野沢啓『言語隠喩論』(未來社、2021年07月30日発行)
野沢啓『言語隠喩論』は「未来」「走都」に連載されていた評論を一冊にしたもの。その時々、思いついたことを書いてきたが、一冊になったので、また少し思っていることを書いてみる。私は目が弱く、一気に全部を通して読むことができないので、せっかく一冊になっているのだが、少しずつ。
「序章 隠喩の発生」。その最後の方に美しいことばがある。
詩を書くことの倫理とは、自己模倣から離脱し、自己差異化による自己からの転移をそのつどどれだけ実現しうるかにかかっており、ことばが自身において未知の世界との接点をもとうとする決意性にある。
これは、たぶん、この部分だけを取り出してみてもすぐには理解できないだろうと思う。最初から読んできて、ここにいたると「美しい」と思ってしまう。だから、そこには「正しい」ことが書いてあるのだと考えるのだけれど。
野沢の書いていることのいくつかに、私は疑問を持っている。
その一。
ヴィーコというイタリアの哲学者の論を紹介している。私の「要約」は間違っているかもしれないが、私は、こう「要約」する。
雷を見て衝撃を受けた人間(巨人)が雷に驚く。天を見る。そして、天を生命を持った何かであると想像し、「ゼウス」と呼んだ。それが、ことばの始まり。
私は、この「神話」のような定義に落ち着かなくなる。この巨人が雷を最初に見たのはいつだろう。ものごごろついたあとなのだろうか。私自身の体験を振り返ると、よく思い出せないが、少なくともことばを知る前だろう。「雷」ということばを知らずに、その光や音に驚いただろうと思う。怖がる(あるいは喜ぶ。私は突然何かが起きると笑いだしてしまう)私に対して、そばにいた父か母か兄弟が「あれは雷だ」と教えてくれたと思う。つまり、自然現象に驚いて、それに名前をつけたというようなことは、どう考えても「ことばの始まり」とは思えない。
ヴィーコの書いていることは「事実」ではなく、ある何かを表現するための「神話」のよらうなものである。
「雷」ではなく「雷」を「ゼウス」と呼ぶこと、その「ゼウス」が「最初のことば」とというのであれば、それは「ことばとして最初に意識されたことば」である。つまり、「喩」である。「喩」が成り立つためには、まず「ことば」がなければならない。「ことば」が先に存在して、その後「喩」が成り立つ。つまり、「詩」が成り立つことになる。
このことと、それに先立って書いている吉本隆明の魚津での体験の関係、吉本の書いている「さわり」との関係がわからない。吉本は、初めて海にであった人間が叫びを発する。たとえば「う」。それからそれが「海」という「ことば」になっていく。その「う」という声(音)が「うみ」にかわっていくとき、そこに「意識のさわり」が込められる。それは「自己表出」であるという。「意識のさわり」と「自己表出」の関係が、私にはやはりわからないのだけれど、それよりも。
海を始めてみたとき、驚く、というのはわかるが、その驚きから「うみ」ということばが生まれてくるというのも、私には納得ができない。私が海を始めてみたのはいくつのときか。私は病弱だったので、たぶん、小学校に入って学校ごと「海水浴」に行ったときだろう。しかし、私が海を見て、その大きさに驚く前に、すでに海は存在していて、海と呼ばれていた。この関係はどれだけ時間を遡っても同じだろう。ある人が海を始めてみる。そして驚きのことばを発する。しかし、それ以前にだれかが海のそばに生きていて、それを海と呼んでいただろう。それは、海を始めて見た人の驚きをあっと言う間に修正してしまう。「ことば」には、そういう強烈な力があり、この強烈な力をはねのけて、海を見た驚きから「新しいことば」を発するというのは、私にはとても難しいことに思われる。「海」ではなく、別なことばを発するためには、かなりの訓練を必要とする。訓練なしにはできないと思う。つまり、こういう言い方が正しいかどうかわからないが「原始」の人間にはできない、と私は考える。ヴィーコに戻れば「雷」を「ゼウス」と呼ぶのは「原始の巨人」ではあり得ないと思う。ヴィーコの論理にはヴィーコの夢が託されているだけだと思う。
その二。
野沢は「ことば」ではなく「詩のことば」を問題にしている。「隠喩の発生」を問題にしている。だから私が「ことば」と単純に呼んできたものは「隠喩」と言いなおして読み直せば「論理」として成り立つのかもしれない。
しかし、そのときは「ことばの発生」と「喩の発生」を明確に区別して語る必要があるように思う。
野沢は「ことばの発生」から書き起こして、「喩の発生」へと論を展開しているのだとしても、原始詩人たちの「幼児の本性」が世界を再創造するというのは、私にはやはり理解できない。「論理」としては理解できるが、自分の体験(ことばをどうやっておぼえ、喩どうやって理解するようになったか)を振り返ると、「原初的な感覚と想像力をもって世界と対峙していく詩人」という「定義」に、私は違和感を覚える。私はむしろ、私の周辺にいる人間から聞かされ、おぼえてきたことばに、疑念を持って近づくことで世界と向き合いたいと考えている。「原始」は想像しない。創造できない。死後が創造できないように、私は私の生まれる前を想像できない。想像しない。私が生まれる前のこと(私がことばをおぼえる前のこと)は、すべて私以外の人間が語り継いできた「ことば」であって、それに向き合うには「疑う」ということ以外に、私は方法を知らない。
これは信じてもいいかな? これは納得できない。これは、よくわからないから、当分そのままにしておこう。あとで考えよう。あるいは、めんどうだから考えるのはやめて放置しておこう。エトセトラ。
さらに、ことばにはいくつもの種類がある。たとえば、「名詞」と「動詞」。「ことば」は「存在」と対応するだけではなく、「動き」とも対応する。野沢が語っているのは「海」にしろ「雷」にしろ、名詞である。「名詞」だけが「喩」になるわけではない。「動詞」も「喩」になるし、「動詞(肉体の動き)」によって「ことば」を「理解する」ということもあるのではないだろうか。
ちょっと俗な例だが、たとえば「性交する」。これを「食べる」ということばで語るときがある。「味わう」と言い換えるときもある。そういうことばの方が、吉本の言う「意識のさわり」に近くないか。「さわり」は「さわる」。「触る」「障る」どちらをあてるべきかわからないが、「女と性交した」という「ことば」を読むときと、「女を食べた」「女を味わった」という「ことば」を読むときとでは、私の場合「意識」の印象(さわり?)がずいぶんと違う。
私は「動詞」こそが「ことば」の基本だと思っているので、野沢の論理につまずいてしまうのである。吉本が「さわり」と呼んだものを「さわる」という動詞の形で動かしていくことばの運動を読みたいなあ、と思ったりする。私は吉本を一冊も読んだことがない。多くの人が引用している「部分」を通して間接的にしか吉本を知らないのだが、誰が書いている吉本を読んでみても、あ、そうなのかと思うことがなくて、結局、吉本を読んでみようという気持ちになれない。そんな人間が、「さわり」を「さわる」と読んだらどうなるのだろうと考えるのは、まあ、へんな話だけれどね。
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