詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(195)(未刊・補遺20)

2014-10-02 10:35:07 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(195)(未刊・補遺20)2014年10月02日(木曜日)

 「引き出しより」は引き出しの中から昔の男の写真がでてきたときのことを書いている。額に入れて壁にかけようとした。それくらい思い出のある男なのだ。「だが引き出しの湿気が駄目にしていた」。「もっと大切にしまうのだった。」と後悔するが、もうどうすることもできない。「あのくちびる、あの面差し……/ああ、過去が帰るものなら……」と思う。

この写真を額に入れるのはやめよう。

駄目になったままでがまんして見てゆこう。

駄目になっていなかったとしたら、それはそれで
困っていただろう、この写真のことを聞かれる度に
言葉遣いから、声の震えからばれはしまいかと
気がかりで悩んでいただろうから。

 最終連がカヴァフィスらしいことばの動きだ。
 人の隠しごとがばれるときいろいろなことがある。何も言わなくても、目の動きを初めとする表情や、ふるまいのぎごちなさから、こころの動揺がわかるときがある。カヴァフィスはそういうことには触れず、

言葉遣いから、声の震えから

 と書いている。根っからの「ことば」の人である。しかも、その「ことば」は書きことばではない。話すことば。「口語」である。息が肉体の中から喉を通り抜けてくるときの音。ガヴァフィスは、それに耳を澄ましている。
 その音の変化から何かがばれやしまいか、と思うのは、カヴァフィスに、音の変化から何らかの秘密を感じ取った経験があるからだろう。
 カヴァフィスの詩には「口語(話しことば)」が頻繁に出てくるが、そこには「意味」だけではなく、「声の響き」も含まれているはずだ。
 中井久夫は、その「声の響き」を聞き分け、それにふさわしいことばを選びつづけている。カヴァフィスも中井久夫も、「他人の声(肉声の響き)」を聞きとる耳を持っている。「意味」も聞きとるが、耳で感情(主観)をぱっとつかまえて、それを舌にのせて表現する。そのたびに、そこに「人間」が「肉体」をもってあらわれる。
 「意味」は要約し、共有できるが「肉体」は要約できないし、共有もできない。「肉体」はひとりひとりのものである。ひとりひとりが動き、世界ができている--「全詩集」を読み通すと、そういうことが感じられる。「複数の声」が世界をにぎやかにしていることが実感できる。
                (「カヴァフィスを読む」は今回が最終回です。)




リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社

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