詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造「雨にも負けず」ほか

2023-05-05 13:35:14 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「雨にも負けず」ほか(「ユルトラ・バズル」39、2023年04月25日発行)

 細田傳造は、いつでも非常に面倒くさいことを、非常に簡単に書く。論理を書かない。ただ、感情が変わった瞬間を書く。
 「雨にも負けず」は、雨の中を歩く兵隊の描写からはじまる。

雨が止まない
もう十日も降っている
褌ゲートル軍帽背嚢完膚無く濡れている
陰嚢陰茎そぼり小水漏れて暖を取る

 この凝縮した描写がうまいなあ、と思う。「完膚無く」ということばは常套句かもしれないが、ここに「膚」の文字が出てくるところが、なまなましい。ほんとうに戦争のとき、細田は行軍したのではないか、と思ってしまう。「小水漏れて暖を取る」も、いいなあ。あったかいんだよなあ。どうせ濡れているんだから、わざわざ、ズボンが濡れるかどうか気にする必要はないし、だいたい、行軍のとき、ひとりだけ立ち止まって小便をしていたら叱られるだろう。だから、そのまま、歩きながらするしかないのかもしれない。
 この部分の描写が「褌」からはじまるのも、とてもいい。すべてが唐突ではなく、連想が自然に動くようになっている。
 でも、ほんとうにすばらしいのは、このあと。歩兵は、生きて日本へ帰って来た。

生きて帰った昭和二十一年十一月
腹は減っているが書が読みたい
西武鉄道東長崎駅頭で本屋を見つけ
復員兵服の儘
がつがつがつ書架を物色
腹の立つ詩歌があった
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ・・
                  (注・「西武鉄道」の「鉄」は本文は旧字体)

 そりゃあ、思うだろうなあ。雨の中を行軍し、しかも生きるために、ズボンの中に小便を垂れた。しかも、その惨めな状況のなかで「暖かさ」を感じてしまった。こうした体験のあとで「雨ニモマケズ」と言われてもなあ。「雨にも負けず」生きてきたんだから、そのことを人に言われたくない。
 簡単に言えば、「説教くさい」という反発だ。
 「説教くさい」というのは、とても大切な反感だと思う。それは、「ヒロシです」のなかでは、こうつかわれている。

ヒロシです
吉野弘が嫌いです
生まれさせられたというのが
お説教くさい

 私なりに「誤読」すれば、「生まれさせられた」ということばのなかには、「論理」がある。ふつうは、そういう言い方をしない。つまり、何か、特別な目的を持った「論理」がそこにはある。
 それが嫌いだ、ということだ。
 「説教」というのは、つまりは「論理」である。「頭」で考えたことばが、肉体で考えたことばを押さえ込む。ズボンをはいたまま小便をするのは汚い、とかね。肉体は、ああ、冷えきったからだが小便に触れて、そこだけあったかい、気持ちがいいなあ、を否定する。
 宮澤賢治の詩には、そういうものが含まれていないか。
 「論理」は正しいけれど(正しいから「論理」と呼ばれるのだけれど)、「正しさ」というのは、何か、暴力を含んでいる。素手で殴るというような暴力ではなくて、「疲れない暴力」を含んでいる。機械的だ。
 「雨にもまけず」のつづき。

店を出ると雨が降り出した
雨はきらいだ
宮澤賢治って何だろう
永訣の朝って誰だろう
『肉体の悪魔』というわかりやすそうな本を
小脇に挟んで帰った
        (注・『肉体の悪魔』の「体」は旧字体、細田はとても律儀である)

 『肉体の悪魔』がわかりやすいかどうか判断できないが、このとのきの「わかりやすい」は少なくとも「頭」とは関係がない。「肉体」が反応しそうだ、という無意識だろう。
 「無意識」について言えば。

宮澤賢治って何だろう
永訣の朝って誰だろう

 この二行の「何」と「誰」のつかいわけもすごいなあ、と思う。「頭」で考えれば「何」と「誰」は逆だろう。でも、ね。やっぱり、「宮澤賢治って誰だろう」では、「反発」にならないのだ。何か、違うことを、ままり「論理」を生きるというのは、いったい、何ごとなのかと、無意識に思ってしまう。それを修正せずに、そのままことばに定着させる。
 ことばは、いろいろな動きをするものだが、細田は「修正してはいけないことば」というものをしっかりとつかみとっている。
 もうひとつの作品「心臓を見せに行く」には、こんな行がある。

広島で
朝鮮人のくせにピカドンで死んだ

 この「朝鮮人のくせに」の「くせに」は「修正できない」ことばである。私は「朝鮮人のくせに」と書くことができないが、細田は書くことができる。そこには、越えることのできないものがあり、その越えることのできないものがあるということが、とても重要だと思う。
 「論理」は、この越えることができないもの(越えてはいけないもの)を越えてしまう。そこに、非常な危険がある。
 これは、雨の行軍で「小水漏れて暖を取る」についても言える。私は、それを「わかる」と書いたが、これは、ほんとうは「まちがい」である。どんなに「わかった」つもりになっても、それは「想像力=頭」が動いて「わかる」部分がある。その「わかる」を「論理」にしてはいけない、それは「まちがい」なのである。

