詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉増剛造「K」

2013-03-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
吉増剛造「K」(「文藝春秋」2013年03月号)

 吉増剛造の詩は、私は苦手である。「読めない」。声に出しようがない。私は黙読しかしないが、声に出して読むことができないと(無意識的に喉と耳を働かせないと)、文字は文字のまま、ことばにならない。こういう言い方が適切かどうかわからないが、吉増のことばを読んでいると、なにか「点字」のことばを見ているような気がする。そこに「何か」があるのだろうけれど、そしてそれを読む方法を知っている人にはそれがわかるのだろうけれど、私にはとても遠い。そういう印象がある。だから、いつも困惑していた。これって、何語? まあ、吉増語なんだろうけれど。ところが、今回読んだ「K」はとてもおもしろかった。短かったせいもあるかもしれない。あっという間に読んでしまった。そして、あ、わかった、と思った。この「わかった」は自分なりに「誤読」できる、という意味なのだが……。
 「K」はルビのように傍点「、」が打たれているし、「……」のかわりに「、」が行の中央にきていたりしている。私のワープロでは、それを再現できない。私の「引用」は吉増の意図を正確に反映したものではないので、原文は雑誌で確かめてください。(傍点「、」は省略した。ほかにも送り文字など、表記をかえている部分もある。)

ナナカマド、灰神楽
雪の奥に金星が埋められていて”失意”という名がついていた
啄(ついば)むトリもいない”失意という名の金星”、、、、
幸福(しあわせ)(hapines )のpiを、啄むようにした
サミュエル・ベケットは空虚(からっぽ)(void)があるだけ
大雪の、、、(Asahikawa )もしか、、、、
Kが、傍らで囁いていたかもしれなかった
鎌倉右大臣源実朝が”玉くしげ箱根のうみはけけあれや”
と歌ったときに、、、、謎の聲がした”荊(K)君?”
何処からか、、、、

 一行目の「カ」「神」には傍点「、」が打ってある。ほかにも「金星」の「金」、「Asahikawa 」のk や、最後の「からか」の「か」にも傍点「、」がある。「か行」の「音」にこだわっている。源実朝にわざわざ「鎌倉」ということばを補っているところからも、吉増が「カ」にこだわったことがわかる。
 で、そうすると、この詩がとてもおもしろい。変な言い方だが(?)、そうなのか、吉増は「カ(か行--金星やけけれが含まれるからね」の音に刺戟を受けたのか。そしてその「カ」は「K君」というだれかの名前の音なのか……。そういうことがわかるし、カ(か行)」の音の散らばり方も音楽的。
 そして、その音楽は、きのう読んだ横山宏子の音楽が弦楽器のように切れ目のない旋律のようなものなのに対して、吉増の場合は打楽器的。大好きな音が出るまで、何かを叩いている感じがする。そして、その音さえあればそれでいいという感じ。まわりの音は、この詩の場合「K」という音を輝かせるための、連想。
 で、そこには「ついていた」「啄いばむ」というしり取りもあれば、さらに「しつい」「ついばむ」という呼応もある。
 happinesからpiを「ついばみ」、さらに文字を少し入れ換えてことでhappenにし、ベケット論を展開する部分にも「ケ(か行)」、「からっぽ(空虚)」という「音」と「意味」が交錯する。吉増にとっては、「音」こそが「意味」なのだ。「音」こそが「肉体」なのだ。

 ここからは、私の勝手な連想というか、「飛躍」なのだが。
 吉増の詩は、そのことばは、きっと「肉体」の内部から出すものではないのだ。「声」は「肉体」に従属しているものではないのだ。(私は音痴のくせに「声・ことば」を肉体から切り離してはとらえることができないが……。)もし音と肉体に関連があるとすれば、吉増は彼自身の肉体を楽器と考えている。「意味」のあることばを発するというよりも、「意味」を超えた「音」を出すための特別な楽器--世界でたったひとつの楽器としての肉体という器官。この詩では、Kという音をより正確に出すために、肉体を酷使している。肉体が覚えている「K」を、自分の肉体を叩いて甦らせようとしている。
 そういうふうに自分の肉体を叩くとき。
 さっき私は吉増の「音」を打楽器といったが、吉増にとって、何かを叩き、そこから気に入った音が飛び出したときは、「肉体」の外にあるその「叩いたもの(叩かれて音をだしたもの)」も「肉体」なのだ。なぜなら、吉増が「叩く」ということ、「肉体」をつかうことで、はじめてその「音」は誕生したのだから。「叩く」ことは外にある「音」を肉体に取り込む作業でもあるのだ。叩くことで肉体の外と肉体の内部が「共鳴」する。
 吉増の「肉体」は「打楽器」のなかへ侵入していく。「打楽器」そのものになる。
 ことばを「打楽器」としてつかっている。
 「喉」は(たぶん)、瞬間的にはひとつの音しか出せない。つまり「か」と言っているとき同時に「だ」とは言えない。けれど「打楽器」なら、そういうことはない。左手でガラスを破り、右手で水を叩く、左足では木を蹴る、右足では……と言うことができる。複数の音をひとりだ出すことができる。複数だから、そのとき、そこに「複数の沈黙」も同時に生み出すことができる。
 打楽器の複数の音と複数の沈黙の同居、沈黙と拮抗する打楽器としての「詩音楽」という視点から吉増の詩を読むとおもしろいかもしれない。



裸のメモ
吉増 剛造
書肆山田
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横山宏子「この秋もなにごともなかったように」ほか

2013-03-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
横山宏子「この秋もなにごともなかったように」ほか(「回游」46、2013年01月05日発行)

 横山宏子「この秋もなにごともなかったように」の1連目。

まちなかであなたを見かけた
歳をとってからのあなたに会ったことはない
たしかめようもない
まとまりのないそのとしつき
あなたに似たひとだっただけかもしれない
きっとそうにちがいない それでもいいのだ

 この連の「まとまりのないそのとしつき」、この1行に私はとても引きつけられた。どこに? と問われると、かなり答えるのがむずかしい。というか、答えるのは簡単なのだが、そのあとの説明がむずかしい。
 音が私の肉体にぴったりくるのである。
 詩を読むとき、何に引きつけられるかというと、私は「音」の場合が多い。「音」があわないと、読み進むことができない。私は黙読しかしないので、この「音」の説明がややこしいのだが、黙読しながら肉体が感じる音があわないと、どうもつらいのである。

 これは感覚的なことなので、私の感じていることの説明になるかどうかわからないが……。
 私がふっと引きつけられた行までの音の動きを見ていくと、1行目は「あ」の母音が明るく響く。2行目は「歳をとってからの」のなかに「お」が多いのだけれど、後半は再び「あ」。3行目も「あ」。4行目は「あ」と「お」がからみあって、ふっと肉体の深いところを刺戟する。「そ・の・と」と「お」がつづき、そのあとにふっと「あ」でも「お」でもない音がつづくところが、瞬間的に、「いま/ここ」を離れる感じがする。
 その「音」の変化と、そこで展開する「意味」の変化が重なり合う。その感じが、意味の「変化」と「音」の変化の一致が、「意味」を「頭」ではなく、「肉体」へ運んでくる。「意味」にならない何か、いや「意味」以前の、何らかの動き(変化)を「肉体」に感じさせる。--その感じ。「きっとそうにちがいない それでもいいのだ」という追いかけるリズムを肉体にしっかり迫ってくる。
 こういう「感覚の意見」めいたことをどれだけ書いてもしようがないのかもしれないけれど。さらにしつこく補足すると。
 「まとまりがたいそのとしつき」の「その」。「その」とは何かを指し示すことばだけれど、何かを意識的に指し示すことによって、その何かが少し「肉体」から離れる。「離れる」というのは変かもしれないけれど、一種の「客観化」のようなものが起きる。
 「いま/ここ」に起きている「こと」から、その「こと」が「いま/ここではない」ものへと離れてゆき、「いま/ここ」と「いま/ここでない」が二重になる。そのあいだで「肉体」がゆらぐ。どっちへいこうか。その両方にひっぱられて、「いま/ここ」が「いまここ」でありながら「いま/ここではない」になる。
 その「肉体」の感じが、ふと昔知っている「あなた」に会った瞬間に、肉体が感じることと重なる。「意味」だけではなく、「音」の印象が、それにぴったり重なる。

