『禮記』のつづき。さらに「哀」について。
どうしてこんなことばが出てくるのかわからない。たとえば「岩かど」。普通は「岩陰」と言わないだろうか。「岩陰に咲く」というのは、必ずしも「陰」とはかぎらないだろうけれど、岩のそばである。「岩かど」「岩かげ」は1字違いなのだけれど、「かど」の方が荒々しい。「文学」から逸脱している。この場合「文学」というのは、いままでの「文学」の定型(常套句)ということだけれど。
そうなのだ。
西脇は、文学の「常套句」を破る。そこに乱調が生まれる。そして、乱調から「もの」が生まれる。「岩かげ」では「岩」そものもが見えて来ない。「岩かげ」というすでに「文学」になってしまった「ことば」が見えるだけである。その「こば」を破り、「もの」に返す。そういう野蛮な(?)運動が西脇のことばの基本である。
「すみれの汁」というのは、すみれをつぶしたときに出てくる「汁」だろうけれど、これも強烈である。「汁」ということば単独ですみれと結びつけることは、ふつうはしないだろう。すみれを間違ってふんでしまったら、そこに小さな染みができた--涙のような染みができた、というのが「文学」であった。西脇は、そういう「文学」をひっくりかえすのである。「もの」によって。「もの」そのものの「音」によって。
こういう「破壊」があるから、「女の旅人の日記を暗くしている」というセンチメンタルもの何か新しいもののように響いてくる。
そして、唐突に、「野原も見えなくなつた」と視界の広さを変えてしまう。「センチメタル」というのは「岩陰(これは、わざと書いているのです)」とか「すみれ」とか「汁」、あるいは「日記」「暗く」というような、なんだか視界が限定されたところで動く。「狭い場」を繊細に動いて、その「狭さ」のなかに繊細な形を浮かび上がらせることが多い。
それを「野原」という広いもので、西脇は一気に破壊する。
書いてあることは(ことばは)みんな知っている。わからないことばはない。けれど、そのことばの組み合わせ方ひとつひとつが微妙に変である。「岩かど」のように、わかるけれど、そうはいわないのでは……でも、西脇の書いていることばの方が強烈だなあ、と思わせることばである。
いかずち(大)→きらめき(小)→盃(小)→海(大)
この書かれたことばのもっている「大・小」の印象の変化がおもしろいのかもしれない。大きいものが砕けて小さくなり、その小さいものが小さいものと重なって、突然大きなものになる。
そこには、何か、うまくいうことができないが「破壊」がある。秩序の「破壊」がある。「乱調」がある。
この乱れと、ことばそのもののの「音」の変化がとても美しい。
私は音読をしないが、音読をしないからかもしれないのだが、西脇のことばの「音」には、破壊と乱調と、その乱調のあとの「沈黙」の透明な音楽がある。
そして、その透明な音楽を受け止めるようにして、世界が、また一瞬のうちにかわる。
明日もまた雨がふるだろう
この変化によって、さっきの透明な音楽が、汚れから回避される。どんなに美しいものでも、西脇は「一瞬」しか、それに時間を割かない。美しい一瞬に溺れてしまわない。溺れそうになったら、それをさらに破壊する--そうすることで、「純潔」を保つのである。いさぎよいのである。
「意味」はなるのか、ないのか。まあ、関係ないなあ。「音」が、もう「音」だけで動いていく。「泥塀」を「泥ベイ」と書くと「ポポイ」になぜかつながる。それはたしかギリシャ語の「感嘆符」のようなものだと思うが、それが「悲しい」感嘆であっても、「楽しい」感嘆になってしまう。「泥ベイ」の「泥」、その「俗」というか、華麗ではないもの、華奢ではないもの、むしろ荒々しく自然なものの「素朴」な力がとてもいいのだ。
西脇は、こういう「俗」というか、地についたことばを、美しい「音」にかえる天才だと思う。西脇によって、「文学」から見捨てられたことばが、しずかな「場」を生きていたことばが、一気によみがえる。
岩かどに咲くすみれの汁は
女の旅人の日記を暗くしている
野原も見えなくなつた