 どうすべきなのか。

 この問題に対する「答え」はない。私はとりあえずは「引き返す」。何かにぶつかる。ぶつかったときの衝撃から、自分自身へ引き返す。立ち止まる。
 「論理」というものは、どうしても生まれてくるものだから(なんといっても、脳味噌はずぼらが得意だから、自分さえよければいいというのが脳の主張だから)、それを「壊す」方向へ引き返すしかないと思う。
 そて、その「引き返すためのヒント」が、矛盾した言い方になるかもしれないが、細田の詩にはある。

 ちょっとというより、完全に脱線することになるのだが、私は「雨にもまけず」を読みながら、「台湾有事」を思ってしまったのだった。もう「台湾有事」ははじまっている。それはロシアのウクライナ進攻から同時にはじまっている。
 グロバリゼーションということばがあるが、これは私の考えではアメリカナイズと同じである。アメリカは、地球をアメリカナイズしようとしている。もし、戦争を(台湾有事を)防ぐなら、アメリカナイズというのグロバリゼーションがら「引き返す」しかない。アメリカナイズされないこと、アメリカナイズという「論理」で世界をおおわないことしかないと思う。
 世界には、アメリカナイズに疑問を感じている国が多くある。多くの人がいる。日本では、その動きはあまり報道されないが、その国や、そういう人の脇に立ってみる必要がある。アメリカの論理から引き返す必要がある。
 「核拡散」にしろ、それは「核があれば自分の国の安全は守れる」というアメリカの主張がグローバル化したもの、アメリカの主張をソ連(ロシア)、中国、北朝鮮がまねしたものである。イスラエルの問題を考えれば、それがいっそう鮮明になるだろう。


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布村浩一「歩く」

2023-05-05 11:26:59 | 詩(雑誌・同人誌)

布村浩一「歩く」(「別冊詩的現代」2023夏、2023年夏発行)

 

 布村浩一「歩く」は、こうはじまる。

 

大川を北へ折れて

そのまま歩いて

途中で

団地の方へ

団地の方角へ

入っていき

そのまま歩き

 

 「そのまま」がこの詩のキーワードで、歩いた場所を「そのつまま」書いている。歩いていくと「大きな建物」がある。「そのまま」とは書いてないが、「そのまま」入っていく。という具合に、どこにでも「そのまま」を補えるのだが。

 

ここに百均の店と

スーパーマーケットと

ドラッグストアと

本屋がある

ドラッグストアとスーパーマーケットの

あいだにきれいな白いトイレがあり

そこで用を足してから

本屋に入る

店の中をぐるっとまわって

雑誌のコーナーで停まる

ここにある週刊誌と隔週の週刊誌と月刊誌を

読む

 

 この「そのまま」の感じがとてもおもしろく、「そこで用を足してから/本屋に入る」のあいだに、思わず「そのまま」を挿入したくなる。そのまま、手を洗わず。手を洗ったのなら「そこで手を洗って」と書きそうなのに、書いてないなあ。きっと「そのまま」手を洗わず、本屋に入ったんだろうなあ。

 ま、これは、私の「妄想/誤読」だから、気にしないでね。

 その本屋の描写では「ここにある」ということばがとてもおもしろい。「ここにある」もの以外は読むことはできないのだが、「ここにある」と書く。「ここ」、つまりそのとき布村が存在する場所を、「そのまま」克明に書いている。

 「そのまま」が「ここにある」を発見するまでの過程が書かれていて、私は、詩は「ここ」でおわってもいいなあ、と思った。私なら「ここ」でおえるだろうと思うのだが、布村は私ではないので、当然、違ったことを書く。

 このあと、当然なことながら、本屋を出て「そのまま」歩き続ける。

 

細い長い道がみえる

坂だ

そこへ向かう

細い長い道に向かう

細い長い道に向かって歩いていると

大きな風景があらわれる

高い広い大きな風景に向かって

歩く

 

 ここに「そのまま」は補えるか。もちろん、補ってもいい。しかし、なんなとく「そのまま」を補いたくない。

 本屋で発見した「ここ」が「そこ」に変わったときから、「そのまま」も変わってしまったのだ。「歩く」と書いているが、「そのまま」歩くのではなく、「向かって」歩く。大きく変わったわけではなく、少し意識が変わっただけであり、布村は、日が暮れればやっぱり家へ帰るだろうが、その途中で、ふいに「高く」「広い」「大きな」を見つけ、その瞬間に「向かう」が鮮明になる。

 

 短く、どうでもいいような(?)詩だが、そのどうでもいいことが、とてもいい。この詩は贅沢だ。二篇にわけて書くことができるのに、一篇に統合し、何か正反対とでも言うべきものを、分離できない「ひとつ」にしている。

コメント (1)
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