詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石沢麻衣「貝に続く場所にて」

2021-08-22 10:39:54 | 詩(雑誌・同人誌)

石沢麻衣「貝に続く場所にて」(「文藝春秋」2021年9月号)

 石沢麻衣「貝に続く場所にて」。第百六十五回芥川賞受賞作。
 その書き出し。

 人気のない駅舎の陰に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。記憶を浚って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。それでも、すぐに断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。その反復は、疼く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた。


 なんだ、これは。
 私は、勉強し始めた外国語の小説を辞書を引きながら読んでいる感覚に襲われた。辞書を引くと、知らなかった単語の「意味」はわかったような気がする。でも、それは単語として「意味」がわかっただけで、「文章」にならない。つまり、知っている「文脈」が浮かび上がってくるわけではない。
 「水のように」ということばがある。これは、比喩である。しかも「直喩」である。とてもわかりやすい。石沢の文章は、この比喩の連鎖で作り上げられている。ただし、その連鎖(構造)には一貫したものがない。だから、わかりやすい部分さえ、全体をわかりにくくさせる働きをする。一貫している部分もあるのだが、その一貫性が持続しないといえばいいのか。これは簡単に言いなおせば「比喩」を支える「文体」が存在しないということである。その場その場で、思いついたことを並べているだけである。
 具体的に言うと。

  記憶を浚って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。

 ここには「一貫性」がある。「浚う」というのは、井戸だとか川だとか池だとか、水といっしょにあるものを掘り出すことである。外に捨てる。そこに新しい水が満ちてくる。「記憶を浚う」は「記憶の淀み(泥)を浚う」であり、それは「水」と密接に結びついている。「浚う」ということばから「水」が導き出されてくるのには必然性がある。この必然性を私は「一貫性」と読んでいる。 「記憶の淀み(覆い被さっている何か)」を「浚う」。そこに新しい水が(新しい記憶が)よみがえってくる。そのよみがえってくるもの(新しい水)に望みを託すが、そこにははっきりした顔は像を結ばない。像を読み取ろうとしても、読み取れない。それは「水のように崩れていく」。水は泥よりも崩れやすい。素早く形を変える。だから、それにはっきりした像が浮かび上がらない。ここまでは、理解できる。
 しかし、

  それでも、すぐに断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。

 が、とてつもなく奇妙である。言いたいことはわかる。記憶の「輪郭」のなかに(内側に)、「水のように崩れて」いったものを入れ直し、「肖像」にしようとする。断片をあつめ、全体を取り戻そうとする。「輪郭の内側」ということばは、「水の容器の内側」を思い起こさせる。「浚う」という動詞との関連でいえば、底を浚った井戸の内側に、こぼれてしまった水を戻して、そこに映る「肖像(誰かの記憶の顔)」を読み取ろうとする、ということになるだろう。
 言いたいことはわかる、意味はわかる、というのは、そういうことである。しかし、私は納得はしないのだ。
 「断片」ということばが「浚う」と一緒に出てきた「水」にあわない。私は「水の断片」というものを知らない。水に断片があるとすれば、滴が断片と呼べるかもしれない。しかし、水の特性の一つとして「つなぎ目がない」ということがある。一滴の滴が井戸に落ちる。落ちて水と合体してしまうと、落ちた一滴がどこにあるか、私にはわからない。だから、たとえ水に断片がある(滴がある)としても、それは決して「つぎはぎ」をつくりだすことはない。
 ここでは「水」という比喩は、もう消えてしまっている。それはたとえば「鏡の破片(断片)」に変わっている。あるいは「ジグソーパズル」のいくつかの断片に変わっている。断片のいくつかが欠けているために全体像がわからない。たとえば肝心の「目」がない、という感じ。あるいは、左の目は十代の目なのに、右の目は二十代の目。揃ってはいるが、何かが違う。そういう感じ。
 これが、さらに、こう言いなおされる。