 どのことばにも、「意味」だけではなく、「音」の印象がある。耳を刺戟し、喉を刺戟する響きがある。

またたくまに新しい茎をのばした
この秋もなにごともなかったかのように
はや紅葉の花がひとつづきしだれ咲く
すこしの風にもゆらめきもだえ
おさえがたく戦きうねる萩の花
崩れては波立ちもりあがり崩れて

 この、「意味」の繰り返しと「音」のうねるような重複感。

いつもなにかの予兆のなかにあるのだろうか
そうでなかったとしたら
ちぎれていくきのうきょうあした
なおもたち騒いでくる風の
最大瞬間風速五〇メートルの台風が迫ってくる

 「ちぎれていくきのうきょうあした」というひらがなの「音」の連続、ほんとうは違う「もの」なのに連続させることで「ひとつ」にしてしまう粘着力、あるいは凹凸を磨いてならしていくなめらかな力に対して、それをさっぱり吹き払う「最大瞬間風速五〇メートルの台風が迫ってくる」の漢字(漢語?)の音の気持ちよさ。ただなめらかにつながるのではなく、つながりながらもどこか独立(孤立)した清潔感。

 何が書かれているか、ではなく、そこにある「音」が私には気持ちがいい。描かれていることがら・対象と横山の肉体の距離が「音」になっているような感じがする。
 と書いてしまうと、ほんとうに、単なる印象を書いているだけのような気もするが。でも、それは私のほんとうに感じていることなのだ。
 さらに直感だけでつけくわえると。
 横山のこの「音」は単に日本語の音だけを聞いてつかみ取ったものではないような感じがする。たとえば英語の先生とか--日常的に非日常の音に触れ合いながら自分の「音」を確かめた人のような気がする。何かしら日常の音をいったん洗い落として組み立てたような清潔な距離感がある。



 江田重信「無窮変転」。この人も独自の音を持っている。

旧縁ありふれの
回想しみみみゆさぶられ
詩歌ひしひしの昔つながりにんげんから
草木虫魚ひきくらべの
かたすみ思い知らされ

 「の」多用。これは西脇順三郎もやっているが、西脇の「の」の「音」とはかなり違って聞こえる。西脇の「の」はもっと肉体的(私には)。「もの(具体)」が「肉体」にぶつかってくる感じがする。「もの」を「肉体」にしてしまう「の」といえばいいのだろうか。「の」によって、「いま/ここ」にある「もの」が人間の肉体と対等になる。
 江田の場合は、「もの」ではなく「抽象」を「肉体」でつかまえに行く感じ。対等ではない。主体として「肉体」があり、それが「もの」を接続させる、「もの」のなかに「肉体」を持ち込む感じ。西脇とは動きが逆、という印象。
 きっと、私の書いていることは、私以外の人には何のことかわからないと思う。実は、私もわからないのだが。何か、ことばにできないもの、ことばになる前のことを、「音」に感じて、そのことをいいたいのだが……。

 (あす、吉増剛造に触れながらつづきを書くつもり。あくまで、「つもり」なので気が変わるかもしれない。)



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谷内 修三
思潮社
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山田由紀乃「沈丁花」

2013-03-07 23:59:59 | 現代詩講座
山田由紀乃「沈丁花」(「現代詩講座@リードカフェ」2013年02月18日)

 2月の「現代詩講座」は「チャタレー夫人」を50ページまで読んで、そこからインスピレーションを得たものを書いてみよう、というのがテーマ。もともと「詩は嘘つき。嘘を書いてみよう」ということを出発しているのだが、なかなか「嘘」を書きにくいようなので、わざとそういうテーマにしてみたのだが。
 山田由紀乃「沈丁花」は50ページまでのどの行を利用したのか、よくわからないが、次のような作品。

沈丁花の香りがたちこめていた
バス停のベンチにとても老いた女(ひと)が掛けていた
わたしが横に掛けたとき
悲痛な寒々としたため息がそのひとからもれた

身体の内というよりも
命の内側の底から
吐き出されたもののように
わたしには聞こえた
バスが来てそのひとはステップを上がった

残ったわたしの足元にさっきのため息が
お婆さんの雛形のような姿で歩きだした
わたしはつい後を追っていた

川のほとりに明るむ窓が見えた
廃材を集めて組み立てたような家の造りの
壁も窓も温もりがある
「ただいま ここに帰ってくれば身も心も幸福になる
ねえ あなた」

男はうんうんとうなずいて
ここにも沈丁花の香りがたちこめている

 わからないところもある--というより、わからないところだらけなのだが、「わかる」。特に3連目が「わかる」。
 「残ったわたしの足元にさっきのため息が/お婆さんの雛形のような姿で歩きだした」というのは、文法的には変である。変なのだけれど……ベンチにいっしょに腰かけていた女がバスに乗って去っていく。ベンチに残ったわたしの足元にため息が「残っている」。そして、そのため息がお婆さんのような形で歩きだした、と知らず知らずのうちに読んでいる。「残った」ため息と、「残ったわたし」が奇妙な形で交錯し、重なる。
 で、歩き出したのが「ため息」なのか、それとも「わたし」なのか、よく「わからない」。でも、「わたし」がその「ため息」の後を追ったということが「わかる」。追っているうちに、「わたし」はより「ため息」に近づいたかもしれない。
 こういう「主語」の混同が、私は好きである。その「主語」の混同(融合)に私自身がのみこまれていく。そんな感じがする。
 そして、そういう「主語」の融合の後で、ほら、

