石沢麻衣「貝に続く場所にて」(「文藝春秋」2021年9月号)
石沢麻衣「貝に続く場所にて」。第百六十五回芥川賞受賞作。
その書き出し。
人気のない駅舎の陰に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。記憶を浚って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。それでも、すぐに断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。その反復は、疼く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた。
なんだ、これは。
私は、勉強し始めた外国語の小説を辞書を引きながら読んでいる感覚に襲われた。辞書を引くと、知らなかった単語の「意味」はわかったような気がする。でも、それは単語として「意味」がわかっただけで、「文章」にならない。つまり、知っている「文脈」が浮かび上がってくるわけではない。
「水のように」ということばがある。これは、比喩である。しかも「直喩」である。とてもわかりやすい。石沢の文章は、この比喩の連鎖で作り上げられている。ただし、その連鎖(構造)には一貫したものがない。だから、わかりやすい部分さえ、全体をわかりにくくさせる働きをする。一貫している部分もあるのだが、その一貫性が持続しないといえばいいのか。これは簡単に言いなおせば「比喩」を支える「文体」が存在しないということである。その場その場で、思いついたことを並べているだけである。
具体的に言うと。
記憶を浚って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。
ここには「一貫性」がある。「浚う」というのは、井戸だとか川だとか池だとか、水といっしょにあるものを掘り出すことである。外に捨てる。そこに新しい水が満ちてくる。「記憶を浚う」は「記憶の淀み(泥)を浚う」であり、それは「水」と密接に結びついている。「浚う」ということばから「水」が導き出されてくるのには必然性がある。この必然性を私は「一貫性」と読んでいる。 「記憶の淀み(覆い被さっている何か)」を「浚う」。そこに新しい水が(新しい記憶が)よみがえってくる。そのよみがえってくるもの(新しい水)に望みを託すが、そこにははっきりした顔は像を結ばない。像を読み取ろうとしても、読み取れない。それは「水のように崩れていく」。水は泥よりも崩れやすい。素早く形を変える。だから、それにはっきりした像が浮かび上がらない。ここまでは、理解できる。
しかし、
それでも、すぐに断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。
が、とてつもなく奇妙である。言いたいことはわかる。記憶の「輪郭」のなかに(内側に)、「水のように崩れて」いったものを入れ直し、「肖像」にしようとする。断片をあつめ、全体を取り戻そうとする。「輪郭の内側」ということばは、「水の容器の内側」を思い起こさせる。「浚う」という動詞との関連でいえば、底を浚った井戸の内側に、こぼれてしまった水を戻して、そこに映る「肖像(誰かの記憶の顔)」を読み取ろうとする、ということになるだろう。
言いたいことはわかる、意味はわかる、というのは、そういうことである。しかし、私は納得はしないのだ。
「断片」ということばが「浚う」と一緒に出てきた「水」にあわない。私は「水の断片」というものを知らない。水に断片があるとすれば、滴が断片と呼べるかもしれない。しかし、水の特性の一つとして「つなぎ目がない」ということがある。一滴の滴が井戸に落ちる。落ちて水と合体してしまうと、落ちた一滴がどこにあるか、私にはわからない。だから、たとえ水に断片がある(滴がある)としても、それは決して「つぎはぎ」をつくりだすことはない。
ここでは「水」という比喩は、もう消えてしまっている。それはたとえば「鏡の破片(断片)」に変わっている。あるいは「ジグソーパズル」のいくつかの断片に変わっている。断片のいくつかが欠けているために全体像がわからない。たとえば肝心の「目」がない、という感じ。あるいは、左の目は十代の目なのに、右の目は二十代の目。揃ってはいるが、何かが違う。そういう感じ。
これが、さらに、こう言いなおされる。
その反復は、疼く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた。
「その反復」とは、断片を集めてつぎはぎの肖像を作り出すという行為の反復。「集める」ではなく「押し込む」に重心を置くと、それは「虫歯の治療」(虫歯を削り、充填物で修理する)につながらないことはない。しかし、ここでは、歯の治療というよりも、歯の存在、痛みの存在を確かめる(探る)という行為である。
もし、「その反復」を「つぎはぎの肖像を作り出す」という行為だけではなく、「浚う」という動詞にまでさかのぼってのことならば、事情は少し違ってくる。
「疼く歯を舌で探る」というのは、「虫歯」を「井戸」と見立てれば、「虫歯の部分」を「浚う」と読むことはできる。しかし、舌で虫歯を浚うとき、果してそこに「水」という比喩が入り込む余地があるか。舌で虫歯を浚うとき、浚ってくるのは泥ではなく「痛み」である。痛くないかな、痛いのはここかな、と気にしながら虫歯の奥を「浚う」。
どうも「一貫性がない」としか言いようがないのだが。
「水のように崩れていく」という非常にわかりやすい比喩が、そこでは比喩として明確に存在しているが、文章全体の中では、比喩になり得ていない。単なる「思いつき」である。「水のように」ではなく、「遠い痛みのように」ならば、何とか一貫性は保てたかもしれない。痛みの断片(痛みがどこにあるのか、その断片の位置を探る)ということを繰り返し、「痛みの全体像」としての「肖像」を「舌」で探り当てる。そういうことなら、虫歯を体験したことのある人ならあるだろう。ここは痛いが、ここは痛くない。まだ歯医者にはいかなくてもものが食べられる、という具合に。そういう「臆病な感覚」、ほんとうは直さなければならないのだけれど、まだ我慢できるかもというような「痛み」。
この小説自体は「痛みの記憶」をどう復元するか、どう共有するかというようなことをテーマにしており、冒頭で出てきた「歯」はとても変な形で途中で復活するが(そういう意味では伏線になっている、「一貫性」があるといえるのだが)、比喩の連動があまりにもでたらめなのである。
私に理解できたのは、石沢は、何かを書くとき「修飾語」に重きを置くということである。簡単に言いなおせば「比喩」を多用するということである。「比喩」の多さ、多彩さを「文学」と理解しているということである。肉体が動かず、「比喩」が勝手気まま間に散乱する。「比喩」の乱反射で、読者の目をごまかしている。何事かが書いてあるように見せかける、という手法だ。
何枚の小説か知らないが、これだけ次々に「修飾語(比喩と書いたが、比喩とはいえない)」を繰り出せるというのは「才能」かもしれないが、これはいささか「機械的」な才能である。人間の肉体というのは機械ではない。有機的である。機械にも「連携」はあるが、肉体は(人間は)、もっと連携が強い。指一本の動きが、あるときは人間全体を支える。そのとき肉体を貫くものがないと、感動が起きない。
この小説は、こけおどしの「修飾語」を削っていけば、おそらく半分以下の長さ、さらに凝縮して(動詞、比喩の連携を緊密にして)書けば、三分の一以下の長さですむだろう。
私の引用している書き出しの文章に感動したのなら、その人にはこの小説は面白いかもしれない。でも、ばかばかしいと思ったなら、きっと最後までばかばかしいとしか思えないと思う。「文藝春秋」にはもう一作、芥川賞受賞作が載っているが、私は石沢の作品に疲れてしまって、もう読む気が起きない。
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