  その反復は、疼く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた。

 「その反復」とは、断片を集めてつぎはぎの肖像を作り出すという行為の反復。「集める」ではなく「押し込む」に重心を置くと、それは「虫歯の治療」(虫歯を削り、充填物で修理する)につながらないことはない。しかし、ここでは、歯の治療というよりも、歯の存在、痛みの存在を確かめる(探る)という行為である。
 もし、「その反復」を「つぎはぎの肖像を作り出す」という行為だけではなく、「浚う」という動詞にまでさかのぼってのことならば、事情は少し違ってくる。
 「疼く歯を舌で探る」というのは、「虫歯」を「井戸」と見立てれば、「虫歯の部分」を「浚う」と読むことはできる。しかし、舌で虫歯を浚うとき、果してそこに「水」という比喩が入り込む余地があるか。舌で虫歯を浚うとき、浚ってくるのは泥ではなく「痛み」である。痛くないかな、痛いのはここかな、と気にしながら虫歯の奥を「浚う」。
 どうも「一貫性がない」としか言いようがないのだが。
 「水のように崩れていく」という非常にわかりやすい比喩が、そこでは比喩として明確に存在しているが、文章全体の中では、比喩になり得ていない。単なる「思いつき」である。「水のように」ではなく、「遠い痛みのように」ならば、何とか一貫性は保てたかもしれない。痛みの断片(痛みがどこにあるのか、その断片の位置を探る)ということを繰り返し、「痛みの全体像」としての「肖像」を「舌」で探り当てる。そういうことなら、虫歯を体験したことのある人ならあるだろう。ここは痛いが、ここは痛くない。まだ歯医者にはいかなくてもものが食べられる、という具合に。そういう「臆病な感覚」、ほんとうは直さなければならないのだけれど、まだ我慢できるかもというような「痛み」。
 この小説自体は「痛みの記憶」をどう復元するか、どう共有するかというようなことをテーマにしており、冒頭で出てきた「歯」はとても変な形で途中で復活するが(そういう意味では伏線になっている、「一貫性」があるといえるのだが)、比喩の連動があまりにもでたらめなのである。

 私に理解できたのは、石沢は、何かを書くとき「修飾語」に重きを置くということである。簡単に言いなおせば「比喩」を多用するということである。「比喩」の多さ、多彩さを「文学」と理解しているということである。肉体が動かず、「比喩」が勝手気まま間に散乱する。「比喩」の乱反射で、読者の目をごまかしている。何事かが書いてあるように見せかける、という手法だ。
 何枚の小説か知らないが、これだけ次々に「修飾語(比喩と書いたが、比喩とはいえない)」を繰り出せるというのは「才能」かもしれないが、これはいささか「機械的」な才能である。人間の肉体というのは機械ではない。有機的である。機械にも「連携」はあるが、肉体は(人間は)、もっと連携が強い。指一本の動きが、あるときは人間全体を支える。そのとき肉体を貫くものがないと、感動が起きない。
 この小説は、こけおどしの「修飾語」を削っていけば、おそらく半分以下の長さ、さらに凝縮して(動詞、比喩の連携を緊密にして)書けば、三分の一以下の長さですむだろう。
 私の引用している書き出しの文章に感動したのなら、その人にはこの小説は面白いかもしれない。でも、ばかばかしいと思ったなら、きっと最後までばかばかしいとしか思えないと思う。「文藝春秋」にはもう一作、芥川賞受賞作が載っているが、私は石沢の作品に疲れてしまって、もう読む気が起きない。

 

 

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オリンピックは中止すべきだった(29)