川のほとりに明るむ窓が見えた

 という行が出てきたとき、それは「わたし(山田)」が見たのか、「ため息お婆さん」が見たのか、わからない。「ただいま」と言ったのは、「ためいきお婆さん」ではなく「わたし」のように思えてしまう。廃材の家に温もりを感じているのは「ため息お婆さん」ではなく「わたし」に思える。
 男がうんうんとうなずいているのを見ているのは「ため息お婆さん」ではなく「わたし」のように思える。それがたとえ「ため息お婆さん」の連れ合いの男だとしても、「わたし」の男のように見える。
 なぜ、そういうことが起きるかというと。
 そこには「こと」があるからだね。「もの」ではなく「こと」がある。
 外から帰る、家に帰るという「こと」がある。「家に帰ること」は「ため息お婆さん」にも「わたし」にも共通する「こと」である。そして帰ったら「ただいま」という「こと」も共通する。男がそれに「うんうんとうなずく」という「こと」も共通する。
 「こと」が共通すると、そこには「わたし」が紛れ込むのである。その「こと」をしているのは誰かであると同時に「わたし」である。「わたし」の「肉体」が覚えている「こと」が重なり、主語をすりかえる。
 これは、3連目から突然動きだしたものではない。
 1連目から始まっている。バス停でお婆さんが腰かけている。横に座ると、ため息が聞こえる。それは「そのひとからもれた」のだけれど、それを聞いた瞬間、「わたし」も同じため息をもらしたという「こと」を思い出す。ため息をもらした「こと」がなければ、他人がため息をもらしても、それに対して人は反応はしない。すくなくとも、「悲痛な寒々とした」という印象はもたない。
 それは、私がいつも書く例でいえば、道で誰かが倒れて腹を抱えて呻いている。それを見ると、あ、この人は腹が痛いのだと思う。自分の腹が痛いわけではないのに、それがわかる。それは自分も腹が痛いという「こと」を体験し、肉体がそれを覚えているからだ。「うんうん」は痛い。「腹を抱える」は痛い。
 --そして、ある種のため息は「悲痛」であり、「寒々としている」。それは「悲痛」で「寒々しい」ため息をもらした「こと」があるから、自然に感じ取ってしまうのだ。ことばでお婆さんが「悲痛」だと言ったわけではない。「寒々しい」と言ったわけではない。けれど「肉体」はそれをわかってしまう。そして「わかった」ときから、二人は二人でありながら「ひとり」である。「ひとり」であるからこそ、そこに残った「ため息」を吸い込んで、「ため息お婆さん」になって歩いていくのである。
 そして「ため息」をついていたのだけれど、わが家で「ただいま」と声を掛ければ、そのときから「わたし」は「ため息お婆さん」であるだけではなく、その帰りを待っていた男にもなる。
 ここに書かれていることは「ため息」のつらさなのかもしれないが、それと矛盾する「あたたかさ」もある。それが不思議な主語の「融合」によって、知らず知らずに生まれている。あ、これが「いきる」ということかなあ……。
 そんな感じになる。

 ところで、この詩は、きのう読んだ広瀬弓の詩ではないけれど、ほんとうはまだつづきがある。あと2連ある。それは、山田が「この詩はほんとうにあったこと」というふうに説明したけれど……。うーん。「ほんとう」かどうかは、意味がない。そこに書かれていることに、読者が「一体感」を覚えれば、それは「ほんとう」。「一体感」が消えれば、それが「ほんとう」だとしても作り物。
 「説明」や「補足」を、断ち切ってしまった方が、「ほんとう」は動きはじめる。「肉体」のなかに入ってきて、読者の「肉体」が「覚えていること」を動かす。

 もし、このあとにあと2連書くとしたら、どんな具合にことばを動かすか。そういうことを考えると、そこからまた詩が始まるかもしれない。



 次回の「現代詩講座@ブックカフェ」も「チャタレー夫人の恋人」のつづき。チャタレー夫人になるのもいいし、森番になるのもいいし、一本の木、木漏れ日になってみるのもいい。どんな「こと」のなかに自分の「こと」を重ねて世界をつかみ取るか。そこで書かれることは「嘘」を出発点としているが、どうしても「ほんとう」が出てくる瞬間がある。そこが、きっとおもしろい。






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谷内 修三
思潮社
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広瀬弓「でいがん」

2013-03-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
広瀬弓「でいがん」(「ゆんで」6、2013年03月発行)

 広瀬弓「でいがん」は、きのう読んだヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」をひとりで書いているようなところがある。

岩場の影にふたり腰を下ろした
いつの間にか拾った泥岩を
その人はふたつに割って
断面を開いて見せた

むりやり押し開かれた
乾いた灰色の内部は
湿り気のある深い色から
奥のつややかな紅色につづいて
その先の宇宙につづいていた
見られている
わたしは目をそらした

暗いところから現れた
秘め色に指を触れず
関東ロームや
集めた石器のことを話ながら
その人は少し笑った

泥眼という能面は
嫉妬する女や女菩薩の面だ
眼に金泥がうすく塗ってある

 「でいがん」は「泥岩」であり「泥眼」である。ふたつの違ったものがひとつの音のなかでぶつかり、それが衝突ではなく「遠心・求心」に見える。感じられる。おもわず、あ、これはいいなあ。いい詩だなあ、と思い、読み返してしまう。何度でも。そういう詩である。
 で、なぜそんなにいいのかなあと、もう一度読み返してみると、この「泥岩」と「泥眼」が、単なることばの出会いではなく、つまり「頭」でつくられた出会いではなく、そのことばが広瀬の肉体をちゃんとくぐっているからだということがわかる。
 泥岩を「ふたつに割って/断面を開いて見せる」。その「ふたつに割って」は「むりやり押し開かれた」と言いなおされる。「割る」から「割られる」への立場の移行があって、そのとき「わたし」は「割られ/開かれた」立場で泥岩の「断面」を見ている。「割った」人の立場とは違ったところ、逆のベクトルから見ている。「割る/割られる(開かれる)」の往復運動(遠心・求心の結合)から、「宇宙」を感じる。それは「見える」のではなく、むしろ「わたし(広瀬)」の肉体の感じである。
 「遠心・求心」が結合しているからこそ、そこでは「見る/見られる」の区別もあいまいになる。なくなる。見ているはずなのに「見られている」と感じてしまう。だれに? 泥岩に? いや、同時に「自分自身」からも見られている。
 見てしまった瞬間、その見たものを「肉体」が共有し、見たものに自分の「肉体」を共有され、見たものに共有された「わたしの肉体」から「わたし」が見られている。そこには遠心・求心の結合があり、それを切断・分離して整理することはできない。
 「暗いところから現れた」のは「地学」だけではない。広瀬の女の「肉体」も現れたのである。自分自身が目をそらしていた女の「肉体の地学」。「宇宙」とつながる(つづいている)「肉体の地学」。「肉体の天文学」。
 「割る」「開く」「湿り気」「つややか」「暗い」「秘め色」「触れる(ず)」--それはどれもこれも「肉体の宇宙・肉体の地学」である。女の宇宙、女の地学である。
 そういうことばが肉体が「覚えていること」をかき混ぜる。そして噴出させる。そして、そこに「泥眼」が、結晶のようにしてあらわれる。いや、「泥眼」がいままで肉体がくぐってきたものを、「嫉妬」「菩薩」ということばに結晶させるのか。両方である。それが「遠心・求心」である。区別がない。

 この詩には、引用部分のあとに、もう1連ある。1行だけの1連である。
 その最後の1行はいらないかもしれない。もし必要だとしても、この1行ではないと思う。それまでの、ぶつかって、ぶつかって、見抜いて見抜いて、やっとつかみとったということばの強さ、肉体と直結したことばの強さが最後の1行には欠けている。それをそのまま引用すると、この作品の強さが半減すると思った。
 それで、あえて引用しなかった。




水を撒くティルル
広瀬 弓
思潮社
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ヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」

2013-03-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
ヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」(「現代詩手帖」2013年03月号)

 ヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」は対詩である。「ヴォルのスタイルを真似て、対詩を試みてみた。」と谷川が書いている。
 そのヴォルの詩がとてもおもしろかった。ヴォルは俳句が好きだということだが、まさにそれは俳句の世界だ。

