谷川俊太郎「泣きたいと思っている」(「すばる」2016年10月号)
谷川俊太郎「泣きたいと思っている」は「近作十四行詩」の一篇。この連作は、一読して、とても窮屈である。一ページに一篇ずつなのだが、見かけが窮屈である。長く感じる。余白が少ないからかな。もっと余白の多いスタイル、見開きに一篇という形で掲載してほしいなあ。詩集になるときは、きっと見開きに一篇だなあ。
というようなことは、作品と関係がないようであって、強い関係がある。こんなに「ぎっしり」感があると、読むのにためらってしまう。読めるかなあ、と怖じけづく。
詩は、そこにあることばとの「対話」だからね。読む方が身構えると、その段階で、もうことばの変質が始まっていることになる。
でも、まあ、読んでみる。
「引用」(転写)するというのは、ことばを単に読むのではなく、「全身」をつかってことばをたどり直すこと。だから、黙読しただけのときとは印象が違ってくる。そういうことを思いながら、引用する。
うーん、やっぱり長い。
「言い直し」があるから、よけいに長く感じる。「言い直し」というのは、たとえばタイトルの「泣きたいと思っている」。「泣きたい」だけでも「思い」、つまり「気持ち」。それをもう一度「思っている」と念押ししている。いや「念押し」ではなく、「泣きたい」と「思っている(気持ち)」が分離しているということかもしれない。何か、「二回」という印象があって、そういうことばの動きが「長く」感じさせる。二行目、三行目には「乾いた」という修飾語がつづいて出てくるが、そういう「修飾語」に込められているような「気持ち(思い)」の往復(繰り返し)が「余白」を消して、「びっしり/ぎっしり」という感じをつくっている。
この一行にも、「泣きたいと思っている」と似た、ちょっと「めんどうくさい」ものがある。「木々の影が床に落ちる」というのは単純な描写。しかし、それが「風に揺れている」というのは「意味」はわかるが、単純な描写とは言えない。影は風には揺れない。風に揺れるのはあくまで木々(の枝/葉)であって、影そのものは揺れない。木々が揺れることで、その反映としての影が揺れる。ここにも「ふたつのこと」が往復するような形で書かれている。
この「ふたつ」は一連の四行そのものについても言える。
一方に「木の影が床で揺れる」という描写があり、他方で「銃弾が男の胸を貫いた」という描写がある。その「ふたつ」は「笑っている幼児の写真」ということばを真ん中にはさみ、つながっているように私には見える。
つまり、男は「笑っている幼児の写真」を胸に入れていたのだが、その写真を貫く形で撃たれた。そのとき男は、幼児といっしょに暮らした日々を思い出した。「木々の影が床に落ちて風に揺れている」「乾いたふわふわのタオルが湯上がりの子をすっぽりと包む」という幸せな光景を思い出した。その描写(ことば)は男の「思い出」であると同時に「現実/いま」とも重なる。「木々の影が床に落ちて風に揺れている」は男が撃たれた「現場」の描写でもある。その木々の影が動いている床に、「薬莢」が落ちる。銃撃戦がある、ということだ。
一行目は「現実/過去」の区別がない。二行は「現実」。三行目は「過去」。四行目は「現実」。だから一行目は「過去」の方に重点がおかれていると読んだ方が「過去/現実/過去/現実」という「構造」がはっきりする。
で、ここから少し、私は違うことを書き始めるのだが。
その「現実/過去」という「時制」を中心にことばの動きを読んでいくと、ここで「矛盾」が見つかる。「揺れている」「跳ね返る」「包む」。一行目から三行目まで、動詞は「現在形」。これに対して四行目は「貫いた」と「過去形」。
「事実」の「時制」と、それを「描写」するときの「時制」が逆になっている。
一行目の「現実/過去」が融合した「時制」が影響しているというよりも、ここに書かれているのは「実感」の「時制」というものなのだ。「実感」が強いと「現在形」になる。何かを「再発見」すると、それが「現在形」として「動く」。「あ、いま、影が動いた」という驚きが「揺れている」という「現在形」になる。「過去形」にならずに動く。そして、その「実感」というのは感情の動きであると同時に、事実そのものの動きでもある。「いま」が、何かを(過去を?)突き破って生まれてくるのだ。そのために「いきいき」と感じられる。
