詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小島きみ子『現代詩の広い通路へと』

2021-08-25 10:25:57 | 詩集

小島きみ子『現代詩の広い通路へと』(私家版、2021年08月10日発行)

 小島きみ子『現代詩の広い通路へと』は「Essay 集」と書かれている。なぜ「Essay 集」なのか。「あとがき」に、こう書いてある。

 ニーチェ著・中山元訳『善悪の彼岸』(光文社古典新訳文庫)に「エッセイ:essay」という語について、解説(503P)の「新しき哲学者」の中にこのような文章がある。〈「真理が女であると考えてみては--、どうだろう?」と。〉翻訳者の中村元が続けて「ドイツ語では真理(ヴァールハイト)は女性名詞だし、フランス語でヴァリテは女性名詞。フランス革命のときは真理が女性の姿でアレゴリー的に表現されたことは有名であり、古くはグノーシス主義について、知恵(ソフィア)が女性として示されていた長い伝統がある。グノーシス主義のソフィアは下界の人間たちの真の母親なのだった。」と、いうものです。
 ここに集めた文章は「現代詩・詩集批評」の文章ですが、「真理が女であると考えてみてはどうだろう」という角度から「essay 集」としました。


 私は、この文章に違和感を覚えた。そして、この違和感は、いま書かれている多くの「評論(批評)」に対する違和感、詩に対する違和感に通じる。
 「ことば」と「真理」と「人間」というものの関係を考えるとき、人間がことばを発する。そのことばの先に真理がある、と多くの人が考えているように私には感じられる。真理をつかむために、ことばを発する。真理(現実に存在するのだけれど、明確につかみきれないもの)を明確にするためにことばがある、と言い換えることもできるかもしれない。
 でも、私は、ことばをそんな風に読むことはできない。
 人間はことばを発する。そのとき真理があるとすれば、ことばの先(向こう側、ことばを突き抜けた先=まだ見えない場所)にあるとは考えられない。ことばが出てきた「肉体」そのもののなかにある、そのことばを発したときの「肉体」の必要性(必然性)のなかにある、と思う。
 そのことを、ニーチェのことばなのか、中村元のことばなのかわからないが、「真理が女であると考えてみてはどうだろう」ということばについて言いなおすと。
 「真理が女であると考えてみてはどうだろう」と言ったのは、ニーチェだったにしろ、中村元だったにしろ、男である。これがいちばんの問題。もしボーボワールだったら、あるいはウルフだったら、そうは言わないだろう。「真理が男性であると考えてみてはどうだろう」とも言わないだろう。可能性のひとつとして「真理が自分であると考えてみてはどうだろう」と言うだろうと、何となく、思うことはできる。まず「真理は自分であると考えてみてはどうだろう」を言いなおすと、ボーボワール、ウルフの場合「真理は女性であると考えてみてはどうだろう」に言い換えることができるかもしれないが、そう言いなおした瞬間に、いや、ボーボワール、ウルフはそういうことは言わない。「真理が自分(=女性)であると考えてみてはどうだろう」とは、絶対に言わないだろう、と私は思う。
 何と言うだろうか。
 「真理が他者(自分以外のもの)であると考えてみてはどうだろう」
 そう言うのではないだろうか。
 そして、この「真理が他者(自分以外のもの)であると考えてみてはどうだろう」は、ニーチェ、中村元に当てはめると「真理が他者(=女性)であると考えてみてはどうだろう」になると思う。ニーチェ、中村元が「他者」と言わずに「女性」と言ってしまうのは、無意識に人間世界(言語世界=哲学世界)を「男のもの」と考えているからだろう。「男根主義」が強すぎて「他者」と言うべきところを「女性」と言ってしまっていると思う。
 それは時代をさかのぼって、プラトンや孔子、荘子がもし「真理」を定義したとしたらと考えてみると、もっと違った印象で見えてくると思う。プラトンや孔子、荘子が「真理が女性であると考えてみてはどうだろう」という言い方をするとは、私には想像できない。プラトンは「私は無知である」と言った。私の「誤読」ではこれは「私は真理ではない」ということである。「真理は私以外のところにある」になる。
 中村は「真理」のドイツ語、フランス語を例に引き、「女性名詞」の「女性」に注目しているが、私は、それでは「真理」の反対、たとえば「誤謬」はドイツ語、フランス語で何と言い、それは「女性名詞」なのか「男性名詞」なのか、と即座に思ってしまう。
 さらに「真理」に類似することば、「真実」とか「ほんとう」とかの「類義語」は、どうなのかなあ、と思ってしまう。女性名詞か男性名詩かよりも、「真理」の定義そのものが問題になるなあ、と思う。つまり、最初に戻ってしまうのだけれど、「真理」をどう定義したかによって、何が見えてくるかが違う。何を明確にするために、「真理」をそう定義したかが問題になってくる。
 「真理」を自分の「肉体」ではたどり着けない絶対的なものと「定義」すれば、男にとって「女性」は自分ではあり得ない。そこには自己否定がある。自己否定し、自己を超越したときに獲得できるものがあるとすれば、それは「比喩」として「女性」ということばになるかもしれない。
 なぜ「真理は女性である」ということばを選んだのか。なぜ、「女性」を「真理」の「比喩」にしたのか。それこそ、私が、ことばを読むとき(詩を読むとき)つかみ取りたいものである。
 こんなことも考える。「真理が犬であると考えてみてはどうだろう」「真理が猫であると考えてみてはどうだろう」。比喩として犬を選ぶか猫を選ぶか。それは、そのひとの、それまでの暮らし(生き方)と関係してくる。「比喩」は「比喩」が生まれてくる瞬間が大事なのだ。どうしてそのことばを選んだか、それが問題なのだ。
 