私は
そんなに
強くない、君は言う。僕は言う:それは
違う

強い弱いの
問題
じゃない、
問題は

別:踏み外すこと
君自身の
意志
踏み外そうとする

踏み外している限り
私はバラバラに
なりたくない
君は


言う、木の階段
のように。
木でできた
階段は

ずっと
木の
ままだ、僕は言う、万一
壊れたとしても

バラバラに。階段が
階段であった以前、
それは一本の松の木だった
森の中の。

 「きみ」と「僕」が会話している。ふたりの発言は1連4行ずつの構成のなかで、どれがだれの発言か、よくわからなくなる。たぶん、「僕」は「踏み外すこと(自分の意志で自分という「枠」を越えて自分ではなくなること)が問題なのだ(重要なのだ)と君に言うのだが、君は「そんなことをしたら自分というものがバラバラなる。それはいやだ。木の階段のように形(枠)のあるものでいたい。」と答える。それに対して僕はもう一度言う。「木の階段は壊れてバラバラになったとしても、それは階段以前の、森の中の一本の松の木という原型にもどるだけだ。木であることにかわりはない」。
 この階段が壊れても、それは森の中の木であったこと、そして思い出すとき、その木という存在になることにかわりはない。--この木と階段と森の中の松が、ことばのなかで往復し、そうすることで世界の2点、つまり階段のある場所と森の中が、松の木という存在に結晶する。そして、その松の木は松の木でありながら森そのものとも呼吸をかわす。それは階段が森と呼応するのに重なり合う。うまくいえないが、そこには求心と遠心がある。出会って、ぶつかって、ぶつかりあいのなかで求心(階段)と遠心(森)に分裂し、同時に一つになる。そういう「錯覚(?)」のようなものが、瞬間的にあらわれる。
 矛盾のなかに、何か、ビジョン(幻)を見てしまう。そしてそれが、二人の会話のどれをだれが言ったのかよくわからないのと混じり合い(わたしは便宜上整理してみたけれど……)、この美しい幻が「僕」と「君」とで共有されるのを感じる。言った瞬間、聞いた瞬間、そのことばは二人のものになる。同じようにそれを読んだ瞬間、それは読者(私、谷内)のものにもなる。瞬間的に共有が置き、すべてが融合し、「宇宙」になる。
 まさに、遠心・求心。
 ほう、と私はため息がもれた。

 谷川は、この詩に、次の詩を向き合わせている。

釘は嫌だ
と木は言った、
が その声は鋸には
聞こえなかった。

これは暗喩かね
私は訊く、
詩人は言う
落ち葉の上で
単なる事実です。

やがていつか
木は階段として
小学生たちの通路
となる、
下から上へ
上から下へ
それが自由。

言葉は嫌だ
と階段は言う、
が その声は詩人には
聞こえなかった。

 わたしが求心・遠心と呼んだものを谷川は「下から上へ/上から下へ」という往復運動で表現している。そうすることでヴォルの詩と重なる。もちろん「木の階段」という「もの」でも重なり合うのだが、ウォルが「ここ」と「ここではない森」の水平方向での遠心・求心を展開するのに対して、谷川は上下(垂直)の方向に遠心・求心の運動をぶつけることで、世界を立体的にする。(上下が立体ではないかという人もいるかもしれないけれど、一本の糸の上下もある。水平と垂直が出会うことで、立体的な世界になる。)
 ほう。
 ちょっと感心するけれど、ちょっと意味が強すぎない?

 たぶん、この詩はもっと違う感じ、もっと多角的に読まれるべきなのだろう。読むべきなのだろう。
 谷川の書いている「詩人」とはだれのことだろうか。2連目の詩人はヴォルに見える。そのとき、「私」とは谷川自身である。谷川はヴォルに、あの詩は「暗喩」として書いているのかと質問した。それに対してヴォルは「単なる事実」と答えた。
 遠心・求心の運動は「暗喩」ではなく、「事実」である。あ、これこそ、俳句の精神なのだが。
 その「事実」について、谷川は別の「事実」をぶつける。階段を木にもどすのではなく、階段のもう一つの「事実」、「通路」という「機能」をぶつける。そうすると「上下運動」という「事実」が「ある」。
 ヴォルの遠心・求心は、いわば精神の運動。谷川の上下は肉体の運動。--のように見えて、実は逆かもしれない。ヴォルを読んだとき、わたしは肉体が解放される感じ、私自身の肉体が消えて、森と木に融合し一体になっているのを感じ、そこで起きていることを肉体的に理解したけれど、谷川のことばではそうい有漢字になれない。谷川のことばは精神的(頭脳的?)で、それを読むとき、私は「頭」で一生懸命「意味」を追っている。「意味」を追いながら、「意味」のなかでヴォルの世界と結び合わせている。
 重なり合いながら、重なり合わない。ここに、なんとも不思議な「ずれ」のようなものがある。
 これが、この詩の変なところ(?)なのだが、この変なところが、また変に魅力的である。ヴォルに単に「調和」してみせるのではなく、ずれをわざとつくりだして見せる。
 そして、それは「この詩の変なところ」と私は書いたのだが、谷川の詩を奇妙に感じさせることで、よりヴォルの詩を美しく感じさせる。(これは、私が「頭」よりも「肉体」に親近感を覚えるからかもしれない。私の「性癖」かもしれない。)
 で、なんといえばいいのだろうか。谷川の書いている詩は「あいさつ」に見える。あなたの詩に感動しました。それで私はこんな詩を書いてみましたが、という感じ。

 というのも(というのは、私独特の、とんでもない「飛躍」と「誤読」なのだが。)
 というのも最後の連を読みながら、私は「詩人」が入り混じっているように感じるのだ。最後の「詩人」って、だれ? ヴォル? それでは、「言葉は嫌だ/と階段は言う」はだれのことば? ヴォル? 谷川? いや、それは「階段」が言ったこと。
 でも、その階段はだれの階段? ヴォルの階段? 谷川の階段?
 これは、入り混じっていて、どっちでもいいのだ。どっちでも好きなふうに読んでいいのだ--というのは乱暴だけれど、私は好きなふうに読む。それが「正解」(谷川の意図した通り)かどうかは気にしない。気にできない。
 谷川は、ヴォルの詩にあわせて詩を書いてみた。でも、それは私にはちょっと奇妙な感じ。谷川もそう感じているのかも……。うまく調和しているとはいえない。
 その詩を読んだ「階段(これは、ヴォルの階段でも、谷川の階段でもいい)」は、谷川の詩の「言葉」は「自分(階段)」にはずれてしまって感じられる。「嫌」だ、と言っている。
 そう主張しているのだが、その詩を書いた詩人(谷川)には、聞こえなかった。--と、谷川は「わざと」書いている。誇張して書いている。
 あ、でも……。
 聞こえたから、それを階段の不満として谷川はことばにしている。自分(谷川)に対する不満を「階段」に語らせている。
 階段(木)と森(松の木)の遠心・求心があり、階段の上下の運動としての遠心・求心があり、事実と言葉(暗喩)の遠心・求心があり、さらにヴォルと谷川の遠心・求心(?)があり、--つまり、瞬間的な往復運動、だれがだれであるか区別は必要はなく、往復するという運動、遠心・求心という運動があり……。
 そういうことをしながら、谷川は、ヴォルの詩に敬意を払っている。ヴォルの階段は、谷川の階段の詩・言葉を嫌だと言っているけれど、谷川にはそれは聞こえなかった、という形でヴォルの詩に軍配を上げるというかたちで「あいさつ」をしているように感じられる。「階段」も「木」も「森」も、きっと谷川の詩よりもヴォルの詩の方を好きだよというに違いない、と「あいさつ」しているように思える。




