詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(219 )

2011-06-03 09:27:30 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。

今は溜息の橋の多い都に
ヴェネツィアのウドンを
たべている窮達をむしろ
よろこんでいるとは!

 「ヴェネツィアのウドン」。変だねえ。パスタ、スパゲティということばを西脇が知らないわけがない。けれど「わざと」書く。そして、その「わざと」の瞬間、イタリア-パスタ(スパゲティ)という「意味」が壊れる。

でも今日はサンデンで
マキアヴェリの王侯論と
シェイクスピアのトロイルスと
クレシデの中にあるユリスィーズの
王侯論の話をして来た
ばかりだがなんとしても
人間のかなしみは
宇宙神に向かつて
パンの笛のショパンの笛の
永遠の運行にすべては
流れ流れるのだ!

 ここに書かれているのも「王侯論」は、まあ、どうでもいいのだ。どうでもいいと書くと西脇の研究家から叱られそうだが、そこに「意味」があるとしても「意味」は重要ではない。詩なのだから、意味など、わかってもわからなくてもいい。意味がわかったからといって、そのことばの「音」がかわるわけではない。
 いくつもの固有名詞(カタカナ)が入り乱れた後、

王侯論の話をして来た
ばかりだがなんとしても
人間のかなしみは

 この文体の乱れたリズム--それが、とても引き立つ。というか、あ、こういう書き方をしていいの? まねしていい? そんな衝動に襲われない? 特に「ばかりだがなんとしても」という粘着力の強いねじれが気持ちがいい。(「パンの笛のショパンの笛の」というのは私にはうるさく感じられて好きにはなれないが……。)
 この不思議な、切断と、強引な接続の粘着力が呼び覚ます音楽は、次にも出てくる。

ここで思考の流れを中断しな
ければならないことはアンリー
ミショーノメスカリンの
御ふでさきの弾圧の
可憐なナデシコの花が
送られてきたからである

 ほとんど音楽の曲芸である。曲芸を曲芸として「わざと」見せているそのことばの運動が、私には楽しい。





西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会


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