「貫いた」は生まれてくるのではなく、死んで行く。固定化していく。「いま」を動かすのでなく、「いま」を「過去」として固定化する。そういう状況が「過去形」として書かれている。
「事実(私の外)/死ぬ/固定化する」と「実感(私の内部)/生まれる」という「ふたつ」のものが交錯する形で書かれている。そう読むことができる。
「泣きたいと思っている」もまた「ふたつ」の交錯かもしれない。そのとき、「事実」は「泣きたい」なのか「思っている」なのか。「実感」は「泣きたい」なのか「思っている」なのか。この区別はむずかしい。「泣きたい」も「思っている」も「こころ/自分の内部」の動きを指しているように見えるからだ。こういうむずかしい問題は、後回しにして、詩のつづきを読む。
二連目は「戦場で男が死んだ」という「取り返しの突かない事実」を反復しながら、それとは無縁の場にいる「若者」とが交錯している。戦場ではなく、平和な国に生きている若者にも「饒舌な(ことばの)暴力」がある。戦争という暴力と饒舌の暴力。「暴力」を中心にして「ふたつ」が交錯する。「見え隠れする」という「動詞」には「見える」と「隠れる(見えない)」という矛盾があって、それが「ふたつ」の交錯を活気づかせている。
三連目は「アドルノ」と「別の詩人」が交錯する。「野蛮」ということばを中心にして交錯する。「アドルノ」という「過去/引用」と「生きている詩人」という「いま/つけ加える」が交錯する。「野蛮」は「否定」の意味でつかわれ、同時に「肯定」のいみでもつかわれる。ここにも矛盾の交錯がある。「野蛮」のなかには「暴力」が隠れている。見え隠れしている。
そういう具合に「世界」をとらえなおした上で、四連目。「夢」あるいは「言語」と「事実」が交錯する。
は、このとき、「言語」では「事実」をもう語れなくなっている、「事実」を「現在形」で語る力を「言語(ことば)」は失っているということになるかもしれない。このとき「事実」というのは「過去」のこと。「取りかえしがつかない」もの、ということ。あるいは「事実」とは「暴力」であり、「野蛮」であるということ。それが「実行された」というのこと。
「ことば(夢)」が生きていたとき「現実」は「事実」とは違って「実感」だったということ。その「実感」を、谷川は、ここで求めている。「詩」を求めていると言い換えてもいいかもしれない。
で、そのあとの、「嗚咽」「すすり泣き」「号泣」というのは何だろう。「言語」である。ある「事実(泣き方)」を指し示すことば。しかし、「泣き方」を「事実」というのは、変だなあ。これは、きっと「嗚咽」でも「すすり泣き」でも「号泣」でも、谷川の「泣きたい」という「実感」を「事実」にはしてくれないという「絶望」を語っているのかもしれない。
名詞にならない「泣き方」、「泣く」という「動詞」、その「衝動(実感)としての「現在形の/泣きたい」。それを「実感」のまま隠している。「実感」を「過去形(名詞)」にせずに、自分のなかでもっていたい。それが「思っている」ということばになってあらわれているように感じる。泣いてしまえば、それは「過去形の事実」になってしまう。「現在形の実感」のまま生かすには(その実感を生きるには)、泣いてはだめなのだ。「泣きたい」と思うことでしか「実感」を生かし続けることができないのだ。
このとき「実感」は「野蛮」になるかもしれない。「「詩人には野蛮人としての一面が必要だ」ときの「野蛮」に。それは何者かに「規制されていな状態」のこと。ととのえられていないこと、可能性のこと。形にならないエネルギー、谷川がよくつかうことばでいえば「未生」ということ。生まれる前、何になるかわからないまま生まれてくるという野蛮。強いエネルギー。
「泣きたい」は「泣く」が「未生」の状態である。谷川は「肉体」のなかに「泣く」を「未生」のまま、持っている。それを書いている。「未生」のまま、書こうとしている。
谷川俊太郎「泣きたいと思っている」は「近作十四行詩」の一篇。この連作は、一読して、とても窮屈である。一ページに一篇ずつなのだが、見かけが窮屈である。長く感じる。余白が少ないからかな。もっと余白の多いスタイル、見開きに一篇という形で掲載してほしいなあ。詩集になるときは、きっと見開きに一篇だなあ。
というようなことは、作品と関係がないようであって、強い関係がある。こんなに「ぎっしり」感があると、読むのにためらってしまう。読めるかなあ、と怖じけづく。