現代詩手帖 2013年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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川口晴美「幻のボート」

2013-03-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川口晴美「幻のボート」(「現代詩手帖」2013年03月号)

 川口晴美「幻のボート」は、川口の高校時代の思い出とアン・リー監督「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227 日」を交錯させた作品である。高校のボート部の練習を見ながら、もしボートで孔雀、猿、羊、馬、虎と漂流するとしたら。そして、その動物を一匹ずつ捨てなければならないとしたら、どういう順序で捨てるか--そういうことを想像する。
 川口は最後まで虎は捨てないだろうと言う。

わたしの虎はわたしを食い殺すだろうか
そうかもしれない
そうかもしれないけれど死ぬときはボートの底に寄り添って
横たわるふたつの く の字みたいに重なって
わたしの背中はかたい毛皮で覆われ
虎のお腹にわたしは仕舞われる

 「食い殺すかもしれない」と想像し、「そうかもしれない」とそれを肯定し、「そうかもしれないけれど」とその肯定の向こうへ進んでいく。
 この感じがいい。
 想像の向こうには何がある? 想像を加速させると、どこへ飛び出す? 抽象へ? 形而上学へ? 哲学へ?
 そうではなくて、「肉体」へぶつかる。
 この描写は、たとえば前半の、ボート部が練習する川の描写と比べると、とても「親身」がある。

沈みかける日の光に照らされて眩しい水が
揺れながら薔薇色を川間で滲ませていく
ひたひたと夜が近づく

 ここには視力の幻想があるけれど、肉体がない。「ひたひたと夜が近づく」って、その「ひたひた」は何? 足音? ボートなのに? 水の流れの「ひたひた」?
 よくわからない。わからないのは、そこに「肉体」がなくて、「頭」が動いているからだ、「頭」でことばを動かしているからだ、と私は思う。
 それに比べると、「く の字みたいに重なって」の「く」でさえ「視力」を超えている。自分が「くの字」になっているのを自分の目で見ることはできない。その「く」は「肉体」の全身でつかんでいる「く」である。「視覚」さえ、頭から足までの全身に共有されている。
 虎に食われることは腹に「仕舞われる」ことであり、「仕舞われる」(大事にされる)という形で、「わたし」と虎は一体になる。「わたし」は虎そのものになる。「背中は虎のかたい毛皮に覆われ」る。その「かたい」がいいなあ。少しも「硬く」ない。「かたい」と書くと、それは「やわらかい」。その「かたい=やわらかい」の矛盾のなかに、「肉体」がある。言い換えると。自分の肉体を外部から「かたく」守る。守るために「かたい」。それが「かたい」から肉体の内部、毛皮の内部は「やわらかい」ということが、「かたい」のなかに結びついている。その「かたい」と深く結びついたやわらかさを、虎のしなやかさを、川口は全身で感じる。「わたし」は虎になる。

 そのあと、川口は「捨てる」ということについて考える。突然、ことばが「捨てる」という「こと」の方向へ動いていく。「虎」と一体になった「わたし」。そのとき「捨てる」とはどういうことなのだろうか……。

最初に捨てたのは黒い鞄だった
制服も捨てた
しばらくしてから教科書もぜんぶ
ぶつりげんだいこくごすうがくちりせかいしにほんしえいごせいぶつかがく
紙と紙に記された文字にすぎないものはなくなって
習い覚えたことも大半は忘れていくけれど
忘れないこともあって
それはたぶんわたしのいちぶになっているから切り離せないそれでも
捨てたということになるのだろうか

 「わたし」の肉体の外にあるもの、肉体以外のもの、鞄、制服、「頭」でつかった教科書(学科)を捨てるというこの数行がこの作品のもうひとつのハイライトだと思うが、ここにも先に触れた部分と同じようなことばの動きがある。

大半は忘れていくけれど
忘れないこともあって

 「忘れる/忘れない」ということばの繰り返しがあって、同じことばを繰り返しながら、次元を変える。次元が変わる。何かが飛躍する。飛躍しながら「忘れる」ということばで接続する。その切断と接続。
 その「わすれない/こと」を「わたしのいちぶになっている」と川口は言う。ちょうど虎の腹に仕舞われて、虎の一部になってしまったように。そして、その「一部」は「一部」であるけれど、切り離せない。「くの字」の体のように、全体であることによって「一部」がなりたっている。鞄をもったこと、制服を着たこと、教科書を開き、読んだこと--その「持つ」「着る」「開く」「読む」という動詞が肉体である。
 動詞と動詞を具体化する肉体は残る。肉体は動詞を覚えている。動詞はそれぞれの動詞によって肉体の「一部」をつかう(持つなら手、読むなら目という具合に)が、それが「一部」であるからといって切り離せない。
 「一部」が絶対に「切り離せない」ものだとするならば、それは「捨てた」ことにはならない。だとしたら、虎に食べられ、虎の一部になるということは、自分を捨てるということにはならない。生きつづけるということになる。
 あ、そんなふうに理屈っぽく書いているわけではないのだけれど、まあ、そういうことだろうなあ。

 で、やっぱりいちばんおもしろいのは「く の字みたいに重なって」だね。その「く」をとらえる「肉体」。あらゆる「一部」がつながって、「目」を超えて「目」になる。これが、たぶん、「覚える」ということ。「捨てない」ということなんだろうなあ。



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谷川俊太郎「そのあと」

2013-03-04 17:19:44 | 
谷川俊太郎「そのあと」(「朝日新聞」2013年03月04日夕刊)

そのあと

そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべて終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある

そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている

そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に

 「意味」の強い詩、意味を考え、意味を味わう詩である。そのとき意味を考え、味わうのは「頭」なのかもしれないが、その「頭」を「こころ」に替える――というのが谷川の特徴なのだと思う。その移行を「ひとりひとりの心に」と、「心」ということばを書くことでスムーズに誘導する。
 でも、この詩でおもしろいのは、2連目の「青くひろがっている」の「青」だね。
なぜ青?
分からないけれど、私は納得してしまう。そしてそのときの青というは強い青、深い青ではなくて、きっと水色に近いやわらかい色だと思う。
 これは、もちろん私の「誤読」。
 他のことばの影響を受けながら、私の肉体が引っ張り出してきた、ぼんやりした「青」。「霧の中の青」と言い換えることができる。
 「そのあと」があることは、私もなんとなく「覚えている」のだと思う。その「覚えていること」と谷川のことばが重なると、その「青」になんとなく、やわらかな青が重なる。夏の強烈な海の青じゃなくて。でも、秋の澄み切った青空の色なら、その青でもいいかな・・・。あるいは谷川が「宇宙の孤独」というときの、その青でもいいかなあ・・・。青がどんどんかわってきて、広がる。
 この「広がり」。どんどん「あいまい」になるのだけれど、あいまいになるほど「共感」が強くなるという、変な要素がない?
 この変なところが詩なのだと思う。
 デザインの現場なんかでは、青がどういう青か特定できないと仕事にならないけれど、詩ではそれぞれが勝手な青を思い浮かべ、それも思いついた先から違う青を感じ、要するに「誤読」が増えていくにしたがって親近感が増してくる、という変なところがあるね。
 結局、その「青」はどんな青――なんてわからないけれど、この「青」といっているところが好き。
 詩はそうやって好きになればそれでいいんだろうなあ。
 「そのあと」は、そうだね、谷川が書いているように「ひとりひとり」の問題。




