詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(32) 

2014-04-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(32)          

 「瀬戸際政策」。コンスタンス帝とコンテタンティウス帝の時代の学生、ミルティアスが言ったことばをそのまま書き写す(引用する)というスタイルの詩である。ミルティアスという学生がほんとうにいたのか、彼がほんとうにそういうことを言ったのか、わからない。言いそうなことをカヴァフィスが書いてみた、ということだと思う。ここにも、独特の声がある。ミルティアスというのはシリア人で、アレクサンドリアでは身分的に少し落ち着かない状態である。半分異教徒という感じ。

「思索と瞑想がおれを強くして
情熱を臆病者みたいにおそれなくなれば、
おれさまのからだを快楽にゆだねよう。

 淫蕩に踏み出す前の「思い」が声になっているが、この声は複雑だ。「思索」「瞑想」「情熱」「臆病」「快楽」という熟語。いわば、これは教養のことばである。学生のことばであって、庶民の日常のことばではない。それに「おれ」という庶民の口語がまざる。頭で動く「ことば」と肉声がまざる。知識と肉体の声がぶつかる。
 さらに、そこに「思索(教養)」独特の「論理」がからんでくる。
 ひとは欲望のままに動いてみたい。快楽を思う存分味わってみたい。けれど、なかなかそれができない。欲望のままに動いてしまえば自分の生活がどうなるかわからない。不安である。不安が人間を欲望のままに行動することを抑制している。
 このことをカヴァフィスは「情熱」と「臆病者」ということばと、「おそれる」という動詞の中で、独自の論理に仕立て上げている。庶民(教養のないふつうの人間)は、放蕩し快楽におぼれてみたいという欲望(情熱)を、自分を壊してしまうかもしれない激情と感じ、おそれている。自分の情熱をおそれている。
 そのおそれを克服するものはなにか。思索と瞑想。淫蕩の中でおきている「こと」を「思索」のことばのように、明確で強靱なことばで把握できるようになれば、それは自己を維持していることになる。放蕩の快楽くらいでは自己はこわれない。

かねて夢みたあまたのよろこびに、
最高の大胆なエロス的欲望に、
わが血のうずく放蕩の衝動に、
何一つ恐れずにだ。--思索と瞑想で強化されて
意志力がそなわっているはずゆえに、

 エロス、肉体の悦びは、思索、瞑想という「漢字熟語」の音(声)とは対極にあるものだ。「強化」とか「意志力」とは無関係なものだ。エロスから遠い声でエロスを語る。そこに独特の音楽が生まれる。「異質」な欲望。異質なエロス。男色か。あるいは、サド・マゾのような行為か。カヴァフィスが書くと、どうしても男色を想像するけれど。

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