詩は、そこにあることばとの「対話」だからね。読む方が身構えると、その段階で、もうことばの変質が始まっていることになる。
でも、まあ、読んでみる。
「引用」(転写)するというのは、ことばを単に読むのではなく、「全身」をつかってことばをたどり直すこと。だから、黙読しただけのときとは印象が違ってくる。そういうことを思いながら、引用する。
泣きたいと思っている
木々の影が床に落ちて風に揺れている
床に熱い薬莢が乾いた金属音をたてて跳ね返る
乾いたふわふわのタオルが湯上がりの子をすっぽりと包む
笑っている幼児の写真とともに銃弾が男の胸を貫いた
ただ一回限りの取り返しのつかない事実が
文字になり映像になって世界中に散らばって忘れられる
数小節の音楽になだめられて口を噤む若者の
饒舌なブログに見え隠れする暴力の波動
「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」
勲章をもらった老詩人は照れながらアドルノを引用して
「詩人には野蛮人としての一面が必要だ」とつけ加える
夢も言語も失って世界はただの事実でしかなくなった
嗚咽でもすすり泣きでも号泣でもなく
泣き顔を見せずに泣きたいと思っている
うーん、やっぱり長い。
「言い直し」があるから、よけいに長く感じる。「言い直し」というのは、たとえばタイトルの「泣きたいと思っている」。「泣きたい」だけでも「思い」、つまり「気持ち」。それをもう一度「思っている」と念押ししている。いや「念押し」ではなく、「泣きたい」と「思っている(気持ち)」が分離しているということかもしれない。何か、「二回」という印象があって、そういうことばの動きが「長く」感じさせる。二行目、三行目には「乾いた」という修飾語がつづいて出てくるが、そういう「修飾語」に込められているような「気持ち(思い)」の往復(繰り返し)が「余白」を消して、「びっしり/ぎっしり」という感じをつくっている。
木々の影が床に落ちて風に揺れている
この一行にも、「泣きたいと思っている」と似た、ちょっと「めんどうくさい」ものがある。「木々の影が床に落ちる」というのは単純な描写。しかし、それが「風に揺れている」というのは「意味」はわかるが、単純な描写とは言えない。影は風には揺れない。風に揺れるのはあくまで木々(の枝/葉)であって、影そのものは揺れない。木々が揺れることで、その反映としての影が揺れる。ここにも「ふたつのこと」が往復するような形で書かれている。
この「ふたつ」は一連の四行そのものについても言える。
一方に「木の影が床で揺れる」という描写があり、他方で「銃弾が男の胸を貫いた」という描写がある。その「ふたつ」は「笑っている幼児の写真」ということばを真ん中にはさみ、つながっているように私には見える。
つまり、男は「笑っている幼児の写真」を胸に入れていたのだが、その写真を貫く形で撃たれた。そのとき男は、幼児といっしょに暮らした日々を思い出した。「木々の影が床に落ちて風に揺れている」「乾いたふわふわのタオルが湯上がりの子をすっぽりと包む」という幸せな光景を思い出した。その描写(ことば)は男の「思い出」であると同時に「現実/いま」とも重なる。「木々の影が床に落ちて風に揺れている」は男が撃たれた「現場」の描写でもある。その木々の影が動いている床に、「薬莢」が落ちる。銃撃戦がある、ということだ。
一行目は「現実/過去」の区別がない。二行は「現実」。三行目は「過去」。四行目は「現実」。だから一行目は「過去」の方に重点がおかれていると読んだ方が「過去/現実/過去/現実」という「構造」がはっきりする。
で、ここから少し、私は違うことを書き始めるのだが。
その「現実/過去」という「時制」を中心にことばの動きを読んでいくと、ここで「矛盾」が見つかる。「揺れている」「跳ね返る」「包む」。一行目から三行目まで、動詞は「現在形」。これに対して四行目は「貫いた」と「過去形」。
「事実」の「時制」と、それを「描写」するときの「時制」が逆になっている。
一行目の「現実/過去」が融合した「時制」が影響しているというよりも、ここに書かれているのは「実感」の「時制」というものなのだ。「実感」が強いと「現在形」になる。何かを「再発見」すると、それが「現在形」として「動く」。「あ、いま、影が動いた」という驚きが「揺れている」という「現在形」になる。「過去形」にならずに動く。そして、その「実感」というのは感情の動きであると同時に、事実そのものの動きでもある。「いま」が、何かを(過去を?)突き破って生まれてくるのだ。そのために「いきいき」と感じられる。