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安田有「日々成長」

2013-03-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
安田有「日々成長」(「LEIDEN雷電」3、2013年02月05日発行)

 「誤読」の楽しみ--というものに、私はとりつかれている。「誤読」すると、そこに書かれていることがとても楽しくなる。
 安田有「日々成長」は「誤読」しようがないような簡単・明瞭(?)な詩である。

睡蓮のうえに
三年
堂々たるトノサマになった
とびこむ水の音
一匹、二匹、三匹
いつのまに増えたのか
子どもが掬ってきたおたまじゃくしはたしか一匹
小指の爪ほどの蛙となって睡蓮によじ登っていた
「ココハ……ココ…ココ」
都会のちいさい庭池に閉じられて
ずっと生きてきた
独り身のやせ蛙
(心配だった)
いつからこんな賑やかさ

 子どもがとってきたおたまじゃくしが大きくなった。知らないうちに数も増えた。そういう詩である。「子ども」というのは安田の子どもである。--これはだれが読んでもそう思う。そして、私もそう思って読んでいたのだが。
 この詩の最後がちょっとおもしろくて。

このまま元気でいてくれよ
いつか
あたらしいおたまじゃくし……ユラフララ
ふふふふふ
金魚に尻尾(おしり)をつつかれないように、ね

 この最後の部分に対して感想を書こうと思って詩を読み返していたら。
 あら、「誤読」してしまう。
 1連目の「子ども」が安田の子どもではなく、トノサマガエルの子どもになってしまう。なぜだか、トノサマカエルの子ども(?)がおたまじゃくしを掬ってきた--という具合に感じてしまう。そんなことは現実にはありえないのだけれど、そう思ってしまって、それでこの詩がよけいに楽しくなる。
 なぜこんな「誤読」をしてしまうかというと、最後の連に関係している。

あたらしいおたまじゃくし……ユラフララ
ふふふふふ
金魚に尻尾(おしり)をつつかれないように、ね

 というのは、安田の視点なのだが、どうも私はそれが安田の「肉体」ではなく、トノサマカエルの「肉体」、いやトノサマカエルが子どもだったときの、つまりおたまじゃくしだったときの「肉体」をくぐりぬけたことばに思えるからである。
 金魚におしりをつつかれたことを安田の「肉体」は覚えているはずがない。安田は人間なのだから。それを覚えているのはおたまじゃくしだったことがあるトノサマカエルだけである。
 で、私は、無邪気に泳いでいるおたまじゃくしを見ながら、トノサマカエルが「金魚に尻尾をつつかれないように、ね」と言っていると感じたのだ。
 これは「非現実的」なことだから、せいぜいが、安田がトノサマカエルになって、そう言っているというのが、ぎりぎりの「読み方」なのだろうけれど。
 私はなぜか、その「ぎりぎり」を越えてしまう。
 そんなふうに安田が思ったとき、安田の「肉体」は人間の肉体ではなく、おたまじゃくしの「肉体」になっている。おたまじゃくしの「肉体」を共有している。それだけではなく、トノサマカエルの「肉体が覚えていること」も共有している。--人間の「肉体」よりもトノサマカエル、おたまじゃくしとつながる「肉体」の方が多くなって(?)、強くなって(?)安田の人間の肉体を超えてしまう。
 この不思議なトノサマカエルとおたまじゃくしの肉体の感じ、その肉体が覚えていることをくぐりぬけてしまうと、そこにはもう「人間」は必要がない。
 で、読み返したとき1連目の「子ども」を私はトノサマカエルの子どもと思ってしまったのだ。そしてさらに楽しくなったのだ。

 でも、トノサマカエルの子ども(といっても、おたまじゃくしではなく、カエルになって成長したちびカエル)は、なぜ、おたまじゃくしなんか掬ってくる?
 なぜ? それが問題。

独り身のやせカエル
(心配だった)

 そうなんです。子どものカエルはお父さん(たぶん)が「独り身」でやせていることが心配だった。自分を育ててくれるお父さんが、やせていて、独り身であるということが心配だった。子どもはきっとオスだね。
 だから、おたまじゃくしを掬ってきた。おたまじゃくしがおとなになって、お母さんになって、お父さんと結婚して(あ、順序が逆か)、子どもがたくさん生まれて、賑やかになればいいなあ、そう思ったのだ。
 そんな非論理的な、童話みたいなことがあるはずがない--のだけれど、私はどうしてもそう読んでしまう。「誤読」してしまう。
 「独り身のやせ蛙」という感想が安田(人間)のものだとしても、そんなふうに人間以外のものに対して、それが人間であるかのように感想を持ったときから、安田の「肉体」はカエルになっている。カエルの「肉体」を共有している。
 だからこそ、そのカエルの「肉体」が、そのままおたまじゃくしの肉体ともつながり、おたまじゃくしの肉体とつながることで、トノサマカエルの「肉体」が金魚におしりをつつかれたこと(覚えていること)を思い出すのだ。
 それは

ふふふふふ

 としかいいようのない、おかしみである。

 もうすぐ春だ。おたまじゃくしが金魚におしりをつつかれているのを見ながら「ふふふふふ」と笑ってみたいなあ、と思う。そのとき私はトノサマカエル? それとも笑われるおたまじゃくし?



外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
梅田 智江/谷内 修三
書肆侃侃房
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クエンティン・タランティーノ監督「ジャンゴ 繋がれざる者」(★★★)

2013-03-03 20:57:21 | 映画
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 クリストフ・ヴァルツ、ジェイミー・フォックス、レオナルド・ディカプリオ、サミュエル・L・ジャクソン

