16 エデンの妻
「エデンの妻」からは「愛の唄」という章になっている。「ノアの方舟」にも女は描かれていたが、接近の仕方が微妙に違う。
女は「妻」になっている。「エデンの妻よ」と言いかえられている。「エデン」は「SEX」と言いかえられている。
このエデンの特徴は、しかしSEXというよりも「ふたりで近づく」にある。
ふつうに読めば、どこかにあるエデンに近づく、エデンの園へゆくということになるのかもしれないが、エデンはどこかにあるのではなく「ふたりで」同じことをするときに、その行為の先にあらわれてくるものかもしれない。「同じこと」というのはSEXをすることだが、それだけを意味するわけではないと思う。
たとえば「さるすべりの木を植える」。「植える」の文法上の「主語」は「わたし」であるけれど、気持ちは妻といっしょに植えている。「ふたりで」植えている。「ふたりのために」植えている。だから、たとえそれが一人でしたことであっても、「同じこと」をふたりでしたことになる。
エデンはSEXだけで成り立っているのではない。それ以前からはじまっている。そういう思いがあるから、「さるすべりの木を植える」という、SEXとは無関係なところから詩がはじまる。
途中に出てくる
この一行は何だろうか。
私には、よくわからない。なぜこの行を嵯峨が書いたのか、見当がつかないが、この一行があるために「さるすべりの木」が見えてくる。「桃いろの花」が見えてくる。SEXということばは「肉体」を浮かび上がらせるが、その「肉体」とは別の何かがあるということを「理性」ということばが思い出させる。そして、その「肉体(欲望)」と向き合い、「肉体」をととのえるものとして「さるすべり」「桃いろの花」というものがあるように感じられる
ことばが愛欲一色に染まらず、愛欲が洗い清められ、その底から落ち着いた肉体があらわれ、静かに呼吸するような感じ。
17 水辺
「エデンの妻」のつづきとして読むことができる。「エデンの妻」では「わたし」は「さるすべりの木」を植えたが、それだけでエデンが完成するわけではない。
「多くのひとの心のそばを通らせ」が、ちょっと複雑である。「愛する女」とは「エデンの妻」だろう。妻なのだけれど、ほかの人(男)を遮断してしまうのではない。ほかの人にも存在を知ってもらいたい。ここには、自分には妻がいるのだという喜び(自慢)が反映している。
その喜びが、ほかの行動をも誘う。
のどかな自然。エデンという西洋の楽園ではなく、どことなく東洋の楽園(桃源郷)を想像してしまう。「うねうねとのぼつてゆく仔鰻のむれ」というのは精子の群れを想像させる。「桃源郷」の住民もセックスに夢中になっているかどうかわからないが、こういう不思議なイメージが世界を攪乱するのも詩なのだと思う。
ひとつの読み方を強いるのではなく、逆に、かってきままに自分の好きなふうに読める要素、矛盾した(?)何かを含んでいる方が、何度でも読み直す楽しみがある。
「エデンの妻」からは「愛の唄」という章になっている。「ノアの方舟」にも女は描かれていたが、接近の仕方が微妙に違う。
妻よ
今日わたしはさるすべりの木を植えよう
ふたりでエデンに近づくために
雨とふる理性にも
けつしてSEXを失わないように
わたしの手のとどくところに
いつもほのぼのと桃いろの花がさいているように
妻よ
エデンの妻よ
女は「妻」になっている。「エデンの妻よ」と言いかえられている。「エデン」は「SEX」と言いかえられている。
このエデンの特徴は、しかしSEXというよりも「ふたりで近づく」にある。
ふつうに読めば、どこかにあるエデンに近づく、エデンの園へゆくということになるのかもしれないが、エデンはどこかにあるのではなく「ふたりで」同じことをするときに、その行為の先にあらわれてくるものかもしれない。「同じこと」というのはSEXをすることだが、それだけを意味するわけではないと思う。
たとえば「さるすべりの木を植える」。「植える」の文法上の「主語」は「わたし」であるけれど、気持ちは妻といっしょに植えている。「ふたりで」植えている。「ふたりのために」植えている。だから、たとえそれが一人でしたことであっても、「同じこと」をふたりでしたことになる。
エデンはSEXだけで成り立っているのではない。それ以前からはじまっている。そういう思いがあるから、「さるすべりの木を植える」という、SEXとは無関係なところから詩がはじまる。
途中に出てくる
雨とふる理性にも
この一行は何だろうか。
私には、よくわからない。なぜこの行を嵯峨が書いたのか、見当がつかないが、この一行があるために「さるすべりの木」が見えてくる。「桃いろの花」が見えてくる。SEXということばは「肉体」を浮かび上がらせるが、その「肉体」とは別の何かがあるということを「理性」ということばが思い出させる。そして、その「肉体(欲望)」と向き合い、「肉体」をととのえるものとして「さるすべり」「桃いろの花」というものがあるように感じられる
ことばが愛欲一色に染まらず、愛欲が洗い清められ、その底から落ち着いた肉体があらわれ、静かに呼吸するような感じ。
17 水辺
「エデンの妻」のつづきとして読むことができる。「エデンの妻」では「わたし」は「さるすべりの木」を植えたが、それだけでエデンが完成するわけではない。
わたしは水を通わせようとおもう
愛する女の方へひとすじの流れをつくつて
多くのひとの心のそばを通らせながら
そのときは透明な小きざみで流れるようにしよう
「多くのひとの心のそばを通らせ」が、ちょっと複雑である。「愛する女」とは「エデンの妻」だろう。妻なのだけれど、ほかの人(男)を遮断してしまうのではない。ほかの人にも存在を知ってもらいたい。ここには、自分には妻がいるのだという喜び(自慢)が反映している。
その喜びが、ほかの行動をも誘う。
うねうねとのぼつてゆく仔鰻のむれを水に浮かべよう
その縁で蛙はやさしくとび跳ね
その岸で翡翠(かわせみ)は嘴を水に浸すようにしよう
のどかな自然。エデンという西洋の楽園ではなく、どことなく東洋の楽園(桃源郷)を想像してしまう。「うねうねとのぼつてゆく仔鰻のむれ」というのは精子の群れを想像させる。「桃源郷」の住民もセックスに夢中になっているかどうかわからないが、こういう不思議なイメージが世界を攪乱するのも詩なのだと思う。
ひとつの読み方を強いるのではなく、逆に、かってきままに自分の好きなふうに読める要素、矛盾した(?)何かを含んでいる方が、何度でも読み直す楽しみがある。
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