2023年05月11日の読売新聞(西部版・14版)が広島サミットについて書いている。
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政府は、19~21日に広島市で開く先進7か国首脳会議(G7サミット)に合わせ、インドや韓国など、招待国8か国の首脳に広島平和記念資料館を訪問してもらう方向で調整に入った。岸田首相と8か国首脳がそろって訪問する案も検討している。
複数の政府関係者が明らかにした。資料館訪問を巡っては、G7各国首脳がそろって行うことが既に固まっており、G7の枠を超え、核軍縮の重要性を国際社会に広く強調する狙いがある。
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これが実現するなら、とてもうれしい。(バイデンは、債務問題で欠席する可能性がほうどうされているが。)
この記事を読みながら思ったのは、「戦争」そのものについてである。
「戦争」は、いつのころからかはっきりしないが(私は歴史が苦手)、兵士と兵士(軍隊と軍隊)の戦いではなくなっている。かならず一般市民がまきこまれるようになっている。その最大の悲劇のひとつが、広島、長崎への原爆投下である。敵の軍隊に勝利したら戦争は終わりではなく、なんというか、「敵の国民」を殲滅しない限り、戦争はおわらないという状態になってしまっている。
そこから、ふと思うのだけれど。
最近、活発に語られる「敵基地攻撃」なのだけれど、そんなことで戦争が防げるのか。戦争は軍隊と軍隊の決着という時代は、もうとっくの昔になくなっている。敵基地を攻撃し、ミサイル攻撃を一時的にしのいだとしても、戦争はつづく。
戦争が話題になると、多くのひとが「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」。私は「一緒に逃げよう」とは言うが、いざとなったらひとりだけ逃げるかもしれない。家族のために戦う、というようなことは、言っても実行はできないなあ。
ということよりも。
「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」という質問、おかしくない? 敵の軍隊が、一般市民を殺すということを前提にした意見だと思う。つまり、戦争とは国と国(組織)の戦いではなく、ある国民が別の国民を殺すことが戦争である、という定義で話していると思う。国(自民党・公明党政権)だけでなく、多くの日本国民が「戦争の定義」を変更してしまっていることになる。
もし、「戦争」というものが、多くの軍備増強派が定義するように、軍人が一般市民を平気で殺すことを意味するのなら、「敵基地攻撃」というのも、実は「敵の国民を全滅させる」ということではないのか。それは、「核による抑止力」というよりも、「核によって殲滅させるぞ」ということではないのか。
戦争は、軍人と軍人が正々堂々(?)と戦い、それによって決着するという時代は、もう遠い過去のことなのだ。広島と長崎の原爆は、核兵器によって国民が殲滅させられるという恐怖を感じ、国が国民の命を守るためには降伏する(敗北を認める)と言わない限り終わらないのだ。その「証拠(記録)」が広島と長崎に残されている。
これは、ぜひ、見てもらいたい。実感してもらいたい。多くの市民が犠牲になったというだけではなく、現代の戦争は、いったんはじまれば軍隊と軍隊の戦いで終結しないことを実感してもらいたいと思う。