 小島は松尾真由美との対談の中で、「自己」「非自己」「主体」ということばをつかって、こんなことを語っている。(32ページ)

詩の作品の中で主体が発話するというのは非自己が作品の中にあるということ。作品の中で主体が発話しているかどうかは、とても重要なことで、その作品を読んだときに、自己を超越した自己、これが感じられるというのは作品として普遍ということだと思う。


 「主体」の定義がわからないが……。「普遍」を「真理」に類似したことばと把握して「誤読」すれば、「自己を超越した自己」が「真理(普遍)」ということだろう。そして、この「自己を超越した自己」というものを「絶対的他者」と言いなおせば、それはニーチェ、中村元にとっては「女性」という比喩として動くかもしれない。
 そこまで考えると、中島が「真理が女であると考えてみては--、どうだろう?」に託そうとした「思い」が、私にはわからなくなるのである。

 さらに。
 私は中村元の文章を読んでいないのでわからないのだが「エッセイ:essay」をどう定義しているのだろうか。私はたまたま今、ホセ・サラマーゴ(ポルトガル人)の小説「白い闇」をスペイン人に手伝ってもらいながらスペイン語版で読み始めたのだが、そのスペイン語版のタイトルは「Ensayo sobre la cegera」である。「ensayo」は「essay 」である。直訳すれば「盲目(視覚障害)に関するエッセイ(随筆)」という訳のわからないタイトルになってしまう。スペイン語の「ensayo」には随筆(エッセイ)以外の意味もある。
 日本語であっても、そのことばの「定義」は難しい。外国語なら、なおのこと難しい。「essay 」ということばは、たぶん、いろいろな意味を持っていると思う。「あとがき」がなければ、「Essay 集」というくくりに疑問を持たなかったと思うが、「あとがき」を読んだばっかりに、余分なことを考えてしまった。
 もし「真理が超男性(=超人?)であると考えてみてはどうだろう」とニーチェ、
中村元が書いていたとしたら、中島はそれでも「Essay 集」にしたかどうか、そういうことを考えてしまうのである。

 

 

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