詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オリンピックは中止すべきだった(34)

2021-08-31 12:50:50 | 考える日記

 28日から始まった東京での、若者対象の抽選ワクチン接種は、まだ続いているらしい。読売新聞(31日・西部版・14版)の「編集手帳」にこう書いてあった。
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初日はたくさんの希望者が訪れながら、先着順で300人余りの接種にとどまった。小さな規模にがっかりして帰った若者が多数におよんだ◆高齢者にはネット予約を、若者には行列を、というチグハグぶりが際立つ。2日目の28日は抽選に切り替えたものの、倍率は6倍にのぼった。電車賃を使い、暑気のなかを何時間も待たされた末の帰り道になった。外れた人はふたたび酷なくじ引きに挑戦しなければならず、渋谷会場はきょうも変わらず抽選を予定している
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 この記事(感想文?)を読みながら思ったのは、若者はなぜ怒らないのか、という疑問。黙って権力(菅や小池)の言うことを聞くだけ? 「がっかりして帰っ」て、それでおしまい? そんなに菅や小池が怖いのか。菅や小池の言うままに、おとなしく「行列」をつくり、「抽選漏れ」に我慢し続ければ、菅や小池が若者を救ってくれるのか。コロナに感染せずにすむのか。さらには、我慢したかわりにたとえば就職の世話をしてくるのか。
 この「おとなしさ」に私はびっくりしてしまう。
 この「我慢」現象をパラリンピックと結びつけると違和感をおぼえる人もいるだろうけれど、私は、どうしても結びつけてしまう。パラリンピックの「学校観戦」にしても、非常に疑問に思ってしまう。
 障碍を抱えながらスポーツをする姿はたしかに感動的だが、これが感動の押し売りだけではなく、もっと進んだらどうなるのか。
 つまり。
 戦争が起きる。負傷する。負傷者は病院で治療を受ける。しかし、傷が完治したら、後遺症として障碍があったとしても、「動けるのだから、戦場へ」と駆り出されるのではないのか。究極の「総力戦」へと突き進むのではないのか、と不安に駆られる。
 スポーツがあくまで「平和」のときの楽しみならば、コロナ感染が拡大している中でオリンピック、パラリンピックをやる必然性がどこにあるのか。
 菅はコロナ感染下でもオリンピック、パラリンピックをやり遂げることができた、というかもしれないが、それは「戦時下、障碍者も活躍できる(障碍を抱えていても戦場で戦うことができる)」にかわってしまうような気がする。菅、安倍なら、絶対にそうする。「まず、自助」という菅なら「障碍を抱えていても、自分の命は自分で守る。そして、仲間の命を守るために戦うこと(共助)が重要だ」と言うだろう。

 きのうの感染状況。
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国内で新たに1万3638人感染、累計死者1万6千人超え…重症者は最多更新
 国内の新型コロナウイルスの感染者は30日、全都道府県と空港検疫で計1万3638人が確認された。46人が死亡し、累計の死者は1万6000人を超えた。重症者は前日から5人増えて2075人となり、18日連続で過去最多を更新した。
 東京都では新たに1915人の感染がわかった。前週比532人減で、1日の感染者が2000人を下回るのは約1か月ぶりとなった(略)。都内ではこの日、30~90歳代の男女12人の死亡が判明し、うち男性2人は自宅療養中に亡くなった。
 一方、大阪府では月曜日としては最多となる1605人の感染が確認された。軽症・中等症の入院患者は2326人で、病床使用率は90%に達している。
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 「重症者」が増えている。自宅療養中に死亡したのは、また2人。この人たちは「重症」と診断され、治療を受けることもなく死んだのである。これは、私の感覚では「殺された」に等しい。菅の、小池の「未必の故意」である。

 東京オリンピックは中止すべきだった。パラリンピックは中止すべきだ。

 

 