 クリストフ・ヴァルツがとてもいい。こんなものはどうせ映画、という感じで楽に演じている。狂言回しという役どころだから、この感じがとってもいい。
 前にアカデミー賞をとった、なんだっけ、ドイツ人将校のときもそうだったけれど、その人物に没入してしまわない。あくまで演じる。演じながら、「本人」を見せる。
 まあ、その見せている「本人」も演じられているものかもしれないけれど。
 役者というのは、そこで演じられている「人物」そのものであるとき、その演技を名演ということが多いのだけれど(まだ見ていないけれど、「リンカーン」のダニエル・デイ・ルイスがその代表例だね。スクリーンをとおして見るのはあくまで「リンカーン」であってダニエル・デイ・ルイスではない、というときに、「名演」と呼ばれる。だから……「ヒッチコック」では主演がメークでそっくりさんをやるね。うーん、悪趣味)、私はそういうのは好きじゃないなあ。
 その「人物」を演じるふりをして、自分を見せる。そういう役者が好きだなあ。
 役者というのは、そこで演じられている人物の「過去」をもってスクリーンにあらわれないといけない。(舞台では、もっとその要求の度合いが強くなる。)役者がもちこむ「過去」を存在感というのだけれど(私の定義では)、その「存在感」が「役」を突き破って動くとき、なんとも楽しい。「役」にしばられずに、のびのびした感じになる。
 代表的なのが「ローマの休日」のヘップバーン。だれもどこかの国の王女なんて感じでヘップバーンを見ていない。若くて輝きに満ちたおてんば(?)な少女はこんなに美しいのか、とそれだけの感じで見ている。ストーリーは付録だね。ここまでいくと、完璧にスター。役者じゃなくてね。
 クリストフ・ヴァルツにも、何か、そういう匂いがある。ストーリーを突き破っていく「なま」な感じがある。
 賞金稼ぎで、金のためなら子どもの前でも人を殺すということに対して平気なのだけれど、その一方で「奴隷制度」には反対だし、黒人差別にはもちろん反対。そういう奇妙な役を演じていて……。途中、ジャンゴの妻の話を聞き、ジークフリートの神話を思い出し、急に、その神話のなかの「ドイツ精神(?)」に触れて、一気に純粋になる。--まあ、このストーリーはクリストフ・ヴァルツにあわせて作り上げたものなのかもしれないけれど、その部分で、「役」でありながら、「役」を超えて、ドイツ人の「神話」の顔がいきいきと出てくる。遠く離れて座っていたクリストフ・ヴァルツがジェイミー・フォックスに近づいてきて、話をつづける。そのときの表情なんかが、「西部劇」を完全に超越する。「奴隷制度」も超越する。あ、この人は、こういう「物語」を生きているんだ。つまり、こうい「過去」をもっているんだ、ということが、なんというのだろう、ストーリーの「説明」であることを超えて動きだす。
 これがあるから、ディカプリオと会ってからのクライマックスの急展開に説得力がある。ひとりの人間としてディカプリオのようなアメリカ人が嫌い、というのではなく、ドイツ魂としてアメリカ人の根性が嫌い、という感じで感情が爆発する。その爆発が「きれいごと」じゃなくて、ドイツ魂として噴出する。これは、ほかの役者じゃできないねえ。
 目がいいのかもしれないなあ。「目はこころの窓」という言い方があるが、クリストフ・ヴァルツは、演技をしながらも、目だけは「ほんもの」のクリストフ・ヴァルツを出しているのかもしれない。何か、引き込まれる。だから、この映画のように、まるで「マンガ」みたいに誇張した動きをしても、それが美しい。
 レオナルド・ディカプリオは黒人奴隷同士を死ぬまで戦わせて、片一方が死んだとき、つまり自分のもっている奴隷が勝ったときの無邪気なよろこびの爆発などの演技は、「ほんもの」が出てきておもしろいけれど、クリストフ・ヴァルツの「目的」を見抜いてからの、「悪人」の演技がだめだね。「ほんもの」が出てこない。あそこで、クリストフ・ヴァルツみたいに、残酷さを「ほんもの」として出せるといいんだけれどなあ。だれでもがもっているピュアな残酷さ、狡猾さというものが出ると、サミュエル・L・ジャクソンを「右腕」として離せない根拠のようなものが浮かびあがり、映画が濃密になるんだけれどなあ。
 でも、まあ、これは「お遊び」映画だから、そういうことはどうでもいいのか。いや、「お遊び」映画だからこそ、そういうところが大切なんだと思う。クエンティン・タランティーノも馬鹿な奴隷運搬人を演じて遊ぶだけではなく、もうちょっと、役者にも「遊び」の演技の大切さを教えないとね。レオナルド・ディカプリオとクリストフ・ヴァルツの後半の演技にディカプリオ「なま」が出てくると、この映画は傑作になる。いや、それが「なま」でなくてもいいのだけれど、えっ、ディカプリオって「ほんとう」はこうだった?と錯覚させてくれる「なま」が出てくるとうれしいんだけれどなあ。
 サミュエル・L・ジャクソンなんか、「ほんもの」はどうかしらないけれど、そうか、これが「ほんもの」かと思わせるところがあって、やっぱりぐいとひっぱられる一瞬がある。いや、ほんとう、ディカプリオが、この映画の「疵」だね。私はディカプリオが大好きだけれど、そう書かずにはいられない。
                        (2013年03月03日、天神東宝1)




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築山登美夫「墓を探す」

2013-03-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
築山登美夫「墓を探す」(「LEIDEN雷電」3、2013年02月05日発行)

 築山登美夫「墓を探す」は墓地で墓を探す詩である。

その人の墓はとてもちひさくて
芭蕉よりも西行よりもちひさくて
さがすのに骨が折れますよ
それだけ云ふと女は足早に立ち去つた

 「ちひさくて」「云ふ」「去つた」という文字のつかい方が、「いま」というか、私の「いま/ここ」とは違う。それが、この詩の場合、不思議としっくりくる。「いま/ここ」ではなくて、それ以前の世界へ入っていくのだという気持ちになる。まさに「墓」の人物が生きていた時代--過去だね。だけれど、それを「過去」と呼んでしまうと、また、違うんだけれどね。簡単に時間を区切れない何か、時間の奥へどうしようもなく(?)滑っていってしまう感じ。

せまい通路のひとすぢを縫つて歩いた
女の顔には見おぼえがあつた

 「見覚え」。その「覚えている/こと」が旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)のなかでうごめいている。自覚していない何かが(けれども覚えている何かが)、動く。その動きは、しかし間違ってはいない。その「間違いのなさ」あるいは「確かさ」のようなものが、たぶん旧仮名遣いのなかにあって、それがことばの運動全体をささえている。そういうことばの動きと、この詩は呼応している。

生前その人とは会つたことがなかつた
なのになぜその人の墓をさがしにきたのか
女はきつとその墓の後ろに佇つてゐる
Sさあん、Sさあんと、呼ぶ声が遠くからひびいてゐる
私の名ではなかつたがなぜか私に救けをもとめる声に聞こえてくるのがふしぎだ
墓と墓の間の通路をいくらたづね歩いてもその人の墓は見つからなかつた
            (谷内注・「ひびいて」は原文は送り字をつかっている。)

 生前に会ったこともない人の墓を探す--というのは、日本語のなかに「旧仮名遣い」を探すのに似ていないか。
 これは、私の感覚の意見なのだが、似ていると思う。
 会ったことがなくても、そのひとは生きていた。そういう事実がある。私は旧仮名遣いでことばを書いたことはない。(と、ここで私は築山の体験ではなく、私の体験から語るのだけれど--つまり、半分テキストを離れて、「誤読」をするのだけれど。)その書いたことのない旧仮名遣いは、やはり生きていた。そして、その生きていた証拠をいまでも「古典」のなかに読むことができる。墓を見ることで、その人がほんとうに生きていたことを確かめるのに似ているかもしれない。その人は、もう「いま/ここ」にはいないが、その人の影響が「いま/ここ」にまったくないかといえば、そんなことはないだろう。「覚えている/こと」を思い出すとき、その人は「いま/ここ」に生きている形で存在する。同じ感じで、旧仮名遣いを読むとき、そのことば(文字遣い)が、「いま/ここ」で生きているものとして動く。
 「いま/ここ」とは完全に切断しきれないものが、「覚えている/こと」のなかにある。そして、その「覚えている/こと」というのは「個人(たとえば築山)」に限定されないのだ。築山が、その人を覚えていなくても、誰かが覚えている。誰かではなく墓石が覚えている、ということさえあるかもしれない。旧仮名遣いも、私が覚えていなくても、たとえば築山が覚えている。そして、そんなふうに「個人」が覚えたものであっても、個人が人間であるとき(墓石も、人間が作り上げたものだから、そこには人間の要素?が少なからずある)、それは「個人」を越える。