2021-08-22 09:12:17 | 考える日記

 8月22日の読売新聞(西部版・14版)。コロナ感染状況。
↓↓↓↓
(見出し)国内重症者1888人
(記事)国内の新型コロナウイルスの新規感染者は21日、全都道府県と空港検疫で2万5492人確認された。山形、群馬、岐阜、愛知、三重、広島、高知、大分、宮崎の9県は過去最多。全国の重症者は前日より72人多い1888人で、9日連続で最多を更新した。死者は計34人。
↑↑↑↑
 きのうも書いたが、新規感染者総数ではなく、「重症者」に焦点を絞って見出しをとるのは、菅の「コロナ感染出口対策」の先取りである。「重症者」が減った、コロナ対策が成功したという印象操作をしたいのだ。しかし、このまま「重症者」が増えたらどうなるか。たとえばの話、「重症者」が1万人を超えた場合、菅は「出口指標」として「死者」を持ち出すのではないのか。きょうの紙面の例でいえば「全国死者34人」。数字が極端に少なくなる。他の病気、がんや脳卒中で死亡した人は、きのうは何人か。あるいは交通事故で死亡した人は? 私は数字に疎いからわからないが、絶対に「34人」よりは多いと思う。そうすると、「コロナ感染死者34人」はたいした問題じゃないという「誤解」を招くだろう。
 実際、そういう「誤解」が広がっているのだと思う。
 西部版の紙面には、こういう見出しがある。
↓↓↓↓
福岡「宣言慣れ」傾向/緊急事態初の週末 前回より人出増
↑↑↑↑
 「宣言慣れ」だけではないのだ。感染者ではなく「重症者」に視点を移してしまうと、「重症」にならなければ大丈夫(死ぬことはない)という印象が強くなる。感染したって「軽症」ですむなら問題ない。外出したって(普通に行動していたって)死ぬことはない、と思ってしまう。コロナウィルスを媒介している(拡散している)ということに意識が回らなくなる。
 感染が拡大しているさなかに「出口戦略」というものを考えること自体が間違っている。感染が縮小し、そろそろ大丈夫かもしれないというときになって、それでは緊急事態宣言をいつ解除すればいいのかを決めればいい。いまある「指標」を目指すことが先決なのだ。いまある「指標」では、いつ解除できるかわからないから「指標」を変更することで解除を早めようとするのは、嘘の事実で「成果」を語ることになる。
 慎重に考えれば、いまある「指標」を達成したが、まだまだ再拡大の危険がある。「指標」を厳しく設定し直し、緊急事態宣言は延長すべきだという意見があってもいいはずだ。いままでの「解除」のタイミング、それから再拡大という繰り返しを見ていれば、どうしたって慎重に考えた方がいいだろう。
 やっていることが逆なのだ。経験から何も学んでいないのだ。
 「重症者○人」という菅のための見出しを「作っている」かぎり、コロナ感染は終息には向かわない。読売新聞は、菅の「出口作戦」を先取りするという形で、コロナ感染拡大に「貢献」しているとさえいえる。
 「宣言慣れ」しているは国民ではなく、菅とマスコミなのだ。
 web版には、全国の状況(東京の状況?)も書いてあった。
↓↓↓↓
 東京都は5074人の感染が判明し、4日連続で5000人を上回った。年代別では20歳代が1598人で最も多く、30歳代が967人、40歳代が750人、10歳代が565人。自宅療養者は2万6409人で過去最多だった。
 大阪府では、過去2番目に多い2556人の感染が確認された。
↑↑↑↑
 注目すべきは若者の感染が多いこと、自宅療養が増え続けていることだ。
 さらに、こんなニュースもある。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20210821-OYT1T50323/
↓↓↓↓
感染拡大で休園の保育施設、全国で100か所超に…10歳未満の感染は第4波の5倍
↑↑↑↑
 先に引用した記事には「10歳未満」の感染者数が書いていないが、10歳未満(園児)も感染している。数字というのは、どうしても「かぎり」がある。どの数字をみるか、そこから何を読み取るかは、とても「恣意的」である。どんなふうにも「操作」できる。そのことを踏まえてニュースを読む必要がある。
 パラリンピックに関しては、こういうニュース。
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/paralympic2020/20210821-OYT1T50105/
↓↓↓↓
 東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は21日、東京パラ関係者の新型コロナウイルス検査で、海外選手1人を含め、新たに15人が陽性と判定されたと発表した。来日後14日以内の選手で、選手は来日後14日以内で、東京・晴海の選手村には滞在していない。これまでに陽性となった選手は計2人となっている。
↑↑↑↑
 私が驚いたのは「来日後14日以内の選手で、選手は来日後14日以内で」と「14日以内」を繰り返していることである。これは何をいいたいのか。来日する前に(出国する前に)感染していたが空港検疫では「陰性」としてすり抜け、その後「陽性」になったということか。「東京・晴海の選手村には滞在していない」と付け加えることで、日本国内で感染したのではない(日本の安全安心対策は万全である)といいたいのか。
 しかし「東京・晴海の選手村には滞在していない」のだとしたら、その滞在先(つまり国内)で感染したということも考えられる。滞在施設がどんな施設なのかわからないが、当然「濃厚接触者」がいるはずだが、その数は書かれていない。またしても濃厚接触者数隠しが始まっている。
 (補足しておくと……。
 短い記事だが、ここにはいくつもの隠された情報があり、しかしそれを「隠している」ということを知らせるために非常に不自然な文章になっている。読売新聞にはかなりの頻度でこういう文章があらわれる。それが、とてもおもしろい。)

 一方で、三重県が「三重国体」の中止を申し入れたというニュースも載っている。中止は当然だろうなあ。
 東京五輪でもパラリンピックでも感染者がいなかったわけではなく、感染者が出ている。国体でも当然感染者が出るだろう。高校野球でも出ている。高校総体でも出ている。そういうことをなかったことにして、コロナ感染の実態を「重症者」に焦点をあてて報道するというのは間違っている。誤解を広げてしまう。
 何度でも書く。
 東京五輪は中止すべきだった。パラリンピックは中止すべきだ。高校野球も中止すべきだ。
 コロナが終息したとき、かならず、日本のクルーズ船対策が与えた世界への影響(厳しい対策をとらなくても感染は拡大しないという誤解を広げた)、東京オリンピック強行開催が与えた影響(国民の警戒意識を弱めさせた影響、人出抑制効果を弱めた影響)というものが検証されるだろう。そして、コロナが問題になったときから書いたことだが、十分な対策がとられなかったことに対する「未必の故意」が問われるということもあると思う。死なずに済んでいる人が、何人も死んでいる。先日の千葉の男児の死産などは、その例になるだろう。中国のように病院を建設する、韓国のように検査を徹底する、という「初期対応」の遅れがすべての間違いの出発点である。「手本」が隣国にあるのに、それを参考にしなかった。安倍、菅の責任は重い。

 

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