8月23日の読売新聞(西部版・14版)。コロナ感染状況。
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(見出し)国内重症者1891人
(記事) 国内の新型コロナウイルス感染者は22日、新たに47都道府県と空港検疫で2万2285人確認された。三重県と奈良県は過去最多だった。全国の重症者は前日より3人増の1891人で、10日連続で最多を更新。入院や療養中の人は20万人を初めて超えた。死者は24人だった。
東京都の新規感染者は4392人。1週間前から97人増え、日曜日としては過去最多となった。30歳代以下の若年層が7割近くを占めた。直近1週間の平均新規感染者は4733人で、前週(4264人)より11%増。重症者は前日から1人増の271人だった。宿泊療養者は1975人で過去最多を更新。死者は30~80歳代の男女8人で、このうち60歳代男性は自宅療養中だった。自宅療養中の死亡は8月に入り9例目。
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相変わらず「重症者」に焦点をあてて見出しをとってる。感染者総数は、きのうが2万5492人なので、3000人近く減っているのだが、そういうところに目が回らない。一度決めた方針通り「重症者」に焦点をあてて菅を応援するということか。
(以前なら「3000人減」が見出しになったかもしれない。曜日ごとに変動があるので簡単にはいえないが……。それは「東京都の新規感染者は4392人。1週間前から97人増え、日曜日としては過去最多となった」からも推測できる。「3000人減」は、あまり「統計的」には意味がないのであるが……。)
だから、まあ、読売新聞の見出しについて「弁護」すれば、「全国の重症者は前日より3人増の1891人で、10日連続で最多を更新」に目を向けたということか。感染者は減っているが「重症者」は増えている。
さて。
その「増えている」に注目するならば、「入院や療養中の人は20万人を初めて超えた」も問題だが、この記事では「療養中」の定義がわからない。どこで「療養中」? 宿泊施設? 自宅? いま大きな問題になっている「自宅療養」の実態を伝えていない。東京都では8人死亡している。そのうちの1人は「自宅療養中」と書いてある。きのうの死亡者のうち「自宅療養中」だったのは東京都の1人だけだったのか、それもわからない。「自宅療養中の死亡は8月に入り9例目」はあくまで東京都の人数である。
なぜ、「自宅療養中」(入院できずに困っている人)の数字を公表しないのか、見出しにしないのか。
これが一番の問題点だと私は思う。
医療の現場の「実態」を一番的確にあらわしているのが「自宅療養者」なのだ。医療はすでに崩壊しているのだ。
コロナ感染者が「自宅療養(自宅待機)」しているなら、他の病気の人もきっと「自宅療養(自宅待機)」を余儀なくされているはずである。政府(権力)が隠そうとしているものを暴き出し、問題点を追及するのがジャーナリズムの大きな仕事だと思うが、その仕事を放棄して、菅の「出口戦略」の応援をしている。
パラリンピックに目を向けてみる。
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東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は22日、パラ関係者の新型コロナウイルス検査で、海外選手2人を含めて新たに30人が陽性と判定されたと発表した。選手は東京・晴海の選手村には滞在していない。これまでに陽性と判定された選手は計4人となった。
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きのうは選手1人を含め16人だった。一気に2倍に増えている。パラリンピックの選手には介助・介護が必要な人がいるだろう。つまり濃厚接触者がいるだろう。何度でも書くが、濃厚接触者は、報道の初期には必ず書かれているが途中から消える。人数が多くなりすぎて、実態を報道すると問題が大きくなるからだろうか。
だが、どういうことでもそうだが、「事件」として表面化したものの「背後」の方に重要なことが隠されている。それを報道しなくて、何がジャーナリズムなのだろうか。
少し横道にそれるが、(また戻ってくるつもりだが)、横浜市長選で菅が応援する小此木が負けた。菅はオリンピックの日本選手の活躍で国民が菅支持に転換すると考えていたようだが、ここには大きな誤解がある。日本選手が金メダルをとれば、誰もが喜ぶ。しかし、その「感動」はテレビでは不十分なのである。感動というのは共有されないと感動にならない。だからこそ、ひとはテレビで見たことを会った人と話す(蜜を作り出す)ということがある。しかし、人と話すくらいの感動では、やはり「社会」を変えるところまではいかない。すぐに消える。大勢の人と同じ場所で感動を体験してこそ、感動の共有が広がっていく。「無観客」では感動は共有されない。
私はよく映画を見るが、観客が少ないと感動は薄れるのである。岩波ホールで最初に見た映画がなんであったか忘れたが、「家族の肖像」を見たときの感動は忘れることができない。全員が真剣にスクリーンを見つめている。「空気」が普通の映画館とまったく違っている。こんなに多くの人がスクリーンを見ていたら、私が見ることができる映像は残っていないのではないか、全部他人に吸い取られてしまうのではないか、と一瞬思った。ありえないことだけど、そう感じさせる「空気」が感動を大きくした。私が一番好きな映画は「家族の肖像」ではないが、感動というとき思い出すのは「家族の肖像」であり、また「暗くなるまで待って」で真っ暗な中で「キャーッ」という悲鳴が響く一瞬であり、「ベンハー」でチャールトン・ヘストンの戦車が勝った瞬間の観客の拍手だったりする。楽しさというのは共有されてこそ「長持ち」する。オリンピックの金メダルは、共有されていないから「長持ち」などしない。オリンピックから横浜市長選までの期間の短さを考えてみれば、オリンピック効果がいかに薄いものかがわかる。菅はたぶん何かに感動したということがないのだ。だから感動の持続力がどこにあるかも実感していない。感動の持続力を誤解し、オリンピックを強行開催した。その「つけ」が横浜市長選にも影響している。オリンピックの強行開催がコロナ感染を拡大させたという印象だけを残すことになったのだ。
総理大臣であり続けたいという菅の「欲望」がすべてを狂わせている。菅の個人的な「権利欲」が国民の「安心安全」を破壊している。菅という独裁者が、国民の健康に生きる権利を奪っている。
東京オリンピックは中止すべきだった。パラリンピックは中止すべきだ。高校野球も高校総体も中止すべきだ。