詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

本谷有希子「異類婚姻譚」

2016-02-11 09:53:23 | その他(音楽、小説etc)
本谷有希子「異類婚姻譚」(「文藝春秋」2016年03月号)

 本谷有希子「異類婚姻譚」は第 154回芥川賞受賞作。
 本谷有希子。どこかで読んだことのある名前だと思ったら、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の作者だった。芝居は見たことがないが、映画を見た。何の予備知識もなく見た映画だが、山が映った瞬間、その緑の色を見た瞬間、この緑は見たことがあると思ったら、舞台が石川県だった。北陸の緑である。どうりで見たことがあると感じたはずだ。私は北陸で生まれ育った。「肉体」にしみついている「色」というのは、抜けないものなのか、と思った。
 こういうことは、今回読んだ小説とは関係ないかもしれない。あるかもしれない。

 ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。
 誰に言われたのでもない。偶然、パソコンに溜まった写真を整理していて、ふと、そう思ったのである。まだ結婚していなかった五年前と、ここ最近の写真を見比べて、なんとなくそう感じただけで、どこがどういうふうにと説明できるほどでもない。が、見れば見るほど旦那が私に、私が旦那に近付いているようで、なんだか薄気味悪かった。

 これは書き出しの二段落だが、とも読みやすい。リズムが、とても読みやすい。どこかに「北陸」のリズムがあるのかもしれない。こういうことは、映画の山の緑を見て、この緑は見たことがあるぞと感じるのに似ていて、他人に説明しても、絶対に通じないことかもしれない。
 いや、読みやすいのは本谷の文体がこなれているからであって、本谷が「北陸」育ちとは関係がない、というのが正しいのだと思うけれど。むしろ、本谷が「戯曲」から出発したということの影響の方が大きいかもしれないけれど。
 「戯曲」は口語。その口語のリズムが小説にも反映していて、「頭」を刺戟する(考えさせる)というよりも、聞いた瞬間(耳に入ってきた瞬間)にイメージが浮かぶ(肉体の存在が感じられる)ということかもしれない。読み返さなくても、書かれていることが、わかる。それも「音」として「肉体」に入ってくる。
 声に出して呼んでみるとわかる。一度もつまずかずに、そのまま「朗読」できる。これ、なんて読む?とつまずく「漢字」が出て来ないし、「読点」の位置が、そのまま呼吸をととのえる。「肉体」に負担がかからない。(これは、「戯曲」であった場合、ほんとうに長所であるかどうかはわからないが……。つまり、不自然な「口語」にも独特のリズムがあって、それが芝居を活気づかせるということもあるかもしれない、という意味なのだが。)その結果(?)、この小説は、驚くほど早く読み通すことができる。私は目が悪くて、読むのに非常に時間がかかるのだが、この小説は一時間かけずに読んだ。
 この読みやすさに、私は驚いてしまった。
 しかし、この読みやすさを「北陸」育ちの共通性だけで言ってしまっては、本谷に申し訳ない。「戯曲」を書きつづけた「経験」、「戯曲」との関連でとらえた方がいいだろう。そういう部分をいくつか取り上げると……。
 旦那と顔が似てきたということを、弟のセンタに相談(?)する部分に、その特徴がとてもよくでている。二人の顔が似てきたのは「いつも二人でいるうちに、表情がお互いに似てきたとか。」と弟が指摘する。それに対して、では弟と彼女は?と主人公が問う。旦那と主人公の結婚は、弟と彼女の同棲期間よりも短い。弟と彼女の方が顔が似ていてもいいのではないか?

「同棲と結婚はやっぱり違うんじゃない?」
「違うって、何が?」
「なんやろう。密度とか?」

 このやりとりの「密度」ということばが「戯曲」作者(劇作家)ならではである。
 「芝居」というのは役者がでてきて、ことばをしゃべる。「小説」と違って、基本的に登場人物の「過去」を事前に説明することはない。登場した瞬間(いま)から「未来」へ向かって動くだけである。「過去」は、役者が自分の「肉体」で語るしかない。この「過去」を含んだ「肉体」の感じを「存在感」というのだが、語られることば(台詞)にリアリティーを与えるのは、役者の肉体である。声である。
 「密度」という抽象的なことばは、それだけでは「意味」を持たない。人間がそこにいて、その人間が見えるときに、あ、そういえばこの人はこういうことばのつかい方をするとわかっているときにのみ、「意味」がはっきりする。
 主人公(姉)と弟には、「共有」される「過去」がある。姉は弟のことをわかっている。弟も姉のことをわかっている。だから「密度」というような抽象的なことばが、そのまま二人の間で行き来する。
 「密度」ということばは、この場面では「抽象」ではなく、弟の「肉体」そのものとして浮かび上がっている。弟が、まさに、そこに動いている。その動きを姉(主人公)が実感していることをあらわしている。ここが、戯曲的。芝居的。
 そのあと、

