詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(30)

2014-04-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(30)          2014年04月20日(月曜日)

 「プトレマイオス家の栄光」も「声」を描いている。

おれはラギデス。王。富と力で
快楽の技を完全にマスター。
マケドニア人でも野蛮人でもおれに敵う者はない。

 王が大衆にとってあこがれの的であるのは「富と権力」ゆえである、と言ってしまうと何かが違う。ひとはたぶん「富と権力」だけにあこがれるのではない。それを「ことば」にして言ってしまえることの方にあこがれる。だから、ひとは、王について語り、王の芝居を見る。(芝居をする。)それは「ことば」をとおして王になってみるということだ。
 王は、いったい、どんな「声」をしているのか。カヴァフィスの描いている声はラギデス本人の声であるかどうかわからないが、大衆が言ってみたい「声」である。「おれはラギデス。王。」ここには「動詞」が省略されている。「である」ということばが、英語で言うbe動詞が省略されている。「動詞」を言う必要がない。「王」そのものが「動詞」なのだ。ラギデスが「おれは王」と叫べば、大衆は「である」ということばを補って、そのことばを補強する。絶対のものにする。
 2行目の「マスター」ということばは、ほんらいは「マスターした」という「動詞」である。しかし、王は「動詞」を語らない。「……する(した)」とは言わない。「……である」と言う。ただし「である」は自分では言わずに、大衆に言わせる。
 ギリシャ語の詩がどうなっているか私は知らないのだが、この「マスター」と体言止めにした中井久夫の訳は、王と大衆の関係をしっかりと押さえている。「声」のあり方として押さえている。
 「王」は「動詞」であり、すべての「動詞」の頂点にあって、すべての「動詞」を支配する。大衆は「王」の「動詞」となって動く。「敵う者はない」とは、そういう意味である。絶対者にとっては、「動詞」は支配するという形でしか動かないのだ。「快楽」さえも、王が「快楽」を楽しんでいるとしたら、そのとき、その肉体で起きていることが快楽である。

おれに迫る者はない。セレウコスの息子の
安っぽい放蕩など、笑い草。

 この「比較」のことばもおもしろい。大衆にとってはセレウコスの息子の放蕩はけっして「安っぽい」ものではない。けれど、王が「安っぽい」と断定したとき、そしてそれを大衆が聞いたとき、それは大衆の「声」になる。大衆は「安っぽい」という声にあわせて合唱する。合唱することで王になった気分になる。
 そういう意味では、この詩の「声」は「王の声」というよりも、「大衆の声」である。「大衆」のなかでうごめいている欲望である。

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