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細田傳造「うみづきの山」、田中庸介「ひるがお」

2021-08-31 11:09:30 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「うみづきの山」、田中庸介「ひるがお」(「妃」23、2021年08月21日発行)

 細田傳造「うみづきの山」は「北韓四題」のうちの一篇。北朝鮮旅行記。「うみづきの山」がいちばん短いので、引用する。

  右手をごらんください
  女の人が仰向けになって
  ねているのが見えます

  窓から山が見える
  山が
  女の人になって
  ねているのがみえる
  おっぱいがとんがっている
  おなかが空に向かってふくらんでいる
  彼女は妊娠しています
  ガイドの男がうれしそうに告げる
  いわれなくてもわかる
  この山は
  もう一つの山を産む日が近い
  ほかにいうことはない
  おんぼろバスに
  がたびし揺られ
  開城までを行った

  四篇のなかでは、たぶん、この詩がいちばん「文学的」な要素、「詩的」な感じが少ない。一般的に言われている意味でだが。
 バスの車窓から見る山。きっと、名前のない山。でも形が変わっている。だれが最初に気づいたのかわからないけれど、臨月の女のように見える。それを暇つぶし(?)のようにして見ている。「ことば」で説明する。
  「ガイドの男がうれしそうに告げる」の「うれしそうに」がとてもいい。なぜ、うれしいのかな? 私は俗な人間だから、女が妊娠するには、男とのセックスが必要。きっとセックスのことを思っているのだと想像する。そういうとき男は「うれしそうな」顔になるものである。
 だから、

  いわれなくてもわかる

 は単に、その山が「妊娠している女に見える」(臨月の女が寝ている姿に見える)ということがわかるだけではないのだ。名もない、なんでもない山。もしかすると、他の人は「妊娠している女」以外のものを想像したかもしれない。でも、このガイドの男は、その山は「名所」ではなく、名前もないことを利用して、自分はこんな想像をしたと言ったのだ。そして、その想像は単に「見える」ものについて語るのではなく、「見える」以前のものについても語ることになる。「想像力」には「過去」がある。それが「いわれなくてもわかる」。なぜか、細田もまた「妊娠している女」から「過去」を想像するからである。
 もちろん「妊娠している山」から別のことも(未来も)想像することはできる。それが「この山は/もう一つの山を生む日が近い」だが、そんなことは、どうでもいい。言ってはみたが、それは「ほかにいうことがない」からだ。そういう想像をしているとき、男の顔(細田の顔)は「うれしそう」にはならないな、きっと。
 そう考えると「うれしそう」のひとことが、この詩でいかに重要なことばかがわかる。
 ひとはいつでも「うれしそう」になる。「うれしい」ことがある。これは、この詩の前にある「ふつうの国」についても言える。「ふつうの国」は「つまらないだろう」と思ってみるが、それでもその「ふつうの国」へ行ってみる。たしかに「ふつう」。そして、「ふつう」ということは、そこには「うれしそうな」顔をした人間がいるということだ。「世界中どこへ行っても同じですね」という一行が「ふつうの国」に書かれているが、「ふつう」「同じ」「うれしそう」重なっている。
 ほんとうにいいなあ、と思う。ことばのひとつひとつに、無駄なものが何もない。ことばが肉体の中から生まれてきた瞬間を、そのままに書き留めている。これは、今回の芥川賞を取った誰かの作品とは全く違う。タイトルも作者の名前も忘れてしまったが、あれは余分だことばだけでできていた「虚飾」のようなものだった。細田のことばは、それとは対極にある。
 で。
 全然関係ないことだが、ふと私は思い出すことがある。何年か前に、一度細田に会ったことがある。韓国であった詩人の集い。テーマごとに分かれて語り合う。私は細田と一緒のグループ。いろんな意見が飛び出す。その意見を聞きながら、これはどう考えても細田の考えていることとは相いれないなあ、細田はきっと違う意見を持っているだろうなあと思い、「細田さんは違う意見なんじゃないですか? 何も言わなくていいんですか?」と水を向けると「私はほかのひとのようには言えないから」というような返事だった。私はそのことばを「私には私の文体がある。ここで議論されているときの文体は、私の文体ではない」と言っているように聞こえた。そのときの衝撃は、非常に大きかった。そうか、細田はいつでも「細田の文体」で語るのだ。そして、その「文体」はテーマさえも決定するのである。私は目の前にあるものに対しては何に対しても反応してしまうので、細田の一種の「禁欲の文体」に驚いたのである。自分の肉体をくぐりぬけてきたことば、それだけを語る。そのことに徹した「文体」の厳しさが、いつも細田を支えている。