「貫いた」は生まれてくるのではなく、死んで行く。固定化していく。「いま」を動かすのでなく、「いま」を「過去」として固定化する。そういう状況が「過去形」として書かれている。
「事実(私の外)/死ぬ/固定化する」と「実感(私の内部)/生まれる」という「ふたつ」のものが交錯する形で書かれている。そう読むことができる。
「泣きたいと思っている」もまた「ふたつ」の交錯かもしれない。そのとき、「事実」は「泣きたい」なのか「思っている」なのか。「実感」は「泣きたい」なのか「思っている」なのか。この区別はむずかしい。「泣きたい」も「思っている」も「こころ/自分の内部」の動きを指しているように見えるからだ。こういうむずかしい問題は、後回しにして、詩のつづきを読む。
二連目は「戦場で男が死んだ」という「取り返しの突かない事実」を反復しながら、それとは無縁の場にいる「若者」とが交錯している。戦場ではなく、平和な国に生きている若者にも「饒舌な(ことばの)暴力」がある。戦争という暴力と饒舌の暴力。「暴力」を中心にして「ふたつ」が交錯する。「見え隠れする」という「動詞」には「見える」と「隠れる(見えない)」という矛盾があって、それが「ふたつ」の交錯を活気づかせている。
三連目は「アドルノ」と「別の詩人」が交錯する。「野蛮」ということばを中心にして交錯する。「アドルノ」という「過去/引用」と「生きている詩人」という「いま/つけ加える」が交錯する。「野蛮」は「否定」の意味でつかわれ、同時に「肯定」のいみでもつかわれる。ここにも矛盾の交錯がある。「野蛮」のなかには「暴力」が隠れている。見え隠れしている。
そういう具合に「世界」をとらえなおした上で、四連目。「夢」あるいは「言語」と「事実」が交錯する。
夢も言語も失って世界はただの事実でしかなくなった
は、このとき、「言語」では「事実」をもう語れなくなっている、「事実」を「現在形」で語る力を「言語(ことば)」は失っているということになるかもしれない。このとき「事実」というのは「過去」のこと。「取りかえしがつかない」もの、ということ。あるいは「事実」とは「暴力」であり、「野蛮」であるということ。それが「実行された」というのこと。
「ことば(夢)」が生きていたとき「現実」は「事実」とは違って「実感」だったということ。その「実感」を、谷川は、ここで求めている。「詩」を求めていると言い換えてもいいかもしれない。
で、そのあとの、「嗚咽」「すすり泣き」「号泣」というのは何だろう。「言語」である。ある「事実(泣き方)」を指し示すことば。しかし、「泣き方」を「事実」というのは、変だなあ。これは、きっと「嗚咽」でも「すすり泣き」でも「号泣」でも、谷川の「泣きたい」という「実感」を「事実」にはしてくれないという「絶望」を語っているのかもしれない。
名詞にならない「泣き方」、「泣く」という「動詞」、その「衝動(実感)としての「現在形の/泣きたい」。それを「実感」のまま隠している。「実感」を「過去形(名詞)」にせずに、自分のなかでもっていたい。それが「思っている」ということばになってあらわれているように感じる。泣いてしまえば、それは「過去形の事実」になってしまう。「現在形の実感」のまま生かすには(その実感を生きるには)、泣いてはだめなのだ。「泣きたい」と思うことでしか「実感」を生かし続けることができないのだ。
このとき「実感」は「野蛮」になるかもしれない。「「詩人には野蛮人としての一面が必要だ」ときの「野蛮」に。それは何者かに「規制されていな状態」のこと。ととのえられていないこと、可能性のこと。形にならないエネルギー、谷川がよくつかうことばでいえば「未生」ということ。生まれる前、何になるかわからないまま生まれてくるという野蛮。強いエネルギー。
「泣きたい」は「泣く」が「未生」の状態である。谷川は「肉体」のなかに「泣く」を「未生」のまま、持っている。それを書いている。「未生」のまま、書こうとしている。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫) | |
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