詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

2011-01-01 12:51:45 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(165 )

 『豊饒の女神』のつづき。「桃」は後半がとてもおもしろい。

この寺にはまだ根岸のクコの生垣が
残つておりますそれでも見ていつて下さい
悲劇の誕生はおさけなさいましよ
銀のナイフをつけ露にしたたる
桃を出してどうぞめしあがつて!
つれの女とさつきとうふをたべたばかり
その危険な関係を謝した
遠く旅立つ人がいないのは悲しい
こんなに別離の情がわき出ているのに!
たそがれのきらめきが
藤だなのくらやみにゆれている

 突然出てくる「とうふ」にびっくりしてしまう。

つれの女とさつきとうふをたべたばかり

 なぜびっくりするかというと、桃をすすめられて、それを断るのには変な理由だなあと感じるからだ。とうふをたべたから桃が食べられない? そういう状況がわからない。いったい、何? 事実?

 わからないものに驚いたとき、ひとはどんな反応をするのだろう。
 私は笑いだしてしまう。たぶん、笑うことで、ふいにやってきた緊張をほぐすのだと思う。これは私の自己防衛本能のようなものである。笑わずに、これ何? と真剣に考えはじめると苦しくなる。だから、笑ってリセットし直すのである。
 そういうリセットは、笑いながらも、どこか悲しいものを含む。淋しいものを含む。自分のなかからなじんでいた自分が離れていくような感じがする。
 そんなことを思っていると、

遠く旅立つ人がいないのは悲しい

 という行がやってくる。わけはわからない(意味の脈絡はわからない)のだが、そこに「悲しい」ということばがあるので、ふいになつかしいような、あ、これだ、この悲しみだ、私がいま感じているのは--と錯覚する。
 何もわかっていないのに、その行がこころに落ち着く。繰り返して読んでしまう。繰り返し読むと、なんとなく、肉体のなかで「悲しい」がほんとうになるような気がするのだ。
 追い打ちをかけるように、

こんなに別離の情がわき出ているのに!

 これも変だねえ。桃をすすめられ、ほかの女ととうふを食べたばかりだと思い出し、急に悲しくなる。
 もし、ここに旅立つ人がいるなら、そのひとにことよせて、悲しい気持ち、別離を悲しむ気持ちを発散することができるのに……。

 脈絡があるようで、ない。ないようで、ある。まあ、あるように、読んでしまうということなのかもしれない。
 こういう変な(変じゃない、これにはこういう意味がある、という声もあるかもしれないけれど……)行が、変だけではなく、おもしろいと感じるのはなぜなのだろう。なぜ何度も何度も読み返してしまうのだろう。
 私はやはり「音」に引きこまれるのだと思う。いろいろな音があるが、「た行」の音のつながりだけを取り上げてみると、

ぎんのないふを「つ」け「つ」ゆにし「た」「た」る
ももを「だ」して「ど」うぞめしあが「つ」「て」
「つ」れのおんな「と」さ「つ」き「と」うふを「た」べ「た」ばかり
そのきけんなかんけいをしゃし「た」
「と」おく「た」び「だ」「つ」ひ「と」がいないのはさびしい

 「連れ」の女と「とうふ」「食べた」、「遠く」「旅立つ人」--特に、そこに「た行」の音が集中して、豆腐と旅立つ人が不思議な感じで接近する。「その危険な関係を謝した」という行には最後に「た」が出てくるが、これは私には非常に印象が薄い。まるまる1行「た行」がなかったかのような印象がある。その「た行」の空白の1行が、さらに「つれの女……」と「遠く旅立つ人……」の「た行」の呼びかわしあいをくっきりさせるように思える。




北原白秋詩集 (青春の詩集/日本篇 (14))
北原 白秋,西脇 順三郎
白凰社

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