詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(90)

2018-10-06 08:55:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
90 冥界と楽土

天国の豪奢も 地獄の酸鼻も 彼らが声高に歌うことはなかった

 と、この詩は始まる。
 私が読んだ古典は限られている。私は「天国の豪奢も 地獄の酸鼻も」読んだ記憶がない。
 ギリシア人にとっては「現実(いま)」だけが存在するのかもしれない。
 「いま」と「論理」。あるいは「いま」を明確に知るための「集中力」がギリシアの特徴で、「あの世」には関心がないのかもしれない。
 もっともこれは、私が「あの世」に関心がないから、ギリシア人の書いた「あの世」を読みとばしているのかもしれない。

ときに声低く語ったのは 無色の冥界 そして 音のない楽土
生前と死後を天秤に掛けて 嚇かすことは本意ではなかった

 高橋のことばを読んでも、私は何も思い出せない。
 そして、「無色」と書いたのなら、どうして「無音」ではなく「音のない」ということばになるのかなあ、と思ったりする。「音のない」と書くのなら「色のない」と書いた方が「対句」になると思うのだが、という変なことを考えたりする。
 その一方で「生前」と「死後」というのは、きっちりとした「対句」だなあ。

 「きっちりとした対句」と書いたが、私は、この二つのことばの向き合い方に、奇妙なものを感じる。私の「実感」が、ぜんぜん動かない。
 私は「生前」ということばをつかうとき、「死後」を思い浮かべたことがない。
 「死後」ではなく、「死」を思うときに「生前」ということばが出てくる。「死んで、その人がいまここにいない」と感じるときに、「生前」、生きていた以前は、という具合にその人を思う。死んだそのあと、その人がどうしているか、考えたことがない。
 「死後」というのは、他人に対しては思わない。自分が死んだら、そのあとどうなるか、と考えないでもないが、人が死んだら、その人がどうなるか、私は考えたことがない。他人について考えるときは、いつも「生きている他人」だ。

 うーん。詩の感想にならない。高橋自身が「冥界と楽土」をどうとらえているか、それがわからない。




つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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