 「文体」ということで言えば、私は田中庸介の「文体」も好きである。「妃」は、いまでは有名詩人が大勢集う同人誌だが、最初のころは田中や高岡淳四(この詩人の「文体」も私は大好きである)ら数人の、それこそ「高貴なことば」をめざす集団だった。つまり、「高貴」になる前の輝かしさに満ちた「文体」の集団だった。のびやかさがあった。いまは、言ってしまえば「高貴」になってしまった集団というところ。だから、ちょっとおもしろくない。みんないい作品だけれど、「わくわく」感が弱くなっている。「高貴」が「当たり前」になっているところが残念。
 脱線したが、その田中の「ひるがお」。

  この宿のとなりの日本めし屋に
  うな丼を買いにいく夢で眼がさめた。

  うなぎと言ってもこのあたりのうなぎはごく小さい。
  小指の先ほどのぶつ切りが甘ったるい汁で煮込まれている。
  白い大きな皿に盛られたスチームライスに
  まとめて大きなお玉でぶっかけられる。

 田中の文体は「手順」がとてもいい。とても頭がいい人なのだと思う。「手順」が全部「肉体」になっている。そして、その「肉体感覚」が「頭」を隠すところまで行っている。これは、なかなか難しいことである。「妃」には、それこそ「頭」を前面にだし「手順」をひけらかすように書かれた詩もあるけれど、田中の詩は、そういう作品とは違う。
 「小指の先ほどのぶつ切りが甘ったるい汁で煮込まれている。」という一行なんか、食べているのか作っているのかわからないくらい。まるで、田中が作って食べている感じ。それは「白い大きな皿に盛られたスチームライスに/まとめて大きなお玉でぶっかけられる。」も同じ。「肉体」を他人と共有している。
 細田の詩の「いわれなくてもわかる」に通じるところがある。こういう「肉体でわかることば」が動いていく詩が、私は大好きである。私は「甘ったるい」味というのは苦手だが、ちょっと食べてみたくなる。それは何と言えばいいのか、どこかの食堂へ入って、誰かがおいしそうに食べている(うれしそうに食べている)を見たら、それを食べてみたいという気持ちになるのに似ている。「味」よりも「食べている人間が放つ味(おいしい感じ)」に誘われるのである。
 たしか田中には「うどん」を食べる詩があったと記憶している。あれも、うどんが食べたくなるような詩だった。

 

 

 

 

