詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小谷松かや「包むほどに」

2016-10-04 11:18:31 | 詩(雑誌・同人誌)
小谷松かや「包むほどに」(「妃」18、2016年09月22日発行)

 小谷松かや。気になって、しかたがない。で、きょうは「包むほどに」を読んでみる。この詩は、きのう読んだ「春の布」とはまったく違う。

わたしの皮膚は、外気を遮断して、
何かからわたしを守る
いつか、わたしの皮膚が伸びて
男のひとを包んだのに、
かれは破いて逃がれて行ってしまった
わたしの皮膚は透明でやわらかく
蜜蝋を灯した燭台をつかめば、
腕ごと炎のいろに赤く透けたのに
すでに誰も怨んだりしていなくて、
ただ、やわらかく
悲しむひとを包むほど強くあるのに
世界から何かを遮断して
わたしを守り続ける
いったい何時まで
ほんとうはもう
裏がわから拡がり伸びきって
世界を包みたい
わたしの全身全霊の皮膚
そして指先の皮膚を使い
とりあえずスミレの花殻を摘み
子猫の餌を用意する

 「男のひと」が出てくるが、抽象的である。「男」が見えない。ここには「わたし」しか書かれていない。そこが一番の違い。そして、その「わたし」を「定義」するのに「皮膚」という「肉体」をつかっている。

わたしの皮膚は、外気を遮断して、
何かからわたしを守る

 これは「定義」として「正確」であるかどうか、わからない。けれど、直感的に「そうだなあ」と思う。納得ができる。「皮膚」は「肉体」の一番外側にある。その「外側」という意識が「外(気)を遮断して」と結びついて納得してしまうのだと思う。「外気=空気/寒暖」を「皮膚」は遮断するわけではなく、それに触れているのだけれど。
 しかし、そのあと、

いつか、わたしの皮膚が伸びて
男のひとを包んだのに、
かれは破いて逃がれて行ってしまった

 うーん。
 「論理」としては、そういうことが「ある」ということは、「わかる」。「肉体」の「外側」である「皮膚」が伸びて、「わたし」の「外」にある(いる)何かを「包む」。
 でも、私は(私の皮膚は)、そういうことができない。
 ここには、私の知らない「肉体」が生きている。私の知らない「肉体」がある。
 そして、このとき「肉体」というのは、どうみても「現実」の「肉体」ではなく、一種の「比喩」である。それも「運動/動詞」の「比喩」である。「伸びる→包む」と動いていくときの「連続した動き」を描写するための(定義するための)ための「比喩」、その「運動」を描き出すための便宜上の「主語」である。
 それが「事実」ではなく「比喩」であるということは、そこに「新しい哲学/思想」が書かれているということ。いままでの「事実」を積み重ねることでは描き出せない「新しい」ものが書かれているということ。
 「包む」ということの「哲学」が書かれているか、その前の「伸びる」ということの「哲学」が書かれているのか、「伸びる→包む」ということの哲学が書かれているか。区別がつかない。
 もし、この三行が、こんな形だったら、どうだろう。「皮膚」が「腕」だったら、どうだろう。

いつか、わたしの腕が伸びて(私が腕を伸ばして)
男のひとを包んだのに、(男の人を両腕で包み、抱き締めたのに)
かれは破いて逃がれて行ってしまった(かれはわたしの両腕をほどいて逃がれて行ってしまった)

 ということになる。これは、普通の詩。ただし、このときの「腕が伸びて」は腕そのものが「伸びる」のではなく、腕のある方向に「伸ばす/差し出す」ということ。「伸ばす」という「他動詞」が「伸びる」という「自動詞」になっている。「腕が伸びて」という「自動詞」で書かれたものを「腕を伸ばして」と「他動詞」に言いなおして、私は「誤読」していることになる。
 「自動詞/他動詞」というのは文法(頭)が整理する(ととのえる)ことであって、「肉体」は、そういうことを「意識」しないで、いや、その区別を「飲み込んで」動くものかもしれない。「肉体」には、何か、そういう「原始的」な力がある。

 で、ここから、私の「誤読(妄想)」は暴走するのである。

 あ、小谷松が「わたし」というとき、そしてその「わたし」を「皮膚」でとらえ直すとき、その「わたし」の「肉体」というのは「頭/手/足/胴」という具合に「分節化」された「肉体」ではなく、もっと「原始的/未分節」の状態にあるもの、たとえば「細胞」というものではないのか、と感じたのだ。
 「皮膚」は「細胞膜」だ。
 私は「無知」であること、何も知らないことを利用して、どんどん「妄想」するのだが、どこかで見た「アメーバー」のようなものの「運動」を、ふっと思い浮かべるのである。「楕円形」みたいな「肉体」が、別の「固体/肉体」に触れる。そのとき、「わたし」の「細胞膜」がするすると「伸びて」、別の固体(肉体)を「包む」。そうして「ひとつ」になる。
 「細胞膜」は「形」が「固定化(分節化)」されていない。まだ、どのような「形」でもなることができる。だから、そういうことが可能なのだ。
 小谷松は、人間(わたし)というものを、そういうこと(そういう運動/生き方)ができる可能性を秘めたもの、「未知の新しい細胞」として見ているのではないのか。

