泉の國は此の世と瓜二つなのです」の三篇がおもしろかった。「瓜二つ」ということばが象徴的だが、作品の中には「瓜二つ」と呼べるものが出てくる。それは、たとえて言えば「自己と非自己(主体)」「作者と話者(主体)」「書くと話す」のようなものかもしれない。
 こんな抽象的なことを書いていてもしようがないので……。「(声の影が、)」を引用しながら、私が考えたことを書いてみる。また抽象的になるかもしれないが。

  凍土の地で暮らす姉から、 (届いた、)
  封書の中に入っていたのは哀しみという (文字が、)
  群青の小鳥の羽と (声の影が、)
  森の奥へ (入って行く、)
  森の中の (少女が、)
  白い皮膚を曝して (眠る、)
  羊歯植物の仄暗い (茂みの中で、)
  湖面を揺する水鳥の (ざわめきと、)
  レース模様に翻る (黒い蝶の、)
  言葉と言葉が迷い (ぶつかり合う、)

 この詩にある「瓜二つ」とは、括弧にくくられていないことばと、その下の括弧にくくられていることばである。
 さて、このうちのどれが「自己」でどれが「非自己」か。あるいはどれが「作者」でどれが「話者」のことばか。さらには、どれが「作者」でどれが「話者」のことばか。わからない。わからないのは、私の「設問」の立て方に間違いがあるからだろうが、私は「間違い」を承知の上で、誤読していく。
 「凍土で暮らす姉から、」と書いた後、それだけでは不十分だと感じる何かが(届いた、)ということばを発する。それは「凍土で暮らす姉から、」を補うというよりも、言いたいのは(届いた、)ということばの方だと主張しているように見える。そうすると「凍土で暮らす姉から、」が「自己」であり(届いた、)は「非自己(話者)」になる。
 私は先に便宜上「話す」に対して「書く」を対立させたが、どちらもことばを発するということでは同じなので、「書く=話す」は最初からひとつのものであり、「書く=話す」を通して「自己」「非自己」の動きがあるということかもしれない。
 いったん「凍土の地で暮らす姉から、 (届いた、)」という一行が「非自己」として成立すると、成立した瞬間にそれは「自己」にかわり、それを次の「非自己」があらわれることでことばを動かしていく。それが「封書の中に入っていたのは哀しみという (文字が、)」である。もちろん二行目にも「自己と非自己」が存在する。「自己」を「非自己」のことばが突き破り、そうすることで出現してしまうことばをさらに「非自己」で破壊し続けるという運動がある。それは破壊であると同時に創造でもある。そういう関係になっていると思う。
 「言葉と言葉が迷い (ぶつかり合う、)」という一行が象徴的だが、ことばが続けば(ことばが増えていけば)、どのことばがどのことばなのか、所属を明確にすることは意味がない。そこにあるのは「ぶつかり合う」ことで世界が展開するという運動だけである。
 で、私は。
 小島とは違って、「自己」「非自己」の関係を、「話す=発話する=書く」、もっと言い換えると「動詞」そのものとして見ているので、ほんとうは、「動詞」を基本にしてこの詩を読むとどうなるか、ということを書きたいのだが、書き始めるとちょっとめんどうくさい。ここでは、丸括弧で書かれている部分を、(届いた、)(入って行く、)(眠る、)のように動詞だけで構成すると、もっとおもしろくなったかなあ、とだけ付け加えておく。「動詞」が「話す(=話者)」になる。それでは単調かもしれないが、丸括弧内が動詞だけの詩が私の好みである。そして、それは私の好みだから、小島とは関係ない、という反論を承知の上で、書いておく。

 

 


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オリンピックは中止すべきだった(31)

2021-08-26 08:41:36 | 考える日記

 8月26日の読売新聞。コロナ感染状況。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20210825-OYT1T50275/
↓↓↓↓
(見出し)国内で新たに2万4321人感染、大阪など10府県で過去最多…重症者は13日連続で最多更新
(記事)国内の新型コロナウイルス感染者は25日、全都道府県と空港検疫で新たに2万4321人が確認された。10府県で過去最多となった。重症者は前日から29人増えて1964人となり、13日連続で過去最多を更新した。死者は45人だった。
 東京都の新規感染者は4228人。1週間前から1158人減り、3日連続で前週の同じ曜日を下回った。直近1週間の平均新規感染者は前週から5%減の4471人。平均感染者が前週を下回ったのは6月19日以来となる。
 大阪府では、過去最多の2808人の感染が判明した。お盆明けの17日以降、前週比1・4~1・5倍で増加を続けており、軽症・中等症病床の使用率は75・2%と8割に迫っている。
↑↑↑↑
 東京は減っているように見える。しかし、木曜、金曜が週のピークのことが多いので、もう少し(最低2週間)経緯をみないと減少しているかどうかは判断できないだろう。
 東京は減っているが、感染が地方に拡大している、と言えるだろう。このことは、東京がたとえ減ったとしても、地方から東京へ出てくる人が増えれば再び拡大することを意味するだろう。菅は、緊急事態宣言を解除するための「出口戦略」を探っているが、東京だけ減少すればいいというものではない。
 私の住んでいる福岡県も、一時新規感染者が1000人を下回ったが、再び1094人と1000人を上回った。減少していたのは、雨で検査を減ったということかもしれない。(きのうは、久々に晴れた。)九州では佐賀をのぞく各県が100人を超している。交通の便がいいとは言えない宮崎でも114人。
 記事には書かれていないが、大阪のほかに、愛知1815人、沖縄809人も最多である。北海道も568人と高い数字が続いている。

 パラリンピック関係者はどうか。
↓↓↓↓
 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は25日、パラ関係者の新型コロナウイルス検査で、東京・晴海の選手村に滞在している海外選手2人を含む16人が、新たに陽性と判定されたと発表した。
↑↑↑↑
 相変わらず感染者が発生し続けている。この記事で気になるのは、いままでは「累計」を書いていたのに、今回は書いていないことである。「濃厚接触者」は、何度も書くが、
初期の段階では書くが、途中からは省く。たぶん人数が多すぎるのだろう。しかし、パラリンピックの選手には介助が必要な人がいるだろう。濃厚接触者は必然的に存在すると思う。その人たちから感染が拡大する恐れがあるし、何よりも感染した選手が介助を必要とする場合、濃厚接触者がますます増えるということにもならないか。介助する人も、厳しく注意を払わないといけなくなる。
 三重国体は中止が決定されたが、東京オリンピックも中止すべきだったのだ。パラリンピックは中止し、高校野球も中止すべきだ。

 

 

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