どうしてこんなことばが出てくるのかわからない。たとえば「岩かど」。普通は「岩陰」と言わないだろうか。「岩陰に咲く」というのは、必ずしも「陰」とはかぎらないだろうけれど、岩のそばである。「岩かど」「岩かげ」は1字違いなのだけれど、「かど」の方が荒々しい。「文学」から逸脱している。この場合「文学」というのは、いままでの「文学」の定型(常套句)ということだけれど。
そうなのだ。
西脇は、文学の「常套句」を破る。そこに乱調が生まれる。そして、乱調から「もの」が生まれる。「岩かげ」では「岩」そものもが見えて来ない。「岩かげ」というすでに「文学」になってしまった「ことば」が見えるだけである。その「こば」を破り、「もの」に返す。そういう野蛮な(?)運動が西脇のことばの基本である。
「すみれの汁」というのは、すみれをつぶしたときに出てくる「汁」だろうけれど、これも強烈である。「汁」ということば単独ですみれと結びつけることは、ふつうはしないだろう。すみれを間違ってふんでしまったら、そこに小さな染みができた--涙のような染みができた、というのが「文学」であった。西脇は、そういう「文学」をひっくりかえすのである。「もの」によって。「もの」そのものの「音」によって。
こういう「破壊」があるから、「女の旅人の日記を暗くしている」というセンチメンタルもの何か新しいもののように響いてくる。
そして、唐突に、「野原も見えなくなつた」と視界の広さを変えてしまう。「センチメタル」というのは「岩陰(これは、わざと書いているのです)」とか「すみれ」とか「汁」、あるいは「日記」「暗く」というような、なんだか視界が限定されたところで動く。「狭い場」を繊細に動いて、その「狭さ」のなかに繊細な形を浮かび上がらせることが多い。
それを「野原」という広いもので、西脇は一気に破壊する。
麦畑の方からいかずちのきらめきが
盃に落ちて酒はあけぼのの海となる
書いてあることは(ことばは)みんな知っている。わからないことばはない。けれど、そのことばの組み合わせ方ひとつひとつが微妙に変である。「岩かど」のように、わかるけれど、そうはいわないのでは……でも、西脇の書いていることばの方が強烈だなあ、と思わせることばである。
いかずち(大)→きらめき(小)→盃(小)→海(大)
この書かれたことばのもっている「大・小」の印象の変化がおもしろいのかもしれない。大きいものが砕けて小さくなり、その小さいものが小さいものと重なって、突然大きなものになる。
そこには、何か、うまくいうことができないが「破壊」がある。秩序の「破壊」がある。「乱調」がある。
この乱れと、ことばそのもののの「音」の変化がとても美しい。
私は音読をしないが、音読をしないからかもしれないのだが、西脇のことばの「音」には、破壊と乱調と、その乱調のあとの「沈黙」の透明な音楽がある。
そして、その透明な音楽を受け止めるようにして、世界が、また一瞬のうちにかわる。
明日もまた雨がふるだろう
この変化によって、さっきの透明な音楽が、汚れから回避される。どんなに美しいものでも、西脇は「一瞬」しか、それに時間を割かない。美しい一瞬に溺れてしまわない。溺れそうになったら、それをさらに破壊する--そうすることで、「純潔」を保つのである。いさぎよいのである。
アスガルの岡にくぼむ石の髄まで滴る
こわれた泥ベイの中で種まきの話をして
いてもきこえないポポイ
桃の花が咲いても見えないポポイ
明日もまただれか眼鏡をかけて
カメラをもつた男が君をよこぎるだろう
「意味」はなるのか、ないのか。まあ、関係ないなあ。「音」が、もう「音」だけで動いていく。「泥塀」を「泥ベイ」と書くと「ポポイ」になぜかつながる。それはたしかギリシャ語の「感嘆符」のようなものだと思うが、それが「悲しい」感嘆であっても、「楽しい」感嘆になってしまう。「泥ベイ」の「泥」、その「俗」というか、華麗ではないもの、華奢ではないもの、むしろ荒々しく自然なものの「素朴」な力がとてもいいのだ。
西脇は、こういう「俗」というか、地についたことばを、美しい「音」にかえる天才だと思う。西脇によって、「文学」から見捨てられたことばが、しずかな「場」を生きていたことばが、一気によみがえる。
西脇順三郎全詩引喩集成 | |
新倉 俊一 | |
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