 生物学のことは、私はまったく知らない。
 だから、テキトウなことを書くのだが、小谷松は、何か、「生物学」的なところから「人間」を新しく見つめなおしている、「哲学」しているのではないか。
 そのことに、私の「生物学」の「原始的な部分」、私の「細胞」が、意識できない形で反応しているのかもしれない、というような「妄想」を暴走させるのである。

 詩にもどろう。

わたしの皮膚は透明でやわらかく
蜜蝋を灯した燭台をつかめば、
腕ごと炎のいろに赤く透けたのに

 この「皮膚」も、私には「細胞膜」のように思える。細胞膜が「透明」であるかどうか、私は知らないが、まあ、顕微鏡で見ないと見えないのだから「透明」と言ってかまわない。「透明=見えない」である。(こんな「定義」は学問的には間違っているだろうけれど、詩とは、学問ではないのだから、私は平気で間違いを押し通す。)アメーバーのように動くものを見ていると、その「細胞膜」は「やわらかい」。
 「つかむ」は「包む」である。「包む」ことが「つかむ」こと。「燭台をつかむ」は「燭台を掌でつつむ、そして持つ」ことである。自分の「肉体」に属するものにするということである。「飲み込む」ことでもある。
 細胞膜が、他の細胞を包み込む(飲み込む)と、その細胞膜の内部に、飲み込まれた細胞が動いているのが見える。こういう感じが「透けて」見える。
 これを、小谷松は、さらに言いなおす。「感情」として言いなおす。

すでに誰も怨んだりしていなくて、
ただ、やわらかく
悲しむひとを包むほど強くあるのに
世界から何かを遮断して
わたしを守り続ける

 「怨む」「悲しむ」という「感情の動き」。
 細胞膜は「恨み/悲しみ」というような「感情/実体/核(?)」を持たない。逆に、あらゆる「核/感情」をつつむ。「感情/核」が「露出」するのを防ぐ。「感情」を「世界」から「遮断する=感情(わたし)を守る」。
 もちろんこの部分は、先の男の部分の書き直しと読むことができる。(その方が、詩らしくなるかもしれない。)つまり、去って行った男をもう怨んでいない。その男の悲しみ、あるいは別の新しい悲しむ男を抱き締めることができるくらいに、わたしは立ち直っているはずなのだが、何かが(皮膚が)、わたしを閉じ込め、世界と「遮断している」という具合に。二度と傷つくことがないように世界を遮断して、「わたしを守り続ける」という具合に、「抒情詩」として読むことができる。
 しかし、私は、そうしたくない。 
 詩は、ここで終わらないからだ。
 私の「妄想」やセンチメンタルを、安直な「結論」にたどりつかせて、それでおしまい、ということにはさせてくれないのだ。

裏がわから拡がり伸びきって
世界を包みたい

 「裏がわ」に、私は、どきりとする。
 私が「皮膚」を「細胞膜」と読み替えたとき、私には「細胞膜の表側/外側」しか存在しなかった。「外側」が「外」に向かって、のびる。動いていく。そういう運動しか、私は思い描かなかった。
 でも小谷松は、その「細胞膜/皮膚」には「裏側/内側」があるという。
 この二行の読み方は、いろいろあると思う。一番、簡単(?)なのは、「私」と「世界」の「反転」。包むことで「世界」を自分の「細胞膜の内側」に取り込むのではなく、「世界」を「包む」形で「細胞の核/わたし」を「世界」の「外」に出してしまう。
 でも、これでは、なんといえばいいのか、

わたしの皮膚は透明でやわらかく

 と、うまくあわない。私の直感は、それは「違う」と言っている。「世界」を封じ込め、「わたしという核」が外側に出るというのは、どうもおかしい、と言っている。もっと、違うふうに考える必要がある、と言っている。
 では、どんなふうに。
 うーん、わからないのだが。
 「細胞膜(外側)/細胞核(内側)」という「分節」の仕方ではとらえきれないものがあるのだろう。
 「細胞膜」の「表側/裏側」の「表裏一体」から、「世界」そのものをとらえていかないといけないのだろう。「表側/裏側(表裏一体)」のなかに、何か、「未知の情報」のようなものがある。「未分節」のものがある。
 その「未分節」の存在を小谷松は書いている。その「未分節」こそ、「全身全霊」という「一体」そのものなのだ。
 ここからもう一度「細胞膜」へもどっていかないといけないのだが、私のことばは「細胞膜」「細胞核」くらいしかなくて、また「細胞」の運動についても何も知らないので、往復することができない。
 「表側/裏側」と、方便として「分節」できるが、ほんとうは「相対化」できない「ひとつ」としての「皮膚」。そこにこそ、小谷松の「哲学/肉体」があるのだが、それは私のことばでは「分節化」できない。
 他の詩、他のことばと、突き合わせて、もっと小谷松のことばのなかを動いてみないと、何もわからないということかもしれない。
 私は、これまでに小谷松の詩を読んだことがあるのかどうか、記憶にない。読みとばし、読み捨ててきたのだとしたら、大変申し訳ない。今回、偶然出合えてよかった、と心底思う。

 最後の三行は、まるで「禅問答」のような感じがするが、そうとしかいえない「瞬間の真実」のようにも感じられる。

詩誌「妃」18号
瓜生 ゆき,後藤 理絵,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ,田中 庸介,月読亭 羽音,仲田 有里,長谷部 裕嗣,広田 修,中村 和恵,小谷松 かや,細田 傳造,尾関 忍,宮田 浩介
妃の会 販売:密林社

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