中井久夫訳カヴァフィスを読む(31)
「イタカ」はオデュッセウスの故郷。トロヤ戦争から帰るときの苦労を題材にしている。ただし、この詩の主人公はオデュッセウスではない。英雄ではなく、彼のまわりにいるふつうの兵士である。そしてそれはコーラスのように英雄(悲劇の主人公)の欲望を受け止め、育て、駆り立てるわけでもない。
まったくの「平民」の声を発するだけである。
この「冒険」や「新しいこと」ということばは、まるでこどもに読んで聞かせる絵本のことばのように「軽い」。欲望がない。ほんとうは何もなく、短い旅の方がいいのだ。でも、それはきっとむりだ。だから、逆のことを言っている。逆のことは、ほんとうになってほしくない。何かあっても、それは「絵本」のなかの世界のできごとだ、という具合に自分に言い聞かせている感じだ。この「軽く」「弱い」ことばの響き具合--それが平民的だ。庶民的だ。
このことばの庶民性は、たとえば「プトマイオス家の栄光」の「おれはラギデス。王。富と力で/快楽の技を完全にマスター。」と比較すれば、その「弱さ」がわかる。句点までのことばが長い、ことばの量が多い。短く言い切ってしまう強さがない。ことばを明確にするためには多くのことばが必要なのだ。それだけひとつひとつのことばが弱い。
これが庶民、平民の声だ。
「イタカ」は土地の固有名詞というよりも「故郷」の総称である。「おのおのにとって」ということばがあるように、それは各自のもの、各自別の土地。「団結」はなく、ばらばら。それが庶民。それぞれが、どうしようもない「体験」、仕方なく体験してしまったことを背負って、故郷にもどる。自分だけにしか通じない「意味」を抱えて、もどる。それを受け入れてくれるのが庶民の「故郷」というものでもある。
「イタカ」はオデュッセウスの故郷。トロヤ戦争から帰るときの苦労を題材にしている。ただし、この詩の主人公はオデュッセウスではない。英雄ではなく、彼のまわりにいるふつうの兵士である。そしてそれはコーラスのように英雄(悲劇の主人公)の欲望を受け止め、育て、駆り立てるわけでもない。
まったくの「平民」の声を発するだけである。
イタカに向けて船出するなら
祈れ、長い旅でありますように、
冒険がうんとありますように、
新しいことにたくさん出会いますように、と。
この「冒険」や「新しいこと」ということばは、まるでこどもに読んで聞かせる絵本のことばのように「軽い」。欲望がない。ほんとうは何もなく、短い旅の方がいいのだ。でも、それはきっとむりだ。だから、逆のことを言っている。逆のことは、ほんとうになってほしくない。何かあっても、それは「絵本」のなかの世界のできごとだ、という具合に自分に言い聞かせている感じだ。この「軽く」「弱い」ことばの響き具合--それが平民的だ。庶民的だ。
何年も続くのがいい旅だ。
途中でもうけて金持ちになって
年をとってからイタカの島に錨をおろすさ。
このことばの庶民性は、たとえば「プトマイオス家の栄光」の「おれはラギデス。王。富と力で/快楽の技を完全にマスター。」と比較すれば、その「弱さ」がわかる。句点までのことばが長い、ことばの量が多い。短く言い切ってしまう強さがない。ことばを明確にするためには多くのことばが必要なのだ。それだけひとつひとつのことばが弱い。
これが庶民、平民の声だ。
きみは経験をうんと仕込んで
旅の終わりには賢者になるだろう。
その時にはイタカの意味がわかる。
おのおのにとってのイタカの意味がな。
「イタカ」は土地の固有名詞というよりも「故郷」の総称である。「おのおのにとって」ということばがあるように、それは各自のもの、各自別の土地。「団結」はなく、ばらばら。それが庶民。それぞれが、どうしようもない「体験」、仕方なく体験してしまったことを背負って、故郷にもどる。自分だけにしか通じない「意味」を抱えて、もどる。それを受け入れてくれるのが庶民の「故郷」というものでもある。