詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓『言語隠喩論』

2021-08-27 10:28:23 | 詩集

野沢啓『言語隠喩論』(未來社、2021年07月30日発行)

 野沢啓『言語隠喩論』は「未来」「走都」に連載されていた評論を一冊にしたもの。その時々、思いついたことを書いてきたが、一冊になったので、また少し思っていることを書いてみる。私は目が弱く、一気に全部を通して読むことができないので、せっかく一冊になっているのだが、少しずつ。
 「序章 隠喩の発生」。その最後の方に美しいことばがある。

詩を書くことの倫理とは、自己模倣から離脱し、自己差異化による自己からの転移をそのつどどれだけ実現しうるかにかかっており、ことばが自身において未知の世界との接点をもとうとする決意性にある。


 これは、たぶん、この部分だけを取り出してみてもすぐには理解できないだろうと思う。最初から読んできて、ここにいたると「美しい」と思ってしまう。だから、そこには「正しい」ことが書いてあるのだと考えるのだけれど。
 野沢の書いていることのいくつかに、私は疑問を持っている。

 その一。
 ヴィーコというイタリアの哲学者の論を紹介している。私の「要約」は間違っているかもしれないが、私は、こう「要約」する。
 雷を見て衝撃を受けた人間(巨人)が雷に驚く。天を見る。そして、天を生命を持った何かであると想像し、「ゼウス」と呼んだ。それが、ことばの始まり。
 私は、この「神話」のような定義に落ち着かなくなる。この巨人が雷を最初に見たのはいつだろう。ものごごろついたあとなのだろうか。私自身の体験を振り返ると、よく思い出せないが、少なくともことばを知る前だろう。「雷」ということばを知らずに、その光や音に驚いただろうと思う。怖がる(あるいは喜ぶ。私は突然何かが起きると笑いだしてしまう)私に対して、そばにいた父か母か兄弟が「あれは雷だ」と教えてくれたと思う。つまり、自然現象に驚いて、それに名前をつけたというようなことは、どう考えても「ことばの始まり」とは思えない。
 ヴィーコの書いていることは「事実」ではなく、ある何かを表現するための「神話」のよらうなものである。
 「雷」ではなく「雷」を「ゼウス」と呼ぶこと、その「ゼウス」が「最初のことば」とというのであれば、それは「ことばとして最初に意識されたことば」である。つまり、「喩」である。「喩」が成り立つためには、まず「ことば」がなければならない。「ことば」が先に存在して、その後「喩」が成り立つ。つまり、「詩」が成り立つことになる。
 このことと、それに先立って書いている吉本隆明の魚津での体験の関係、吉本の書いている「さわり」との関係がわからない。吉本は、初めて海にであった人間が叫びを発する。たとえば「う」。それからそれが「海」という「ことば」になっていく。その「う」という声(音)が「うみ」にかわっていくとき、そこに「意識のさわり」が込められる。それは「自己表出」であるという。「意識のさわり」と「自己表出」の関係が、私にはやはりわからないのだけれど、それよりも。
 海を始めてみたとき、驚く、というのはわかるが、その驚きから「うみ」ということばが生まれてくるというのも、私には納得ができない。私が海を始めてみたのはいくつのときか。私は病弱だったので、たぶん、小学校に入って学校ごと「海水浴」に行ったときだろう。しかし、私が海を見て、その大きさに驚く前に、すでに海は存在していて、海と呼ばれていた。この関係はどれだけ時間を遡っても同じだろう。ある人が海を始めてみる。そして驚きのことばを発する。しかし、それ以前にだれかが海のそばに生きていて、それを海と呼んでいただろう。それは、海を始めて見た人の驚きをあっと言う間に修正してしまう。「ことば」には、そういう強烈な力があり、この強烈な力をはねのけて、海を見た驚きから「新しいことば」を発するというのは、私にはとても難しいことに思われる。「海」ではなく、別なことばを発するためには、かなりの訓練を必要とする。訓練なしにはできないと思う。つまり、こういう言い方が正しいかどうかわからないが「原始」の人間にはできない、と私は考える。ヴィーコに戻れば「雷」を「ゼウス」と呼ぶのは「原始の巨人」ではあり得ないと思う。ヴィーコの論理にはヴィーコの夢が託されているだけだと思う。

