詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(61)

2005-11-04 15:22:06 | 詩集
荒川洋治「心理」(みすず書房)

 「風俗小説論」。書き出し。(82ページ)

   四日市市北浜田を書くこと。地域であること。

 これは何か。荒川がこの作品を書くに当たって荒川自身に課した課題である。この「課題」に「詩」がある。
 荒川が描くのはいつも「地域」である。ある土地、その広がり。広がりのなかには広がりを埋めるだけの濃密な時間がある。そして、その時間はいつも「ぬけおちている」ことが多い。


  中村くん
  なんですか丹羽さん
  「わたしはその赤ちゃんでもいいのだけれど
  いくつか書きましたが成功せず、の、書きましたと
  成功せずは、つづけるのではなく
  少し まをおいてくれないとこまるな」
  「……。………」
  「母親というものはね、
  いつもそういうものだよ
  そうしまをおいて 竹なんだ」

 「ま」は「間」だろう。
 この「ま」は「ぬけおちている」時間である。地域をきちんと描けば、そうした「ま」が浮かび上がる。母の時間、母と息子の時間、ある地域での濃密な時間――誰もが素通りしていく時間が浮かび上がる。

 荒川は「間」に敏感な詩人である。「間」を意識しながらことばを動かしていく。
 荒川の作品の「間」を丁寧に分析していけば、具体的な荒川洋治論が自然にできあがるかもしれない。――この問題は、提示するだけで、しばらくは触れない。(いずれ触れるときがくるかもしれない。)
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詩はどこにあるか(60)

2005-11-03 01:01:03 | 詩集
荒川洋治「心理」(みすず書房)

 「葡萄と皮」。62ページ。

詩「ジャワ島の、ある地図をみていると」
さきほど七つの都市が記載されているのに
ミカブミ(二一四万)が、ぬけおちていることがわかった

 「ぬけおちていることがわかった」が荒川の「詩」である。荒川は私たちの意識から抜け落ちているものを掬い上げる。ただ掬い上げるのではなく「ぬけおちていることがわかった」と明確につげる。「わかった」が荒川の長所でもあり欠点でもある。長所と欠点を分離できない「個性」である。
 「わかった」という部分がめざわりなとき、たとえば「水駅」を批判した飯島耕一の指摘となる。頭のいい詩人――という感想が生まれる。「わからないもの」を手探りで探り続ける――それが文学である、という視点に立てば、当然の指摘である。

 荒川は飯島の指摘が完全に理解できたと思う。だからこそ、荒川は長い間「わかった」を隠すように詩を書いてきた。「わかった」を隠すことが、荒川のことばの運びのひとつの特徴だった。その、遠回りをするような文体、文体を維持する意識のなかに「詩」があった。
 その意識を、なぜか、荒川はこの行では維持できなくなっている。破綻している。こうした行、ことば、書くたくないけれど書かざるを得ない行、ことばも「キイワード」「キーライン」というものだ。書き手の「真実」(正直)を告げるものだ。

 「宝石の写真」――郵便番号と秩父事件の登場人物の動き、それをつないでみるとき、現在と過去からぬけおちているものがわかる。
 わかる、あるいは、わかった。だからこそ、荒川は、その周辺をゆったりと歩き回る。そして、その歩みそのものを「詩」にしたのだった。
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詩はどこにあるか(59)

2005-11-02 00:04:47 | 詩集
荒川洋治「心理」(みすず書房)

 「心理」の31ページ、8-9行。

雑誌「世界」に「超国家主義の論理と
心理」を発表、

 「心理」を冒頭にもってくる行の「わたり」というか、ことばの分断の仕方に「詩」がある。
 丸山真男はもろちん「論理と心理」という文脈で考えている。しかし、荒川は「心理」につまずいて、それにこだわっている。つまずきが「詩」なのである。こだわりが「詩」なのである。
 つまずいたとき、そこから人は自分が本当に感じていることはなんなのか、考えていることはなんなのかを見つめ始める。
 荒川は、こういう作業をとても丁寧にことばで追っていく。