Sさあん、Sさあんと、呼ぶ声が遠くからひびいてゐる
私の名ではなかつたがなぜか私に救けをもとめる声に聞こえてくるのがふしぎだ

 「私(築山)」ではないけれど「Sさあん」が「私」に思える。それは呼ばれるという「こと」、呼ぶ声が遠いという「こと」が、「いま/ここ」にいて墓をさがすという「こと」とどこか重なるからだ。築山は、墓の間を歩きながら、その人の名を呼んでいる。それは呼べども呼べども声が届かない。そういう「こと」が重なるからだ。
 そして、この「こと」の重なりあいが、旧仮名遣いで書かれたこの詩を読むとき、私のなかでもうひとつの「こと」と重なる。旧仮名遣いは「いま/ここ(谷内の日常)」にはないけれど、どこかで、そういう「声」があり、それは日本語を呼んでいるようにも感じられるのである。私のつかう日本語ではない、それは私ではないが、どこか私を呼んでいるように感じる。「旧仮名遣い」のうごきが「肉体」のなかにひびいていく。

 こんな奇妙な読み方は築山はもとめていないかもしれない。築山はまったく違うことを書きたいのかもしれない。そうかもしれないけれど、旧仮名遣いで書かれていたからこそ、その声が私に強くひびいたきたということはある。いまの仮名遣いで書かれていたら、私の感想は違ったものになっただろうと思う。


悪い神―築山登美夫詩集
築山登美夫
七月堂
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石毛拓郎「ゆめつぶしうた」

2013-03-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
石毛拓郎「ゆめつぶしうた」(「飛脚」創刊号、2013年03月01日発行)

 石毛拓郎「ゆめつぶしうた」はイチゴをつぶす詩である。

さあ
つぶして ごらん
ときを かけて
いまにも くさりそうな
うれすぎた いちご
それ
それの ひとつひとつを
おまえの ゆびの はらに
のせて

 「いまにも くさりそうな」ものなんかに触りたくないなあ。なんで、「ゆびの はらに」なんて指定されなくてはいけない? スプーンじゃだめ? だいたい、なんのためにつぶすの? 私は果物が大好きだけれど、イチゴのように歯応えのないのは嫌い。食べている感じがしない。捨てちゃいたい。
 でも、石毛は、さらに言うんです。イチゴをつぶしなさい、と。私に恨みでもある?

さあ
つぶして ごらん
すりつぶす ときの
ゆびに ひろがる
うつろな いのち
血と肉
すりつぶされた いちごの
いきる ほこり
いきを ふさがれた のぞみ
それ
それでも おまえの
ゆびの はらを のがれ
もえたぎる みちを うむ
うまれかわる よろこび

 でも、こんなふうに言われると、ちょっと気持ちが変わる。
 石毛は、イチゴに同情して(?)、「いちごの/いきる ほこり/いきを ふさがれた のぞみ」と書くのだけれど、これを読んだ瞬間、石毛の「私に対する恨み(これは、誤読--ゆえに絶対正しい)」に反抗するように、私の肉体のなかで、イチゴをぎゅうとつぶしたい欲望が湧いてくる。「ゆびの はらを のがれ/もえたぎる みちを うむ/うまれかわる よろこび」なんて、許さないぞ。「ゆびのはら」でイチゴの「はらわた」が出てくるのを確かめてやる。生きているものが、ぐにゅりと変形し苦しむのを見て、にやっと笑ってやるぞ。イチゴが「うまれかわる」なら、私だって生まれ変わる。イチゴを殺したって、だれも文句は言わない。「くさりかけた」イチゴじゃないか。殺さないと死んでしまうイチゴじゃないか。
 さあ、正義の味方じゃなくて、イチゴの味方の石毛、どうする?

さあ
つぶして ごらん
ゆびに ふるえて のこる
まっかな 血と肉の
つぶつぶ
つぶされても つぶされても
なお のこる
のこらねば ならぬ
それ
つぶつぶ
たねの ゆめ
ちまみれに のこる
つぶつぶ

 うーん、しつこい。「のこらねば ならぬ」というのなら、種くらい残してやるさ。勝手に残っていろ。私は、手を洗って、はい、さよなら……。

 というのは、まあ、一種の誇張した私の感想だけれど。
 読みながら、奇妙な気持ちになる。なんだか「汚い」気持ち。汚さを感じる。「くさりかけた」というイチゴのもっている性質が汚い。それに反抗するように、そんなものに負けないさ、つぶせというならつぶしてやるさ、と動く私のこころが汚い。さらに、そのつぶされたイチゴを「血と肉」ということば「いのち」ということばで、あたかも大事そうに言いなおす石毛の根性が汚い。だって、さっき「くさりそうな」と平然と言っていたのに、突然、イチゴの味方をするなんて、変じゃないか。--という具合に、揚げ足取りみたいなことをふっかける私の根性も汚い。さらに、「くさりそう」だったのに、突然、石毛のことばにあわせて「いきる ほこり」とか「うまれかわる よろこび」とかになってしまうイチゴもずるいし、汚い。もう、手はべたべた。イチゴに汚れているふりをして、もっと別なものに汚れている。入り組んだ欲望に汚れている。
 めちゃくちゃにつぶしてしまいたい。つぶされながらも、生きているのがわかるかい、と反抗するイチゴになってみたい。そういうことを書くこと、ことばにすることで、ふたつの対立する欲望が、つまり矛盾が「ゆび」という肉体を媒体に、イチゴと人間の肉体を行き来するという世界を明るみに出したいという「理想」にも、たぶん、汚れている。
 なんだか、とても危ない。
 でも、そこが魅力。つまり、汚いはずなのに、そこが美しい。汚いは美しい。危ない。--矛盾している。矛盾ほど危ないものはない。でも、だからこそ、それをもっと見てみたい。

それ

 三つの連でくりかえされる「それ」という一行。
 「いま/ここ」にあるものを、そして直接触れているものを「これ」ではなく、「それ」といったん切り離して(客観化して)、そこからことばが反転する。ことばの動きが矛盾というとおおげさかもしれないけれど、何かかわる。
 どんなものでも「見方」をかえれば、だれの「味方」であるかもかわる。
 「肉体」は、同じ位置にありながら、その内部で動くものが別な方向にかわる。変なことが「肉体」のなかで起きて、そういうことが起きても「肉体」は「肉体」のまま、同じでいられる。
 ほんとうは「同じ」ではないのかもしれないけれど。
 このあたりの、非論理を、石毛は、ことばで「ぐい」と進む。状況に対して「ぐい」と身を捩じり込ませる。(そういうことは、同じ号に載っているエッセイを読むとわかりやすく伝わるかもしれない。)
 で。
 だから(?)。
 と、私はいつものように「飛躍」するのだけれど、こういう詩に対しては、私が書いたように、こんなものを読ませて、石毛、私に恨みでもあるのか、と怒るのが絶対的に正しい反応である。たとえ、あ、おもしろい、いいじゃないか、気に入ったと思っても、そんなことは言ってはいけない。そんなことを言って、石毛を喜ばせてはいけない。図に乗らせてはいけない。そんなことをすれば、「おれはこんな危ないことも知ってるんだぜ」とさらに汚くて危ない詩を書いて自慢するに違いない。
 危ない遊びは、誰か(友人)と共有するものではなく、私はそんなことはしないとそっぽを向いて、友人がいなくなったのを確認してから、隠れてひとりでするものである。こっそりと、友人の教えてくれた「汚い」危険を上回るスリルを味わって、友人を出し抜くことが正しいつきあい方である。



詩をつくろう (さ・え・ら図書館)
石毛 拓郎
さ・え・ら書房
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