 その二。
 野沢は「ことば」ではなく「詩のことば」を問題にしている。「隠喩の発生」を問題にしている。だから私が「ことば」と単純に呼んできたものは「隠喩」と言いなおして読み直せば「論理」として成り立つのかもしれない。
 しかし、そのときは「ことばの発生」と「喩の発生」を明確に区別して語る必要があるように思う。
 野沢は「ことばの発生」から書き起こして、「喩の発生」へと論を展開しているのだとしても、原始詩人たちの「幼児の本性」が世界を再創造するというのは、私にはやはり理解できない。「論理」としては理解できるが、自分の体験(ことばをどうやっておぼえ、喩どうやって理解するようになったか)を振り返ると、「原初的な感覚と想像力をもって世界と対峙していく詩人」という「定義」に、私は違和感を覚える。私はむしろ、私の周辺にいる人間から聞かされ、おぼえてきたことばに、疑念を持って近づくことで世界と向き合いたいと考えている。「原始」は想像しない。創造できない。死後が創造できないように、私は私の生まれる前を想像できない。想像しない。私が生まれる前のこと(私がことばをおぼえる前のこと)は、すべて私以外の人間が語り継いできた「ことば」であって、それに向き合うには「疑う」ということ以外に、私は方法を知らない。
 これは信じてもいいかな? これは納得できない。これは、よくわからないから、当分そのままにしておこう。あとで考えよう。あるいは、めんどうだから考えるのはやめて放置しておこう。エトセトラ。
 さらに、ことばにはいくつもの種類がある。たとえば、「名詞」と「動詞」。「ことば」は「存在」と対応するだけではなく、「動き」とも対応する。野沢が語っているのは「海」にしろ「雷」にしろ、名詞である。「名詞」だけが「喩」になるわけではない。「動詞」も「喩」になるし、「動詞(肉体の動き)」によって「ことば」を「理解する」ということもあるのではないだろうか。
 ちょっと俗な例だが、たとえば「性交する」。これを「食べる」ということばで語るときがある。「味わう」と言い換えるときもある。そういうことばの方が、吉本の言う「意識のさわり」に近くないか。「さわり」は「さわる」。「触る」「障る」どちらをあてるべきかわからないが、「女と性交した」という「ことば」を読むときと、「女を食べた」「女を味わった」という「ことば」を読むときとでは、私の場合「意識」の印象(さわり?)がずいぶんと違う。
 私は「動詞」こそが「ことば」の基本だと思っているので、野沢の論理につまずいてしまうのである。吉本が「さわり」と呼んだものを「さわる」という動詞の形で動かしていくことばの運動を読みたいなあ、と思ったりする。私は吉本を一冊も読んだことがない。多くの人が引用している「部分」を通して間接的にしか吉本を知らないのだが、誰が書いている吉本を読んでみても、あ、そうなのかと思うことがなくて、結局、吉本を読んでみようという気持ちになれない。そんな人間が、「さわり」を「さわる」と読んだらどうなるのだろうと考えるのは、まあ、へんな話だけれどね。

 

 

 

 

 

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オリンピックは中止すべきだった(32)

2021-08-27 09:47:18 | 考える日記

 8月27日の読売新聞(西部版・14版)。コロナ感染状況。
↓↓↓↓
(記事)国内の新型コロナウイルス感染者は26日、全ての都道府県と空港検疫で新たに2万4976人が確認された。青森、群馬、愛知、岐阜、三重、京都、大阪、徳島の8府県では過去最多の新規感染者数となった。死者は52人。重症者は1974人で14日連続で過去最多を更新した。
↑↑↑↑
 きのうは2万4321人。変動の「誤差内」ということなのか、何人増えたとか減ったとかの記述は、最近は見ない。焦点を「重症者」に当てている。菅の「出口戦略」をにらんでのことである。重症者が減り始めたら、即座に「重症者○人減」という見出しで「菅政策の効果」と「よししょ」するつもりなのかもしれない。

以下はweb版。https://www.yomiuri.co.jp/national/20210826-OYT1T50278/
東京の状況が書かれている。
↓↓↓↓
 東京都の新規感染者は4704人だった。1週間前より830人減少し、4日連続で前週の同じ曜日を下回った。一方、入院患者数は過去最多の4156人となり、自宅療養者数も2万5934人に上った。死亡が判明したのは50~90歳代の男女11人で、2人は自宅療養中に容体が急変した。
↑↑↑↑
 「4日連続で前週の同じ曜日を下回った」とあるけれど、入院患者は最多。自宅療養者は増えたのか減ったのかわからない。内、自宅療養中の2人が死亡している。はっきり記憶していないが、自宅療養中の感染者の急変、死亡が都内だけで「複数(二人以上)/1日当たり」になるのは初めてではないか。
 web版の見出し。
↓↓↓↓
都内のコロナ入院患者、過去最多4156人…自宅療養中の2人死亡
↑↑↑↑
 一応見出しにはとっているが、順序は逆だろう。「自宅療養中の2人死亡」が先だろう。自宅療養は危険なのだ。自宅療養をやめて、全員が入院できる体制をととのえるべきなのだ。
 菅の「出口戦略」には「自宅療養者」の数が入っていなかったようだが、「自宅療養者ゼロ」を達成しないかぎり、コロナ対策が終わりに近づいたとは言えないだろう。いつでも急変し、死亡する恐れがある。「重症者」から除外されたまま、突然、苦しみながら死んでいくのである。
 「自宅療養中の2人死亡」ですませるのではなく、自宅療養がどんな具合だったか、急変を確認したのは誰なのか、その確認から死ぬまでの「経緯」を取材し、書き込めば、
コロナ対策の問題点が見えてくるはずである。
 発表されたことを発表されたままに書くのは「正確」ではあっても、「事実」を書いたことにはならないだろう。

 パラリンピック関係者ではどうか。
↓↓↓↓
 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は26日、パラ関係者の新型コロナウイルス検査で、選手2人を含む15人が新たに陽性と判定されたと発表した。
 同日現在、陽性判定を受けたパラ選手は計10人となった。
↑↑↑↑
 感染が止まらない。何度も書くが、パラリンピックの選手には介助を必要とする選手がいる。介助は「濃厚接触」である。濃厚接触者にも目を向けて、きちんと報道すべきである。選手が勝手にあちこち出歩いて感染したというよりも、「濃厚接触者」から感染した可能性の方が高いだろう。いつもと違う人から介助を受ける、いつもと接触するというのは、コロナ感染が拡大しているときは危険が伴う。
 選手のことを思えば、パラリンピックは中止すべきだ。東京五輪は中止すべきだった。高校野球も中止すべきだ。

 

 

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