『壌歌』のつづき。
「ヴェネツィアのウドン」。変だねえ。パスタ、スパゲティということばを西脇が知らないわけがない。けれど「わざと」書く。そして、その「わざと」の瞬間、イタリア-パスタ(スパゲティ)という「意味」が壊れる。
ここに書かれているのも「王侯論」は、まあ、どうでもいいのだ。どうでもいいと書くと西脇の研究家から叱られそうだが、そこに「意味」があるとしても「意味」は重要ではない。詩なのだから、意味など、わかってもわからなくてもいい。意味がわかったからといって、そのことばの「音」がかわるわけではない。
いくつもの固有名詞(カタカナ)が入り乱れた後、
この文体の乱れたリズム--それが、とても引き立つ。というか、あ、こういう書き方をしていいの? まねしていい? そんな衝動に襲われない? 特に「ばかりだがなんとしても」という粘着力の強いねじれが気持ちがいい。(「パンの笛のショパンの笛の」というのは私にはうるさく感じられて好きにはなれないが……。)
この不思議な、切断と、強引な接続の粘着力が呼び覚ます音楽は、次にも出てくる。
ほとんど音楽の曲芸である。曲芸を曲芸として「わざと」見せているそのことばの運動が、私には楽しい。
今は溜息の橋の多い都に
ヴェネツィアのウドンを
たべている窮達をむしろ
よろこんでいるとは!
「ヴェネツィアのウドン」。変だねえ。パスタ、スパゲティということばを西脇が知らないわけがない。けれど「わざと」書く。そして、その「わざと」の瞬間、イタリア-パスタ(スパゲティ)という「意味」が壊れる。
でも今日はサンデンで
マキアヴェリの王侯論と
シェイクスピアのトロイルスと
クレシデの中にあるユリスィーズの
王侯論の話をして来た
ばかりだがなんとしても
人間のかなしみは
宇宙神に向かつて
パンの笛のショパンの笛の
永遠の運行にすべては
流れ流れるのだ!
ここに書かれているのも「王侯論」は、まあ、どうでもいいのだ。どうでもいいと書くと西脇の研究家から叱られそうだが、そこに「意味」があるとしても「意味」は重要ではない。詩なのだから、意味など、わかってもわからなくてもいい。意味がわかったからといって、そのことばの「音」がかわるわけではない。
いくつもの固有名詞(カタカナ)が入り乱れた後、
王侯論の話をして来た
ばかりだがなんとしても
人間のかなしみは
この文体の乱れたリズム--それが、とても引き立つ。というか、あ、こういう書き方をしていいの? まねしていい? そんな衝動に襲われない? 特に「ばかりだがなんとしても」という粘着力の強いねじれが気持ちがいい。(「パンの笛のショパンの笛の」というのは私にはうるさく感じられて好きにはなれないが……。)
この不思議な、切断と、強引な接続の粘着力が呼び覚ます音楽は、次にも出てくる。
ここで思考の流れを中断しな
ければならないことはアンリー
ミショーノメスカリンの
御ふでさきの弾圧の
可憐なナデシコの花が
送られてきたからである
ほとんど音楽の曲芸である。曲芸を曲芸として「わざと」見せているそのことばの運動が、私には楽しい。
西脇順三郎コレクション (1) 詩集1 | |
西脇 順三郎 | |
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