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「憲法」を持ち出すよりも

2021-08-31 08:51:19 |  自民党改憲草案再読

 8月31日の読売新聞(西部版・14版)。アフガニスタンからの邦人救出が遅れたこと(失敗したこと)に関して、3面の「スキャナー」で「解説」している。
 そのなかに、政治部・前田毅郎の「作文」が載っている。
↓↓↓↓
(見出し)自衛隊機派遣 憲法上の制約も
(記事)自衛隊法が自衛隊輸送機の海外派遣に厳しい制約を設けている背景には、自衛権の発動の場合を除いて武力行使を禁止している憲法9条がある。
 今回の派遣は、外国で災害や騒乱などの緊急事態があった場合について、邦人らの輸送を定めた自衛隊法84条の4の規定に基づく。同条項は外国人の同乗も認め、「安全に実施することができる」ことが要件として定められている。
↑↑↑↑
 「憲法」を持ち出した後、すぐに論理が破綻している。自衛隊法84条の4の規定を適用すれば、救出ができるではないか。憲法の制約などない。
 実際は、何が起きたのか。
↓↓↓↓
 タリバンが全土制圧を宣言した15日以降、首都カブールの国際空港では、離陸する米軍輸送機に国外脱出を図るアフガン人らがしがみつく姿も報じられ、大混乱に陥った。外務省は「安全な輸送」はその時点では不可能だと判断した。
↑↑↑↑
 簡単に言えば、判断が遅れたのだ。韓国は、「憲法」の問題がどうなっているか知らないが、ちゃんと救出している。日本にそれができなかったのは、単なる判断ミスだろう。 それなのに、前田毅郎は問題を「野党」に押しつけている。
↓↓↓↓
 防衛省によると、邦人輸送の準備行為として、ひとまず近隣国まで輸送機を飛ばすことは法的に可能だ。だが、自衛隊派遣には一部野党などからの反発も出かねないだけに、外務・防衛両省は慎重に検討を重ねるのが通例だ。
↑↑↑↑
 しかも、記事に書いてあるように、「自衛隊派遣には一部野党などからの反発も出かねない」という「予測」があるだけで、実際に野党が反発したわけではない。
 問題は。
 野党が反発するかどうかではなく、政府が方針を示し、それを国会で論議するかどうかなのである。政府は国会で論議しようとしていない。
 緊急事態なのだから、国会を開けばいいではないか。
 国会で「日本人を救出するために自衛隊機を派遣したい。そのためには臨時立法が必要だ。時間が差し迫っているから、緊急に議論してほしい」と言えばいいではないか。
 国会の場で、たとえば野党が「自衛隊機の派遣はだめだ」と言えば、その野党に対して国民がどう反応するか。国民に判断を任せればいい。議論をしないで、「自衛隊派遣には一部野党などからの反発も出かねない」と野党に責任を押しつける。
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 自民党内からは、「現行法では今回のような事案に対応が難しいことが明らかになった」として、関連法を見直す必要性を指摘する声も出始めている。
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 出始めている、というのんきなことを「指摘」するのではなく、国会を開いて議論しろ、となぜ書かないのか。
 国会を開けば、「自衛隊機派遣の賛否」だけではなく、菅の姿勢、救出へ向けての動きが遅かったことへの批判が必ず出る。総裁選、衆院選を気にして、今何が起きているかを見ていない。それが日本人救出に失敗した原因であると追及される。菅は(安倍もそうだったが)、自分が追及されなければそれでいいと考えている。それだけを考えている。
 そして、「自分が追及されない」という「保証」の先に「憲法改正」がある。
 憲法を改正し「独裁政権」を確立すれば、あらゆる批判(追及)は拒否できる。自民党の改憲草案(2012年)を読めばわかる。「独裁政治」を確立するための改正草案である。国民が権力を縛るという憲法の基本を逆転させ、権力が国民を縛るというのが改正草案の狙いである。
 その片棒担ぎのひとりが読売新聞の政治部・前田毅郎である。

 アフガン問題だけではなく、コロナ問題も終わっていない。国会を開いて議論しろ、と読売新聞はなぜ書かないのか。
 国会を開いて議論すれば、菅が正しいのか、野党が正しいのか、それを国民が判断する。菅が正しいのなら、衆院選で自民党は圧勝するだろう。そういう「圧勝するための機会」を菅は、自分の手で葬っている。菅を支持するのなら、菅に「国会で議論しろ。必ず国民の支持が得られる。衆院選に圧勝できる」と助言すればいい。
 議論を促す提言をせずに、「憲法上の制約」と菅の(自民党の)言い分だけを代弁するのはジャーナリストとして失格だろう。

 

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