 そうした作業は、具体的には32-33ページの許さんのエピソードに集約されている。

何の関係もないことをひとつふたつ言っておくと
(これが 重要だ)
ものごとはちょうどいい具合になり

 「ちょうどいい具合」――それが世界の理想だ。
 「論理」だけでは窮屈、「心理」だけでも窮屈ということか。

 ところで、「心理」とはひとつふたつ言われた「何の関係もないこと」か。たぶん、「何の関係もいなこと」ではなく、他人にとって「何の関係もないこと」に見えてしまうもの――つまり、他人からは関係の具体性が明確には見えないものの総称が「心理」なのだ。たとえていえば、「デトロイト」で登場した「トマト」が「心理」である。

 丸山真男は(あるいは、丸山真男から荒川が吸収したもの)は、もちろん「トマト」ではない。「何の関係もないこと」でもない。

菊池寛の「源氏から西鶴に飛ぶ」に、衝撃を受けた。
――と、川端康成は書く
心理は、この論理に おどろく
「菊池のこの言葉は私の骨身にしみて、爾来、時代と芸術家の運命とを思わせてやまない」

 川端は菊池のことばにつまずき、丸山は菊池のことばにつまずいた川端につまずき、荒川は菊池のことばにつまずいた川端が発したことばにつまずいた丸山のことばにつまずく。
 「心理」とは、たぶん、そうやってつづくもの、つまずきの連鎖なのだ。あるいは連鎖のつまずきが「心理」と言い換えた方がいいかもしれない。
 35-36ページの展開を読むと、そう思ってしまう。

「丸山さーん」
なんだね
「駅はそっちです」
ああそうだ
「ただ、ひとつ心配なことがあって」
なにが?
「未熟の時代の未達成の作家って、心配で」

 荒川ほど自然に、まるで映画の1シーンのように、鮮やかに「つまずき」を提示できる詩人はいないと思う。
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詩はどこにあるか(58)

2005-11-01 14:59:05 | 詩集
唐詩三百首1(平凡社東洋文庫)

 李白「子夜歌」を読む。その三「秋歌」の3、4行目。

秋風吹不尽
総是玉関情

 「吹不尽」に立ち止まる。いつまでも吹いてくる風――ではなく、どこまでもどこまでも、遠く遠く吹いていく風、長い風が目に浮かぶ。
 その長さが「玉関」を呼び起こす。

 目加田誠は3行目を「やまず吹きくる秋の風」と訳しているが、かなり物足りない。
 秋の風は遠く遠くから立ち止まらずに私のもとまで吹いてくる、という感じではないかと思う。
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詩はどこにあるか(57)

2005-11-01 14:44:35 | 詩集
荒川洋治「心理」(みすず書房)

 「デトロイト」の書き出し。(24ページ)

  ぼうっと目の前にあるものを
  見ているとき
  その人の「見る」枠組みのようなものがある
  そこにトマトを入れる人もいるし
  他に会社の建物、故郷の山川、霜の墓地など。

 「トマト」に「詩」がある。
 ものを見る枠組みは人事や哲学、倫理のような抽象的なものばかりではない。「トマト」を物差し(定規)にして世界を見ることもあるのだ。

 「トマト」は「強いまぼろし」(27ページ)ではない。「強いまぼろし」を拒む出発点、あるいは基準である。
 太陽の光を浴びて泥臭くなっていくトマト、かぶりつくと汁が滴るトマト、あるいは日焼けした父の黒い手がもぎとる一瞬……なんでもいいのだが、その人の強い実感である。

 唐突に挿入され、けっして書き手自身が説明しないもの、書き手には説明できないもの(彼にとって、その存在が密着しすぎていて距離の取れないもの)、それが「詩」である。
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