 センタと写真の入ったフォルダを、カメラのイラストのある場所までドラッグするように指示した。
「これ、私苦手。すぐびよーんってなって、元の場所にもどっちゃうのよね。」
 案の定、二度ほどびよーんに苦戦したものの、どうにか写真をバックアップすることができた。

 この「びよーん」という表現も同じ。「びよーん」は主人公と弟のあいだで繰り返されたことばだろう。(また、パソコンをつかっているいる読者なら、この「びよーん」の意味するところは、「意味」ではなく肉体が立ち合っている現実、肉体感覚といっしょにつかみとれるだろう。役者の「肉体感覚」と観客の「肉体感覚」を重ねて動かすという芝居の特徴が、ここに反映されている。)直前の「ドラッグ」は「ずるずる」と言い直すことができるかもしれないが、会話(口語)ではないので「ドラッグ」のまま書かれる。しかし、口語(?)で「びよーん」と書かれてしまうと、次の描写では「びよーん」がそのままつかわれる。
 芝居でいう「役者の肉体/過去」が、そのまま物語に侵入し、ストーリーを「肉体」として動かしていく部分である。
 この「役者の肉体/登場人物の肉体」を活用しながら、ストーリーそのものにしていくという「手法」が、この小説を生き生きとさせている。ことばを読んでいるにもかかわらず、「抽象的な論理/思考」を追いかけているというよりも、生身の人間を「見ている」感じにさせる。
 「会話」というか、登場人物の「声」のつかい方がとてもうまいのだ。「声」をそのまま「肉体」にさせてしまうのだ。
 私がこの小説でいちばん感心したのは、主要人物ではない「おばさん」が出てくる部分。旦那が、ある家の前で痰を吐く。それを見咎めて、おばさんが、「あんたたち、どこに住んでるの?」「住所を教えなさい」「警察呼ぶから。」とか怒り出す。主人公はあわててハンカチを取り出し、旦那の吐いた痰をぬぐい取るのだが、それを見たおばさんが、

「よくやるね。」
 吐き捨てるような声だった。
 えっ。
「あんたの痰でもないのに。」

 うーん。「住所を教えなさい」「警察を呼ぶ」は「頭」で考え出せる状況かもしれないが、「よくやるね。」「あんたの痰でもないのに。」は、ほんとうに「おばさん」がそこに存在しないと出て来ないことばではないだろうか。本谷が「おばさん」になってしまわないと言えないことばではないだろうか。そして、その「なる」というのは、一瞬だけ「おばさん」になるのではなく、生まれて、結婚して、いまの「おばさん」という「過去」をもった人間である。独立した完全な個人。「他人」だ。
 ほかの登場人物はストーリーの展開にしたがって何度か出てくるが、この「おばさん」は一回きり、偶然、そこに登場する。しかし、偶然登場する人間であるけれど、そういう人間にも「過去」がある。その「過去」が「いま」、「よくやるね」ということばといっしょに噴出してきて、それがストーリーを動かしていく。ほかの登場人物を動かしていく。
 ここは、すごい。
 本谷は「他人の声」聞き、それを批判せずにそのままうけいれて「他人のことば」にすることができる。「他人の声」が本谷をつかんで放さないのかもしれない。まるでシェークスピアだ。
 この 389ページ(文藝春秋)から 392ページにかけての部分、特に 391ページの「よくやるね。」を中心とした数行を読むだけでも、この小説を読んだ価値がある。読む価値がある。本谷の力量に圧倒される。

 ラストは私はおもしろいとは思わなかった。キャンピングカーや猫、「山」が最後の部分の「伏線」になっている。でも、小説のおもしろさはストーリーの展開のスムーズさ(伏線の巧みさ)にあるのではなく、そこに出てくる「人間」のおもしろさにある。
 いちばんおもしろいのは、やっぱり「おばさん」だ。
 この「おばさん」だけは、この小説のメインストーリーの、互いの顔が似てくるということから逸脱している。誰にも似ない。完全な「個人/他人」をそのまま生きている。こういう人間を造形できるのはすばらしい才能だ。
異類婚姻譚
本谷有希子
講談社

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